創作物の完成品基準って ⦇大長⦈

 こんにちは、たてごと♪ です。

 ぼくはもう宿題が出るような身分でもないけれど、問題は山ほど出てくるのであのころに帰りたいです‼


 ……はい(

 なんかずっと、「ペン」について悩んでまして。

 いや、とある漫画で、ありふれた小道具として出てくるそれなんですけどね。

 それはお貴族サマの持ち物で、美麗なレリーフなどほどこされてて、まあ立派なものでして。

 いい感じですよね、そういうの。


 ただそのペン、なんかこう、めピンが付いてるんですね。

 ポケットとかに差し込むときに、落下を抑えるためにふちに掛けつけるアレです。

 「おやぁ?」って、思ってしまいまして。



     †



 このペンのめピン、現代だとありふれてて、何気ない部品なんですけども。

 貴族たちの存在するような、中世ヨーロッパ的な舞台で登場してくると、途端に不自然なシロモノになり果てるんですよ。

 というのは、そのようなめピンって当然、簡便に持ち運ぼうというニーズを満たすために、こしらえるわけですけども。

 ニーズのない物って基本、作られませんからね。

 でもじゃあ中世のような舞台で、そんなニーズが発生しうるのか、っていう。


 まずもって、貴族が民衆たちの上に立つ状況とは、専制主義体制というもの。

 その状況だと貴族らには強い権力が集まって、彼らの書きあらわすその文字までもが、とんでもなく大仰に扱われるようになるんですね。

 たとえば森林とかをらついて、その場で〝なんと美しき木々のさおよ〟とかポエムしようものなら、その森林は民衆たちに神聖化されて、立ち入り禁止になってしまうかもしれません。

 なぜそんな事になるかって、お貴族サマがそのように評したたいしょうないがしろにしたら、むちたれるかもしれないからです。

 また同時に尊敬のたいしょうでもあるので、かつな事をすると貴族の部下らや周囲の民衆たちからも、きゅうだんを受けます。

 貴族の言葉ってそれくらい「冗談じゃ済まない」もので、現代の政治家たちのそれみたいに、軽く流せる性質のものじゃないんですよ。

 紙に文字として残さなくとも、ただ口ずさんだだけで似たような扱いになる場合もあるんで、相当きゅうくつだったと思いますよお貴族サマたち。


 もちろん、ひと口に貴族とったところで、いろんな形のものが考えられはするでしょう。

 でしょうけど、なんの説明もなしに貴族ということばが登場したとき、ふつう現実のそれに即したものとして解釈されるはずです。


 というわけで貴族というのは基本、屋外で物書きをしたりはしません。

 ただのメモ書きでもそんな事になるんですから、正規の文書なんかもっと厳格で、だから物書きというのはかならず、ていとかの「しょさい」で行なうんですね。

 そんな特別な部屋を用意するくらい、物書きっていうのは特別な行為だったんですよ。

 だから筆記用具だって、大層な箱にしまわれたりしてとてもていちょうに扱われたもので、そのへんのふちなんかに掛けつけて放置とかも、考えられない事だったんですね。

 そうやって屋内にこもりがちになって、ほぼ日焼けしないせいで〈はだの静脈もよくうかがえる〉ってことが貴族たちへの〝青い血〟ってべっしょうゆえなのも、有名な話ですが。

 そんな状況で、ペンの持ち運びのニーズって、どれだけ発生する?


