表現と体裁の天秤 ⦇大長⦈

 こんにちは、たてごと♪ です。

 人へ向かって「バカ」と言うほうがバカなら、人へ向かって「天才」と言う人は天才じゃないですか、やったあ天才ってこんな簡単になれるんですね。


 ……はい(

 前回に、漫画の事について触れたわけですが。

 触れたっていうか、ふつうにだったんですけれども(

 あー、うん、ダメっすね。

 いったんりだすと止まりませんわ。


 まあまあ、『精神病は作られてるって?』の節で、軽々しく文句出すなや、みたいな事は語りましたけれども。

 文句言ったのが将来をつぶす結果になったら、ふつうにイヤですしね。

 ただ、先日に某イチロー氏()が〝後続に対して先輩が文句を言えない「さんじょう」〟について苦言をていしてましたけれども。

 あんま文句言わなすぎてもやっぱり、将来をち壊したりするもののようで。

 特に、一定の作法がすでに確立されてる分野ではね。


 他所よそ様を悪く言うのも行儀悪いんですが、たとえばイギリス料理って、いや紅茶とかそのへんはとても、素晴らしいのですがね。

 とはいえ、不味まずいとわれてもしょうがないシロモノが、やっぱり多々ありまして。

 どうしてそんな事になってるかって、〝料理には文句をつけるものではない〟という教育が、てっていしてされてるからなんですね。

 そりゃあ文句を出さないようにすれば、そのぶん改善の動機だって弱まるでしょうよ。

 つまり文句をちくしすぎると、文化文明というのは発展しなくなってしまう、と。

 難しいものですねえさじ加減。


 というわけで漫画についてちょっと、思うところと言いますか、苦情と言いますか、そんな感じのものを語ってみようかと思います。

 あっちなみにこの文章、〝まんがの書き方〟のたぐいの参考書とかを、いっさい見ないで書いてまして。

 いろいろ的外れなこと言ってるかもしれませんので、あらかじめご了承を。


 そういや関係ないですが、現在イングランドではブレックファーストに「うどん」が流行はやってるそうですよ。

 ソーセージやベーコン、スクランブルエッグなどの付け合わせに丁度いいらしいです。

 確かに合いそうですね。



     †



 で、さて。

 最近の漫画の「体裁スタイル」、どう思います?

 昔から有るタイプの漫画とは、一線を画してはいますよね。

 それを〝革新〟とか〝多様性〟のくくりでとらえれたら、幸せだったのかもですけど。

 ただどうも、いろいろと目についてしまう、って言いますか。

 なんか、


  ◦ 


んですよ。


 常態的にコマぶち抜いてて、非常にうるさ人物キャラ詞欄フキダシ擬態効果オノマトペ

 余談ゆえに手書きがむはずの、詞欄フキダシ外の機械打ち文字タイプライト

 無理詰めした本文テキスト、文字判読をぼうがいしてくる詞欄フキダシ塗りや背景。

 読み仮名のない常用外漢字、限度9ポイントを下回って小さい文字打ち。

 質感なく平面に見えてしまう無調子トーンレスの灰色ベタ、密集しすぎてうるさい黒ベタ部品アイテム

 平行すぎでコマ線にちゃくして、よく認識できない客体オブジェクト

 外見が似通ってて区別つかない人物キャラだれのものかすぐわからない詞欄フキダシ配置。

 被写体迷子の縁取り無しノーハイライトめり張りコントラストの強すぎる背景。

 足りない余白、境界がめいりょうすぎてかんしょうし合うコマ。

 視覚に違和をもたらす左右ページ無区別、左右ページでかんしょうし合うコマ。

 有用な固有長所が皆無なうえ、ばいたい転用性が最悪の縦長形式……。


 これ……端的に言って、「やりたい放題やりすぎ」じゃないですか。

 もっと言うなら、「整理がされてない」。

 文章作品でなぞらえるなら、ページめくりウザイんで全部つなげて巻物にして入稿してみました、折角の紙面がもったいないから行間もスペースも無しで、それと昔風味を出すためにひらがなも全部カタカナに、そしておおっとここでなんと重ね印字にちょうせんです、ちなみに時々下から読む縦書き有ります、あとちょっと遊び心で文字で迷路作っちゃったりしてまして、あっあとあとそれと仕掛けとか色々あったらおもしろいかなって思ってSNSのキャラなりきりアカウントにそれぞれジャンプできるように█記号で組んだQRコードをキャラ登場ごとに出してありましああぁぁあっ、こっこれセルフ・メディアミックスとも呼べる新たな手法なのでは(ここまで全部早口)、……みたいなカオスじゃないですか。


 ……おいそんなヒドい例よく思いついたなぼく

 え? いやいやいや?

