第5話 きつねの火遊び:5
次に目を覚ました時には、俺はベッドに寝かされていた。軽くて柔らかい布団が首の付け根辺りまでかけられており、額には冷却シート的な物が貼り付けられていた。頭はすっきりしていた。盛られていた薬の影響はとうに過ぎ去っていたらしい。
「目が覚めたみたいだね、マサ君」
俺の斜め横から声が掛けられる。適度に低くて深みがあって、滑らかで明瞭な男の声だ。もう声を聞いただけで誰かは解っていたし、そもそも今は声の主の顔なんぞ見たくない気分だった。
それでも俺は、俺の意志を裏切ってそいつに視線を向けていた。
声の主は源吾郎叔父だった。黒いチャイナドレス姿で、その頬にほのかな笑みを浮かべながら俺を見下ろしていた。俺の心中を見透かすような眼差しで。
ああそうか。押し黙ったままの俺を見つめながら、源吾郎叔父は呟いた。
「ははは、マサ君はこの頃俺の事を避けてたもんな。お年頃の男の子だし、ヤコちゃんの方が気になるんだろう」
言うや否や、源吾郎叔父の姿がふっと揺らいだ。そして次の瞬間には、源吾郎叔父の姿は妖狐の少女のそれに変貌していたのだ。黒髪のショートボブに幼さの抜けない可愛らしい面立ち。いかにも女の子らしいワンピースとジャケットを身に着けたその姿は、まさしくあのヤコの姿そのものだった。
嫌な予感がした俺は半身を起こして後ずさろうとした。だがそれは叶わなかった。そもそもベッドは壁に面する所に置かれており、後ずさってもすぐに背中が壁にぶち当たったのだ。
ともあれ、ヤコは満面の笑みで俺の手を取り、空いている方の手を俺の頬に添えたのだ。ほっそりとした身体つきに違わず、ヤコの手も華奢なつくりで滑らかなものだ。
間違っても、大人の男のごつい手などではない。元々源吾郎叔父の手がごついかどうかは知らんけど。
「マーサ君。今日は本当に色々あったよね。まぁ、マサ君も無事だったし、変なのに易々と心を許したらダメって思い知っただろうから、良かったなぁって思うんだけど」
「……全くだ」
何故か嬉しそうに尻尾を振るヤコを正面から見据え、俺は短く言い捨てた。
「もういいよ源吾郎叔父さん。あれだろ、初めからヤコなんていう女狐は存在していなくて、あんたが変化した仮の姿だったんだな」
「そうだとも政信君」
俺の言葉を聞くや、眼前の女狐は源吾郎叔父の姿に戻っていた。手と頬に触れていたその手の感触が微妙に変化する。俺が僅かに身体を動かすと、源吾郎叔父はあっさりと離れてくれた。叔父にベタベタと撫でられて喜んでいた頃などは、もうとっくに過ぎ去っている。
「政信君。君も玉藻御前の血統とやらにご執心だったもんねぇ。ああ、俺は知ってるよ。君が密かにその血の力を振るおうとした事も、その裏で俺の事を腑抜けだと笑っていた事も、な」
のっぺりとした源吾郎叔父の顔に浮かぶのは愉悦の笑みだった。心底楽しそうな、それでいて禍々しさの滲む笑顔だ。本能に根差す恐怖を覚えているはずなのに、俺の視線は源吾郎叔父に吸い寄せられたままだった。
「ははははは。実に滑稽だったなわが甥よ。きっとお前は俺や誠二郎兄さんを出し抜いて奔放に振舞っていたつもりなんだろう。自分にまとわり憑く女狐を分からせようと画策していたんだろう。真に分からされたのはお前の方で、この俺は全て解った上で振舞っていたというのに、な。
だが良かったじゃないか。この俺の持つ先祖の力、大妖狐たる玉藻御前の末裔としての本性を垣間見ることが出来たんだからさぁ」
歌うように源吾郎叔父は告げ、俺を見据えながら高らかに笑った。
玉藻御前の末裔としての本性。源吾郎叔父が持つ魔性の気質を、俺はこの時はっきりと感じ取った。背後では四尾がゆらゆらと揺れており、そこから妖気がいつまでもいつまでも立ち上って来るかのようだ。
毒気を孕んだ妖気が俺の中に取り込まれ、俺の内部を、それこそ魂ごと侵蝕し腐蝕していくのではないか。そんなイメージがぼんやりとした脳味噌の中に広がっていた。恐ろしいはずなのに、それでも構わないと思わしめるものすらある。傾国の妖狐の血を受け継いだというのは伊達ではないという事だろうか。
「ちょっと先輩、毒気が強すぎるっすよ」
恐怖と恍惚の狭間を俺が漂っているまさにその時、呆れたような声が源吾郎叔父に投げかけられた。
声の主は雪羽兄さんだった。後頭部で一本に束ねた癖のある銀髪は、首を動かすたびに五本目の尻尾のように揺れている。小柄な源吾郎叔父どころか俺よりもいくらか背の高い雪羽兄さんは、呆れたように源吾郎叔父と俺とを見下ろしていた。