 いやまあ測量やら実地調査やらで、屋外で物書きをするニーズは当然あるんですけども。

 証拠能力をもつ文書を記述するわけで、その気になれば事実や歴史をも簡単にじ曲げれますから、それなりに信用ある人たちが担当することになります。

 そういう役職が「しょ」と呼ばれるもので、とりわけ機密事項を記述する「しょ」はとんでもなく信頼のあつい書記、という事になるわけですが。

 そんな大事な文書のための筆記用具とは、ハンコとほぼ同列の物であるわけで、なのに気軽にポケットなんかに突っ込んで持ち運ぶわけが、ありますかい。

 そんなぞんざいに運んだら、めピンが有ろうが紛失するかもしれないし、そしたら仕事ができなくなるじゃないですか。

 ちょうどいい場所に文房具屋があったりするような環境じゃないんですよ。


 民間での日常的なメモ書きだったらその限りじゃないだろう、ってふうに一瞬思えるかもしれませんが。

 その場合にはそもそも、まともな筆記用具がほぼ手に入りません。

 炭や粘土などを固めた物か、ろうばんくらいがせいぜいでしょう。

 だいいち民衆全体に「義務教育」でも課されてないかぎり、識字率なんか無いに等しい状態になりますから、伝達を文字でやろうってニーズからしてまず有りません。

 〝職人のワザは盗んで覚えろ〟とかいう、理不尽な教訓もきっとこれ由来でしょうね。



     †



 そういえば余談になりますけど、識字の話。

 これ、義務教育ってすげえ大事だなあって思いまして。


 と言うのは、うちのばっちゃが子供のころ、ちょうど世界中でドンパチやってる真っ最中()でして。

 学校に行けなかったんですよ。

 その結果、日常会話にはほとんど問題無いのに、文字の読み書きには異様に苦労するようになってしまったんですね。

 ひらがなやカタカナでさえ、不慣れな人が英文を読み上げるかのように「解読」していましたし、書くのなんかもう「でも打ってるのか」ってくらい考え込んでしまう。

 買い物のためのメモを用意するだけでも大仕事です。


 とはいえ、長年それで暮らしてこれたゆえに、「文字を難なく扱えるようにがんってみよう」だなんてモチベーションなんか、持てるはずも無い。

 小さいころに集中して訓練しとかないと、やっぱり難しいみたいなんですよ読み書きって。

 ほんと、ちゃんとした義務教育のある時代に生まれてよかったと思いますよ。

 ろくに自己表現もできなくなりますしね。


 ……そういや冒険者ギルドって、文字で案件掲示したり、文書で手続きやってたりするけども。

 あすこのあらくれ者ども、あいつら一体どこで文字覚えてくるんだ……?(



     †



 かん休題、そして最極いちばんの問題が。

 ペンにはご存じ、インクというものが必要でありまして。

 そのインクどうすんのよ、っていう。

 ペンをポケットに入れる利点というのは、「書きたいときにすぐ取り出せる」ってところに有るはずで。

 なのにインクつぼを、かばんとかから別途取り出す必要があるなら、まるで意味が無いでしょう。


 インクをあらかじめじゅうてんできるものとしては、古くから「はねペン」がありまして。

 鳥のはねは、そのしんが中空になっているので、羽先のほうから口でインクを吸ってじゅうてんして、ろうで滑らかにした羽元のほうで紙に字を書いていくものですね。

 ああちなみに、「はね」はもともと〔〕が語源の「」で、言いにくさの改善のために{え=ね}が付いたもの。

 つまり{}は当て字ですよ、この言葉に〔根〕って意味わからんでしょ。

 ともあれ、中世ではこれが中心に使われてたんですけども、当然ながら雑に扱ったらつぶれますし、使わないときにじゅうてんすると周囲の物を汚します。

 インクが乾いても詰まってもう使えなくなりますから、ポケットに入れての持ち運びには適しません。

 という事で、ポケットに入れて持ち運ぶペンというのは、「万年筆」である必要があるんですよ。


 ところが万年筆も、現代ではありふれたアイテムですが、実はメッチャ高レベルの技術が無いと作れないんですね。

 インクタンクから適切な量のインクをペン先へ伝えつづける、っていうからりを実現しなきゃいけないんですが、これがひたすら難しい。

 密封容器に小さな穴を開けるだけではインクは出てきませんし、かといって穴が大きすぎては漏れますし、インクが乾いてもダメ。

 あらゆる角度のかたむきにも耐えなきゃいけないし、さいじゅうてんのためにはおそろしくみつふたも必要になる。

 プラスチック素材が利用できればだいぶ違うんですが、そんなものが中世的な舞台に有るはずがない。