 これ、昔にやった事がある、とかじゃないですからね?

 本当の本当に、いま思いついたやつですからね?

 ウソじゃないですよゼッタイですよ?

 頼みますよ後生ですよ信じてくださいよ!

 無実ですからーっ‼

 ……なぜだ、なぜ信じてもらえないんだ……なんでぼくがこんな目に……そうだ、アイツだ……アイツがやった事にすれば……(



     †



 ヤッパリ矢張()、〝昔の時点でそうなっていたもの〟って、もちろん「何らかの都合で制限を受けてた」ってのも有るでしょうけども。

 それ以上に、


  ◦ 「からやってなかった」


っていうのが、多分に有ると思うんですよ。

 なのに、あえてそこをめてしまった結果、「見づらすぎてが必要になる漫画」が急増してしまってるんじゃないかなあと。

 最近だと、既作コミックのカラー化がされたり、あるいは最初からカラー原稿のものが出てたりしますけれども。

 そんな事より、提示方法そのものをきちんと整理しとかないと、着色によってさらなるちつじょおちいっちゃうのでは、って思うんですよね。

 「フィルムコミック」という、アニメのセル画をそのまま紙面にしたタイプもありますが、あれ何か〝コレジャナイ〟感ありません?

 ぼくの感覚ベースでの話ですけど、あれって彩度が高すぎる、つまり「色が強すぎる」、んですよね。

 よく出来てると思うカラーコミックの色付けって、基本的に水彩やパステルのような淡色仕上げだし、全面塗りというような事もあまりやってない。

 目立たせたいアイテム以外は、だいたい主張を抑えた感じになってるんですよ。


 たぶん「目に見えるもの」ではなく、「頭で考えたこと」で構図を決めちゃうから、ゴチャアッとした事になっちゃうのかなあ、と思うんですが。

 似たような失敗は、作曲でもやらかすものでして。

 「耳に聴こえるもの」ではなく「頭で考えたこと」で構成してしまうと、目新しさやらギミックやらの、リスナー置き去りなポイントばかりに注力してしまって、肝心の聴こえの良し悪しはそっちのけ、みたいな結果になったりします。

 実は音楽業界だと、『VOCALOIDボーカロイド™』をはじめとした合成歌唱の歌曲が、かなりぎらいされてまして。

 これってたぶん合成音声そのものよりも、それを多用してるかいわいでのさんな制作傾向がされてるんだろうな、って思ってます。



     †



 思うに、最近の漫画の作者さんってなんというか、んじゃないすかね。

 というのは昔から、


  ◦ 〝


と申しまして。

 だから漫画は、「描く」のでなく「書く」のだと。

 それゆえ、いくら「表現は自由」とはいえ、越えてはいけない線も有るのだと。

 ……いやそんな境地にサクッと辿たどり着いちゃう昔の漫画家さんやっぱ人外やわ(


 漫画ってストーリーを追うタイプの作品なわけですから、読者の興味もやっぱりストーリー主体になります。

 そのせいで「ストーリーを追いやすい」、すなわち「スラスラ読める」という事がどうしても重要になってくるので、鑑賞に時間を掛けることで味をかみしめる絵画とは、やっぱり違うんですよ。