「そりゃあまぁ久々にアホども相手にわからせムーブをやったから、先輩がハッスルしてるのは俺にも解るよ。だけどまぁ……あんまりマサ君をいじめたら可哀想じゃないか。マサ君は先輩の甥っ子だけど、息子同然に可愛がっているんじゃなかったの?」
「無論だ。だけどな雷園寺君。可愛がるというのは単に甘やかす事だけじゃあない。時には指導という名の愛の鞭が必要な事は君だって知ってるだろう。
道を踏み外した時に正して導く事は、叔父や兄の責務だぞ」
雪羽兄さんの何処か冷ややかな眼差しに対して、源吾郎叔父は怯まなかった。それどころか、叔父としての立場という物を得意気に語っているではないか。
既にこの時には、叔父が妖気と共に漂わせていた禍々しい気配は霧散していた。というか俺たちに対して教育者らしく振舞おうとするところなどは、普段の源吾郎叔父の言動そのものだった。
さて雪羽兄さんはというと、少しの間思案するような表情を見せたのち、悪戯っぽい笑みを浮かべて続けたのだった。
「叔父や兄の責務って言うのは俺としても思う所はあるから、まぁ先輩の言ってる事ももっともだとは思うよ。
それはそうと先輩、悪狐ムーブをかますのは良いけれど、
「おっ、そうだな」
「え……静香ちゃんまでいるの……?」
静香。雪羽兄さんが出した名前を聞くや、源吾郎叔父も俺もたじろいでしまった。源吾郎叔父だけでもお腹いっぱいなのに、そこに更に従姉までいるとは。
「静香ちゃん、じゃなくて静香お姉ちゃん、でしょ?」
静香の姿は探すまでも無かった。向こうから声をかけてきたのだから。
お姉ちゃん、という部分を殊更に強調した静香は、負けん気の強そうな表情で俺の事を見つめている。くっきりとした目鼻立ちの美少女ではあるのだが、短く刈り込んだウルフカットに男の子のような服装を好むところからして、いかにもボーイッシュで闊達なイメージばかりが先行してしまう。そもそも従姉だから恋愛感情なども浮かんでは来ないのだが。
ちなみに静香の実年齢は二十一だから、確かに俺よりも年上だ。しかしその見た目は、十五、六ほどの少女にしか見えない。俺や源吾郎叔父よりも妖狐の血が濃いために、心身の成長がやや遅いのだ。静香をお姉ちゃんと無邪気に呼んでいたのは、それこそお互い仔狐だった頃の話だ。
「静香姉さんも来てたんだね」
「だって気になったんだもん。政信君の事も……お父さんやお母さんがやってる仕事の事もね」
両親の仕事。屈託ない様子で静香が言うと、源吾郎叔父が静かに息を吐いた。
「静香は少し前から、お父さんやお母さんが仕事をするところに付いて行きたいって言って聞かなかったんだよ。俺としては危ないし、静香が怖い思いをするだろうと思って反対だったんだけど、お母さんの一声で連れて行く事にしたんだ。あんまり過保護すぎるのも良くないし、勉強になるって玲香さんは、母さんは言ったから」
ここで複雑な表情を見せる所もまた、何と言うか源吾郎叔父らしかった。父親としての源吾郎叔父は、子供に対して少し過保護な部分があったのだから。その事は甥である俺もよく知っている。一方の玲香さんはワイルドでおおらかな部分の目立つ母親だった。子供に対するスタンスの違いも、二人の出自や境遇によるものなのかもしれないが、俺には詳しい事は解らない。
雪羽兄さんは静香の方を見やると、再び口を開いた。目線を合わせるために身をかがめた雪羽兄さんの顔には、人の好さそうな笑みが当然のように浮かんでいる。派手な見た目とは裏腹に、雪羽兄さんは優しくて子供好きなのだ。源吾郎叔父の弟分に収まっている彼にしてみれば、源吾郎叔父の子供たちは歳の離れた弟妹のようなものなのかもしれない。
「それはそうと静香ちゃん。今回君のお父さんは女の子に変化したり悪狐ムーブを政信君の前でかましたりしてたけど……大丈夫だった? びっくりしたり怖い思いはしなかったかい?」
「おい、どさくさに紛れて娘に何を聞いてるんだ雷園寺君!」
焦ったように吠える源吾郎叔父をスルーして、雪羽兄さんは静香の顔を見つめていた。当の静香はというと、明るい笑みをその顔に浮かべ、勢いよく首を振った。
「雪羽お兄ちゃん。別に私、お父さんが怖いとか、そんな事は思わなかったよ。お父さんが時々女の子に変化するって事は少し前から知ってたし、さっきの悪狐ムーブも普段のお父さんと違ってたから面白いなーって思ったの」
静香姉さん、単なるお転婆女狐かと思っていたら、中々どうして大物じゃないか。同じく玉藻御前の末裔として、俺は奇妙な敗北感を抱いてしまった。たとえその言葉が、優しい父親としての源吾郎叔父に対して静香が全幅の信頼を寄せているから飛び出してきた物であったとしても。
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