 ちなみに中世というと一般に、ヨーロッパ史での5〜15世紀を指します。

 日本中世と限定すると鎌倉〜室町時代、すなわち12〜16世紀という事になりますが、まあここではあんま関係無いか。


 つまり万年筆は、18世紀後半に起きた産業革命、少なくともこれより後の技術レベルでの産物なんですよ。

 実際の万年筆の登場は、19世紀です。

 というか、万年筆のペン先である「金属ペン」も、産業革命のあたりで登場したんですけど、こちらは中世レベルでの技術でもどうにかなるかなあ、とか。

 ちなみに、中世レベルの技術とはどんなものかと考えるとき、「素材入手とその加工を自分の手で全部できるか」という想像が、ある程度参考になりますよ。

 ただしそこにはバネとかの部品やら、ノコギリとかの工具やらも含まれますけどね。


 あとその金属ペンというのが、漫画家がよく使う「Gペン」のたぐいのアレのことで、別称「つけペン」。

 まあつまり現存してはいるんですけど、デジタル化に押されてすたれてきてますかねえ、、

 あれもこれも消えていく、時代の流れを感じる……もうトシですかね(


 というわけで、それ以前のレベルの環境に万年筆があったとしたら、文句なしの


  ◦オーパーツ( out-of-placeアウト・オブ・プレース artifactsアーティファクツ → oopartsオーパーツ〈場違いな工芸品〉)


だって事になるんですわ。

 だから自動的に、ペンにめピンが付いてるのも畸怪おかしい、ってわけですね。


 同じく産業革命以降の産物としては、「伸縮性のある布」などがあります。

 それ自体は大昔からあって、毛糸などを使って手編みで出来るんですが、セーターなどを思い浮かべればわかるとおり、どうしてもあらくなってしまう。

 下着やジャージみたいに細かいものには、その複雑な手編みを微細なレベルでこなせるような、メッチャ高度な造りの機械が必要なんですね。

 そんな物をガチで手編みしようものなら、片手でかぞえれるほどしか歴史上に登場しないような超絶技巧職人が、これまた機械でなきゃ製造できないような超微細な編み具でもって、長期間掛けてやらにゃああかんわけで。

 そうなるともうパンティー1枚だけで、国家がかたむくほどの値段になってしまうものと思わ


 ……パンティーなら国がかたむいてもしょうがないか(



     †



 中世ヨーロッパじゃなくて、〈ご都合主義的な疑似ヨーロッパ〉こと〝ナーロッパ〟ならいいだろう。

 そういう意見もあるかもしれませんが、でも言い訳がそれだけじゃ、全然足りないんですよ。

 何をどう言おうが結局、産業革命より後の技術レベルが、万年筆製造の必要条件であるわけで。

 そのレベルの技術が存在するんなら、舞台は中世的な光景を保ってはいれないはずなんですよ。

 ぶっちゃけ万年筆って、電力実用化よりも後の登場ですから、でんとうのひとつくらいともってたって畸怪おかしくない状況です。

 物理的な風景だけじゃなくて、人々の意識にも当然影響するはず。

 そういったものが一切みられないのならば、さすがに不自然が過ぎやしませんか。

 そういう話に、「ナーロッパ」だけで言い訳が足りると思います?

 一見、細かい話のようかもしれませんが、「アイテムなめんなよ」と。

 さいなディテールが大きく影響する、なんて事は当たり前に起こるんですよ。


 そして今は、便利な時代になったものでしてね。

 物品や技術の登場時期って、Webウェブけんさくですぐ調べが着くんですよ。

 あるいは『ChatGPTチャットジーピーティー』先生にお出ましいただいても、いいかもしれません。

 昔の作家さんってすげえ苦労して、カネ散らして取材にあちこち飛び回ってまでして、検証をやってたもんでして。

 これは話にリアリティを持たせて、読者の没入感を高めさせるために、そうしてたわけですけども。

 それが圧倒的に簡単になった、今の人たちのほうが、そこサボっちゃうのか。

 そう思うとちょっと、モニョモニョきますねえ、、



     †



 まあ架空の舞台だと、いちおう逃げ道は考えられます。

 〝ナーロッパ〟だったら、魔法くらいは有るでしょう(

 それなら、そのペンは「魔法的な加工手段で作り出された」みたいな設定があれば、不整合は解消するかもしれません。

 ところがそうすると、今度はまた別の問題が出てきてしまうものでして。

 つまり、そういう製造方法が一般的に確立されているって仮定すると、


  ◦ それ本当に「魔法」なんですか?