 そのために、すべてのアイテムが難なく識別できる必要性、というものが出てくるんですね。

 だから「常識では考えづらいかっこう」やら、「人間をいつだつした顔面」やら、「3Dでは表現し得ない造形」やらが、として編み出されたわけで。

 非現実的だと突つかれがちな、「ピンク髪」などにもそんな理由が有るもので、そういう部分を差し置いてまでリアリティを出しちゃあかんのですよ、漫画。

 あ、余談ですがこの辺の事情って、文章作品でのキャラづくりや舞台づくりでも共通するところと思いますが、どうでしょ。


 つまりさっきのことばい換えるなら〝「航空写真」ではなく「」〟ですかね。

 リアリティよりも、道路と建物がちゃんと識別できることが課題になる、と。

 これが漫画での〝越えてはいけない線〟で、ここ越えられると読者が簡単に道に迷います。

 何が表現されてるのかわからなくなるし、なんなら「わかりたくもなくなる」。

 それを理解しないまま、イラストのつもりで漫画制作に着手してしまうと、「絵は上手だけど漫画はド下手くそ」という結果が出てしまう、と。

 よく有りませんか、おもしろいと思うからこそ読んでたはずなのに、なんだかどうも面倒くさくなって、パラパラと読み飛ばしてしまって。

 そのせいでストーリー追いそこなって、何の話だかわからなくなる、みたいな事。

 読み飛ばされる漫画には、読み飛ばされるだけの理由が有るってわけです。


 ちなみに、文章作品に関しては事情がちょうど逆で、この失敗をやらかしたのが純文学、それを改善したのがライトノベルだと思ってます。

 売上を見てみれば一目りょうぜんでしょ。

 いかにも純文学な長編書いてる奴が何言ってんだ、って感じでしょうけども()、それはぼくが人気を取ることよりも、自分の書きたいこと書くほうを優先してるからで。

 そういうやり方について〝わかる人に伝わればいい〟とはわれるけど、これ


  ◦ マジで「わかる人にしか伝わらない」


んで、やるなら覚悟が必要わよ。

 ほか音楽でも、まあぼく的には大好物なんだけど、ジャズやプログレやテクノあたりはあんまり複雑すぎて、民謡よりも人気ないみたいだし。

 エンターテイメントとしてはそういうの、失敗の部類なんじゃないかなあ。

 楽曲としてはまったく単純な事しかやってない『The Beatlesビートルズ』が、かつて世界じゅうの音楽界を席巻したのも、そういう理由だと思いますよ。


 というか、漫画ってアイテムの識別性こそが肝要なわけで、それさえクリアできてればむしろ、作画のほうがクオリティ問わないもんです。

 そこは本当に地図と同じですよ。

 現に四コマ漫画なんて、ミミズののたくったような作画でも、ちゃんと成立してるじゃないですか。

 いや、あれはあれで、簡素な部品だけで識別をさせるっていう技術要るんですがね。


 好例としては、人気タイトル『カイジ』シリーズ。

 これもたんなく言ってしまうと、素晴らしい作画と思うようならその感性を疑いますし、内容だって有って無いようなもんでしょう、うん失礼(

 でもせられてしまう、だからこその人気作なんですが、あれってつまり「作劇」がおそろしくうまいんですね。

 この次どうなるんだろうっていう感情を上手にあおって、ページをめくる手を止めさせない、そういう読者操作を巧みにしてのけてるわけです。

 そして根本、


  ◦ 人は結局、人が大好き


という性質もまた有ったりしまして。

 なので、「この次どうなるんだ」という感情は基本的に、人物に対して発生しやすい。

 つまり、登場人物に対して執着させることができれば創作はだいたい成功するんですが、要は漫画とは、人物像などによって物語を表現するもの。

 すなわち〝演劇〟なのであって、昔の時代には「劇画」とも呼ばれたわけです。



     †



 余談ですが、「 人は結局、人が大好き」だからこそ、人の実像が直接見える実写ドラマが、創作ばいたいとしてはもっとも人の気を引きやすいです。

 次いで、作り物ではあるものの人の像と声が一応登場するアニメ、それから人の像が視認できる漫画、あるいはイラスト、と続きます。

 前者ほどに制作コストはかさむものですが、それでなお制作する価値がある、ってわけですね。

 舞台演劇については、そもそも鑑賞にこぎつける自体がハードル高いって点と、演目が限られてるって点で事情が特殊なので、割愛。


 それらに比べると、文章作品って文字しか並べられませんから、創作ばいたいとしてはかなり不利なものだったりするんですね。

