#2 「風呂」

 感覚がズレる。

 サイズ、神経伝達、聴覚。

 それらがそれぞれ違和感を主張し、理想と現実を叩きつけられる。


「――――ッ!」


 筋力も指の長さも身体的経験値も。

 何もかもが不足している。


 拙い音がリビングに響く。


「……す」


「?」


 ギターを後ろから支える叔母が在処の肩の上から口を開いた。


「すっごいじゃないっ!」


「うっ!」


 耳元で大声を出されたせいで耳鳴りが在処を襲う。

「あーん、ごめんね~」と在処の耳を優しく撫でる。


「それにしてもいきなり弾くなんてすごいじゃないの。

 いったいどこで覚えたの?」


「見て覚えた」


「見て? どこで?」


 在処はリビングの壁際にあるノートパソコンを指差す。


「最近できた動画サイトで見たんだ、ちょっとこっち来て」


 百聞は一見に如かず。

 すぐに電源を付け、ノートパソコンを立ち上げる。


「へぇ~、最近はこういうのもあるのねえ」


 感心したように動画サイトのトップページを眺める。


 在処は慣れた手つきで動画を開いた。


「こんな感じの見てる」


 開かれたのはほとんど無編集に近い演奏動画。

 動画編集の素人感とは裏腹に洗練されたピッキング技術が動画内で披露されている。

 顔は映っていないが、手のシワの具合からそこそこ歳をとった男性だというところが見て取れる。


「……この人、うまい。うますぎるくらいね」


 何度も動画を止め、真剣な面持ちで言う姿は以前、在処が叔母から自慢気に見せられたインディーズ時代のライブ映像の表情と非常に似ていた。


「なるほどお……なるほどねえ。で、こういうのずっと見てたんだ?」


「う、うん」


 先の表情から一転、向日葵のような笑顔で在処を抱きしめ、そのまま脇下へ腕を滑り込ませて抱き上げた。


「うぉっと!?」


 急に抱き上げられた彼女は驚きで目を白黒させ、叔母を見下ろす。


「うちの子すごすぎっ! こんなに可愛くて家事ができてギターも見ただけで弾けるんだもの!

 もう昔使ってた機材好きなだけ使いなあ! ね!」


「えっ、ちょっ!」


 さらりと数十万、いや、3桁万円はするであろう機材を譲ると言っている。

 突然のことに在処の脳の処理が追いつかない。


「んぐ……んしょ」


 ひとしきり満足したところで床にゆっくりと降ろされ、「ふう、歳かな……」と腰を少し抑えている叔母。


「お義母さん、さっきのって」


「ん? 機材あげるっていうのは本当だよ」


「……いいの?」


「もちろん。私自身、ライブハウスの経営でほとんど演奏することもないし、

 それにだいぶ埃が被っちゃうくらい触ってなかった機材だもの」


 叔母はどこか懐かしむように窓の向こう側にある夜景を見つめている。


「ああでも、だからってミュージシャンで稼ごうとかは考えなくていいよ。

 趣味で、自由気ままでいいの。ありかのやりたいように、使いたいように、好きにしていいの」


「好きに……」


「そう、好きにしていいんだよ」


 在処は前世を思い出していた。

 いつしか音楽を楽しむことを忘れ、生活の為に作曲し、作詞し、楽器をただ鳴らすことだけに終始していた記憶。

 楽しむこと、楽しまないこと。生活の為の商売道具として利用すること。

 それらに正しい、正しくないと善悪はつけられない。


(そうだ。人の数だけ音楽の在り方がある。それを死後、この9年の生でゆっくりと整理していた)


「分かった。もらうね、お義母さん。

 私の好きなように使わせてもらうから」


 口角を少し上げ、穏やかに微笑んだ。


「……姉さん」


「へ?」


 叔母は思わず出た言葉に口を抑えて、紛らわすように捲し立てる。


「んんっ! なんでもないっ! よし、じゃあ明日は休みだし、部屋の掃除も兼ねて機材を運びましょうか!

 明日に備えて一緒にお風呂入っちゃいましょ!」


「え、もう入っ「いいからいいから!」……しょうがないなあ」


 元男性の女の子9歳。

 ずっと一緒にお風呂へ入れられていたことですっかり慣れてしまった。


(なんだか複雑だ。でもまあ、明日が楽しみだな)


 彼の心はいつになく踊っていた。

 純粋にギターに触れることを楽しめる時間は大人になってしまえばそう多くはない。

 しがらみの無い時間の貴重さは十二分に身に染みている。


「あっ! こらっ! お義母さん靴下もちゃんと籠に、って、はあ」


 脱ぎ捨てられた靴下を拾い、心の中でどちらが子どもなのか分からないとため息をついた。




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