っていう疑問が出てくるんですね。


 そもそもぼくらは、何をもって「ほう」と呼ぶんでしょうか。

 〈未知の手続きによって不可思議に、特定の現象を起こさせる手法〉を、そのように呼ぶわけですよね。

 だから例えば、しばしば手品のことを「魔法マジック」と呼びますし、PCのような高機能な機器を「魔法の箱」と呼んだりすることも、有るかもしれません。

 ただそれは、そう呼ぶ人にとっては仕組みがさっぱりわからず、「まるで魔法のようだ」って的な意味合いで、そう言ってるわけですよね。

 実際には何らかの確かな仕組みがあるって、「本当は魔法などではない」って、認識されてるはずのやつでしょう。


 だとしたら、果たして魔法が当たり前に存在する世界で、魔法は「魔法」だと認識されるものでしょうか。

 もちろんその世界の住民全員に、魔法をたしなむ事ができるわけでもないでしょう。

 でも「魔法使いという職業」やら「魔力回復薬」やら「魔法学校」やらが有ったとしたら、それは「一般には理解しがたいけど何らかの確かな仕組みがある」って認識になりませんか。

 その場合、人々はそれを「魔法」と思うでしょうか。


 じゃあ「魔法」と呼ぶのがとうな場合とは、どんなものか。

 たとえば本当に限られた人物によってでしか、それを実現できない場合。

 あるいは忌まわしき存在とみなされる種族がいて、それが「魔族」と呼ばれていて、その彼ら固有の手法だった場合。

 そういった場合には、「魔法」と呼ばれてしかるべきでしょうね。

 ただそれらは、あくまで特定の人々や、忌まわしき種族による手法なわけで。

 自然、嫉妬や忌避のたいしょうになるでしょうし、それを理由に迫害を受けたりするかも知れません。

 現実にあった〝魔女裁判〟の大義名分もそれでしたし、だからこれを極めた者が「賢者」としてたたえられる事だって、まず無いでしょう。

 忘れられがちなのかもですが、〔魔〕って字は〈人を惑わして害を与えるもの〉って意味なんですよ。


 そういえばまた余談、ことばの定義の話になりますけども。

 「魔法」と「魔術」をすげえ区別したがる世界観、あるますよね。

 区別の根拠あんまわからない感ありますけども、それぞれどういう「意味」のことばだと思われてるんでしょう。

 そもそも〔法〕とは、〈規範となるやり方〉のこと。

 一方で〔術〕は、〈目的を達成する手段やそのための能力〉のことですね。

 じゃあ結果的に同じもの、というか「術」が「法」を含んでるでしょこれ。

 強いて言えば〔法〕のほうは多少、「正規」のニュアンスを含んでるかもしれませんけどね。


 もうひとつ、「魔導」ということばが登場してくる場合もありますけども。

 こっちは本当に何なんでしょう。

 たぶん〈魔的なものを伝える導師〉こと「魔導師」が、本来{魔‐導師}と区切れるはずなのを{魔導‐師}だと誤解されたことによる、本来存在しないことばなんじゃないかって思ってますけども。

 まあ新語だとして、づらからは〈魔力を誘導すること〉みたいには解釈できますけどね。

 でもこれって、「電導」や「指導」みたいにげんしょうやら動作を指す動名詞であって、手法を語る名詞じゃないんじゃないですか。


 ことばに勝手に独自の意味合いを乗せていってしまうのは、もはや当て字とも熟字訓ともつかない、「」とでも呼ぶべき何かなんじゃないでしょうか。

 中二病めいてておもしろいって思うかもですけど、実はむしろもないんじゃないか、ってふうにも思うんですよ。

 だって、何がどう違うのかが全然、伝わってこないじゃないですか。


 もちろんおもしろいと信じて書くぶんには、めようとは思いませんけどね。

 でも例えば、宗教について〝我々のかかげているものは宗教などではなく、うなれば定説である〟とかしたところで、宗教は結局宗教でしょう。

 そういう「くだらない論争ネタ」として出すぶんには確かにおもしろいでしょうけど、素で出されたら「何言ってんの」って感じじゃないですか。

 少なくともぼくは、そういうのおもしろいは思えないんですよねえ、、


 「魔法」と「魔術」と「魔導」をい分けることによって、何かが建設された例をぼくは知りません。

 もし有ったら、教えていただけると非常に助かります(



     †



 はいはいかん休題、ぼくやっぱ脱線多いよね(

 ともあれペンのめピン程度の、ちいさな要素をたった一つ登場させるだけでも、いもづる式に他の要素が、引っ張られるように影響を受けていったりするものです。

 この性質を忘れて創造をしてしまったとき、その世界は


  ◦「人形の箱庭」


になり果てるんですね。

 あるべき法則を薄めれば薄めるだけ、作り物にしか見えない世界になる、と。


 そうやって作り物っぽさが増すっていうのはつまり、それだけ「作者による作品への介入が浮き彫りになってる」って事なんですよ。

 作者の介入が露出した世界って、要するに「裏方がまる見えの自火自消マッチポンプ」ですよ。

 そんなものに没入できます?