 さしすらも無いんだったら絶対ムリ、って人も少なくないでしょう。

 そして真打ち、音楽って作品内に人が介在できる余地がほとんど有りませんで、さらに輪をかけて不利な創作ばいたいだったりしまして。

 実は


  ◦ 音楽が好きで音楽を聴いている人は少ない


んじゃないかってぼくは疑ったりしてます。

 実際にも、決まったアーティストの曲しか聴かないって人が、大半なんじゃないですかね。


 あっども。

 ボカロPのアカウントはこちらでございますトホホ……(


 そういう感じなので、たとえば♡や☆などの評価を数でかぞえよう、ってとき。

 それが文章作品や音楽作品である場合には、「1つ付いてるだけでもかなりものすごい」って考えたほうがいいです。

 高望みしても、失望が待ってるだけですからね。



     †



 かん休題。

 そんなわけで「漫画=イラスト」という認識だと、表現の幅がせばまる、って事も有りまして。

 演劇なんですから当然、そこには動きが有るわけで。

 そこへ例えば、一つのコマ内に同一人物をいくつも描写する、というのが漫画特有の表現で。

 そうやって異なるポーズを取らせるなどして、「多種あるいは継続的な動きをしている」のような意味の「記号」を、提示していくわけですね。

 一方でイラストは、基本的に一枚の絵で完結するもので、つまり情景のとある瞬間を切り取った静止画に、基本なるもの。

 だから同じ絵の中で、一つの被写体を複数回登場させるのは、ちょっと難しい。

 かといって、単一の像で動きを表現しようとすれば、尋常でないレベルの画力が要求される。

 これが不足すると「動作的に不自然な像」が、ぼろぼろ乱発されてしまうわけですね。

 ……いやまあ実際に動きを描ききってる怪物作家さんもいらっしゃいますが……んですよそんな事……。


 それでも結局、「イラスト=一枚絵」なのに対して、「漫画=演劇」。

 なので、画力だけではどうしてもおぎないきれない要素、というのが出てきます。

 たとえば、「音」「電波」などの目に見えないものは、実像を提示する絵画としては、表現のしようが有りません。

 それを解決するために編み出された手法が「像の記号化」なのであって、これを極めつくしてきたのが「従来の漫画スタイル」だというわけです。

 この追究の結果、絵画として評価すると〝とんでもない〟ような表現が、みられるようになりました。

 まあこれこそが昔、ずっと漫画がバカにされ続けてた理由なんですけども、よくぞ耐えてきてくれましたよ歴代の漫画家さんたち。

 けいを禁じ得ません。


 そういう流れで、感情表現までをも記号化したのが、「💢怒りマーク」「💦汗マーク」の部類。

 で、これらって逆説的ながら、「頭で考えたこと」じゃあなくって、「目に見えるもの」のはんちゅうなんですよ。

 なぜかって、怒りやあせりを表現した絵画というのは、描くにも大変ですが読み取るにもすごく大変で、その解釈に頭を使うことになるんですよ。

 像とは表面しか表現し得ないものですが、すべての人物が素直に内面を表へ出すわけではないですしね。

 もちろん人によってはその判断に失敗しますから、つまり「像を提示しただけではきちんと伝わらない」っていう可能性が有るわけです。

 完全に同一の像ですら、知り得ている背景情報によって解釈がまったく異なってくるので、絵画に固執するかぎりは絶対に、この問題は解消できません。

 漫画的表現に慣れてしまったぼくらが、ふらっと美術館に立ち寄って絵画を鑑賞しても、さっぱり魅力が感じれなかったりしますけども。

 あれって記号がそこに含まれていないせいで、意味をいだすのが難しいからなんですね。


 それをどうにかしたくて記号化なんて事を、すなわち「必要な情報」を視覚的に目立たせてそれ以外をてっきょする、なんて事をしたんでしょうね。

 「💢怒りマーク」付いてたら、「あっ怒ってるな」ってすぐわかるでしょ。

 そんな感じに


  ◦ 


って、そこまで高い伝達力が有るんですよ。

 すると今度は怒りの像を、あまり綿密に描かなくても済むようになる。

 それによって制作速度が向上するほか、静止画だけで演劇を表現しきるような、怪物じみた高い画力を習得せずとも済むようにすら、なるわけですね。

 つまり「読み書きが簡単になる」という機能を持つのが、記号の特色。

 たとえば多くのキャラ絵においては「鼻が無いも同然」ですが、これは目と口だけ有れば「表情を表現する記号」として十分成立するために、鼻が「不要な情報」としてぎ落されたからでして。