 いや、人形をながめてるだけで満足できる人なら、それでもいいんでしょうけども。

 残念ながらぼくは、そうじゃない。


 そんなこんなでぼくには、出版された創作物については基準が一つ、ありまして。

 それは


  ◦ 作中の人物や出来事に怒りを感じたら及第

  ◦ 作品の作者に怒りを感じたら落第


というもの。

 そして、より後者にかたむいた作家の作品ほど買わない事にしよう、そのような作家をより多く抱える出版社はもう丸ごとけよう、と。


 この基準は主に、「ぼくかいな思いをしないため」にあるもの。

 そんな評価をいちいち下すのも、とらえようによっては横暴で、自分勝手な事なのかもしれません。

 とはいえ、出版物とは対価を支払って入手する物で、当然それは「楽しい思いをしたい」という目的があってこその対価、なわけですよね。

 お小遣いが青天井にあるわけでもなし、くらべて出版物は多数あります。

 そろそろ「足切り」をしても、許されるんじゃないですか。


 まあ確かに〝作者だって人間なんだしかんぺきとか無理なのよ〟という、きょうせざるを得ない理由もあるかもしれませかん。

 でも〝細かい〟という反論は結局、裏を返せば「無視できる細かい要素だ」でしかなく。

 要は、読み手の素直な感想を、我欲によってあしにするものです。

 もしそこでぐらをかいて、〝細かい部分には目をつぶれ〟と横柄な態度に出るのなら、さすがにいい気しないでしょう。

 どうしてこちらがおかねを出したうえ、商業作家の「接待」までしなきゃいけないんですか、と。

 かんぺきは無理にしても、ごまかす努力の形跡くらいはせめて見せてくださいよ、と。


 あくまで値段のついてる出版物の場合では、どうしてもそう思ってしまう。

 他にもっとちゃんとした作品が、同じくらいの値段で出されてるわけですし。

 まあつまり、「値段の問題」なのかもわからんですけどね。


 ただ実際、そういう無礼を感じさせられる作品が、〝おもしろい〟と思えた経験って正直無いんですよ。

 『「第二の目覚め」とAI』の節で〝おおざっな事をやっていたらデカい事はできない〟という話を出したんですけども、まさにそのとおりの話で。

 ほとんどのケースで、局所的ディテールに問題があったとき、大局的ディテールにも問題がみられる。

 つまり〝おもしろければ細かい部分はどうでもいい〟って言い訳が、ぜんぜん成立してない。

 「」んですね。


 確かに、おもしろいと思える作品にも、現実無視ばっかの物は有るんですけども。

 でもそういう作品だと、現実と食い違ってる部分でちゃんとした法則が、提示されてるものなんですよ。

 その法則は、作者が提示したにもかかわらず作者すらもが支配されている、だからどんなにハチャメチャでも「人形の箱庭」にはならない、ってわけですね。

 〝現実のいくさではない将棋やチェスは、提示されたルールを守るからこそおもしろい〟んですよ。



     †



 ただ逆に。

 そういった不整合に、もし目をつぶることができれば、そんな無礼さとかも感じずに済むのかもしれません。

 特に「ペンのめピン」とか、ほとんどの人は気にならないのかもしれませんし。

 だとしたら、ぼくがそれを「我慢」すれば、とりあえずまるく収まる?


 じゃあ辛抱してれば、いいんだろうか。


 べつに「重箱のすみをつつこう」だなんてつもりは、毛頭無いわけで。

 とはいえ、「気にする」と「気になる」はまったく別のことで、後者は受動的ゆえに制御がきかない。

 たとえば「白い物を見たのにそれを白と認識しないでいる」って基本無理なことで、それは白い物を特段探してなくてもそうなるでしょう。

 それと同じ感覚で、ぼくには不自然なものが「ひと目見ただけでピンと来てしまう」し、一度気づいてしまった事を気づかなかった事にするのは、とっても難しくって。

 それは人よりも、知識を増やしすぎたせい?


 なんだろう。

 人生のがんり方を、ぼくはすこし間違えてしまったのだろうか。

 あともどりできないのに、来なくていい場所に来てしまった、みたいな。


 まあそれ以前に、ペン一つでここまで悩んでる人がどれほどいるんだよ、って話なんですがね。

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