 中国語における簡体字(〔愛→爱〕など)とかでも同じ事なんですが、つまりこれこそが、よく聴かれる


  ◦ 「de-formデフォルメかた崩し)」


というもの。

 言い換えればそれは、「造形をより見やすいように整理する」って事で。

 そもそも物語を表現したいなら文章作品で十分なはずで、なのになぜ「漫画」というものが作られるようになったのか。

 すべては「見やすさ」「読みやすさ」「わかりやすさ」を追求してのこと、だとぼくは理解してますが、どうでしょう。

 また、鼻などの省略記号を逆に綿密に描くことで、いかつさいかめしさの記号としても機能したりしますけど、これは〔国〕を{國}とあえて旧字で書くのと同じ感覚ですね。

 そういう、種々の有用な手法を捨ておかれるのは、まあ非常にもったいない事だと思いますし、かつ退屈な事でもあるんじゃないでしょうか。

 昔の時代のセンパイたちが「何をか」を見るだけで、漫画はより見やすくできる。

 そう思うんですが、今の時代だとそんな研究って、流行はやらないんでしょうかね。



     †



 とまあ、少なくともぼくは、そのように理解してまして。

 だからコマの全体像のあくに、1秒以上かかったら「メンドイ」。

 3秒以上かかれば「超ツライ」。

 5秒以上ともなると「なにこの苦行」なんですよ。

 そんな感じで、とにかくぼく視点で「見づらい」漫画が増えてしまった。

 でもこれって、個々の表現がどうこうってよりは、


  ◦ 今までの漫画はこういう「文法」だったよ

  ◦ 最近の漫画からは「文法」と思える要素が欠落し始めてるよ


って話だったりするんですよね。

 文法ってやっぱり、伝わりやすくするための物であって。

 いや、ふたもないこと言ってしまえば、「べつに見やすいなら絵画でもいいよ」なんですが(

 もちろん、同好の士が集まってやる「同人」とかでなら、それは本当に好きずきでいいと思うんです。

 新しい物なんて、すべてが混ぜぜになった混沌カオスこと〝生命のスープ〟の中から、ふと生まれ来るものですしね。

 でも「商業」でそういう事やられると、ちょっと納得いかない。

 「同人」のようなかたちの存在し得ない薬学界とは、ぜんぜん事情が違うはずなのに。

 じょして何がかなしうて、おかね払って落胆買わにゃあ行かんのかと。

 あるいは〝今の時代での漫画はこういうものなのだ〟って主張もあるんでしょうけど、それだったらぼくの出す結論はこう。

 「そういうタイプの漫画はぼくには必要ない」です。


 だからこそ、そういう部分で指導をするのが、「編集」の仕事なのではないのかと。

 問題点をはらんだまま作品が世に出るのをくい止める、「最後のとりで」が編集という役割なんじゃないのかと思うんですが、もしかして違うんでしょか。

 「もう見るのもウンザリだ」って思わせられるコミックスなんて、ぼくなら正直買う気しませんし、っていうか実際買うのやめてますし。

 そういう物ばっか出してたら求心力が、ひいては売上が、ふつうに落ちませんか。

 商業的判断、どこに有るんですかね。

 いやあもう、〝アンタんとこのが売れてるのは、先行の出版社がきづき上げてきた信用を食いつぶしてるだけだろ〟と。

 〝それゼロになったとたん漫画業界自体がたんすんじゃないの、そしたらアンタ責任取れんの〟と問いたい、問い詰めたい、小1時間問い詰めたい()ところですけども。

 こうまでひどい作品を許してる編集さんとなると、言ったところで果たして届くんでしょうかね言葉……。


 漫画だけじゃなくて文章作品のほうでも、ことばの誤用とかほぼ無審査で通しちゃってる感ありますが、これもどうなんでしょうね〝多様性〟で済ましていいやつなんでしょかね、、

 〝ことばなんて伝わりゃいいだろ〟とか、すぐ言う人って少なくないですけど、これ伝える側が「」だけじゃないすか。

 そういうごうまんな態度で来られると、後になってから〝そんなつもりじゃなかった〟とか言われても正直「らねえよ」なんですがね。 


 はあ……たくあんと緑茶が必要……(?


 まあまあ、売れるっていうのは、買う人がいるからなので。

 「これはえだろ」って思わせるような作品を、平気で出してきたりするとこの商品は、あんませい的に買わないようにしてあげたほうが、みんなしやわせになれるかとおもいます、

 たぶんプロのはんちゅうに限っては、甘やかすのはあまり親切な事じゃない、とも思いますし。

 何だかんだ、出版社に「No」を突きつけるには、買わないのが一番でしょうからね。


 その上でなお売れてるようなら、見込みアリって思う人も少なからずいる、って事ですし。

 それもいいでしょう。

 ただまあ、応援のつもりで作者買いとかしてみても、その出版社での悪習に依存しちゃったりして「かえって応援にならない」って事も、有るかもしれませんよ。

 今はよくても未来の後続はそれで大丈夫なの? っていうねんも有ります。

 新興出版社に対する投資、って考え方はアリかもですけど、でもそんな事してる金銭的ゆう、みんなそんなに無いんじゃないですかね。


 一方で老舗しにせ出版社さんたちが、まあ今でも現役でがんってるわけですが。

 ああいった所じゃあ、キャラ像とかをやみに複雑化すると〝そんなの書いてたら時間ばっか掛かってしめ切り落とすだろ〟って事で、そのデザイン却下されるそうですよ。

 まあつまり、「十分な記号化が達成できてない」ってわけでしょう。

 そんなこんなで、〝売上のためなら作家の気持ちなんか平気で踏みつぶされる人外魔境〟だの何だのと、ひどわれようだったりしますけれども。

 そもそもプロ活動って売上を出してナンボなんじゃないの、って思いますし。

 ぼくから見れば、「伝統に恥じないメッチャいい仕事」してるとも、思うんですよね。

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