第20話 なっちゃんさん、寝込む③
「なっちゃんさん」
戸を静かにノックしてから、小声で戸を開けた。なっちゃんさんは眠っていた。横臥の姿勢で手を抱えて少し丸まっていた。
「なっちゃんさん、起きられますか」
布団の横に腰を下ろして、肩をゆっくり揺すった。何度目かでなっちゃんさんはゆっくりと目を開けた。それから半目のまま枕元の時計を見やった。
「アイス買って来ましたよ」
保冷袋から取り出すと、なっちゃんさんは寝たまま僕をじっと見ていた。少し睨んでいるように見えた。ちらと布団の横に置いてある時計を見たようだ。
「なっちゃんさんが食べたいって言ったやつですよ」
アイスのカップを見せた。ちょっと奮発してハーゲンダッツにした。
「遅い」
「はい?」
「遅いのぉ」
「ああ、近くのスーパーになくて、ちょっと足伸ばしたもんで。薬とかも必要かと……」
「遅いのは聞いてなかったぁ」
体を揺するだけでなく、足をばたつかせていた。物へのクレームではないのでありがたいと言えばありがたいのだが、本当に完全に駄々っ子化している。日々の飲酒で、あれだけ飲んでも酔ってしまうなどなかったのに、やはり病は恐ろしい。
「フジムラとかいう子と会ってたんじゃないの?」
プンプンとして、下手をしたらのた打ち回り始めそうだ。それにしてもどうして唐突にゼミ生の名前が出てくるのだろう。
「夢に見た。夏休みに調査一緒に並んでた」
所々日本語の使い方が怪しいのは熱のせいにしておいて、事実が混同されている。僕が夏休みに聞き取り調査に行った先で藤村さんに偶然出くわしたが、共同研究をしているわけでもない。なっちゃんさんも藤村さんに会ったことがあるから、記憶がそれこそ熱のせいでごった煮になっているのだろう。初めて会った時に取り立てておかしな状況でもなかったのだが、なっちゃんさんが見るからに不機嫌そうになり、また大学ではおしとやかそのものの藤村さんも落ち着きがないというか感情を抑えている様子だったのは、なぜかいまだに知れない。なっちゃんさんに聞いても「知らない」としか答えてもらえず、藤村さんなんて「気のせいですよ、怒ってなんていませんし」とひきつった顔になる始末。よって、それ以上は口にできなかった。変につついて不興をかうどころか、そもそも気を悪くさせるのも本意ではない。理由がわからない以上、僕がやきもきするのも余計なおせっかいになりかねなかったし。
そんな感じだったから、体調を崩した時に悪夢というかヘンテコな夢を見ることもあるだろう。むしろいつもより変な夢を見がちになる。かといって、夢を否定しても、長々と訂正しても、こんな状態ではなっちゃんさんに納得してもらえるはずはない。よって、
「夢は夢ですよ。遅くなったと思うなら、ごめんなさい。おいしそうなのを探してただけです。だから、早く食べないと、アイス融けちゃいますよ」
アイスをだしにして、場を乗り切るしかない。
「食べる」
やはりというか、納得はしてない表情でなっちゃんさんはゆっくり起き上った僕からアイスを手にすると、木のスプーンでアイスを掬って口にした。目を細くしてニッコリとした。その頬から赤さが若干和らいだように見えた。眼鏡をかけてないなっちゃんさんだったが、ニッコニコでアイスを食べ終えた。
「もう一個食べたい」
僕をじっと見てきた。体調が悪い時でなければ、自費で購入した嗜好品はどれだけたしなもうが構わないが、さすがに熱の上にお腹まで壊したら良くない。
「残りはまた明日です」
「もう一個ぉ」
「良くなったらもっとたくさん食べられますからね。良くならないと思う存分食べられませんよ。今は良くなるようにしてください」
なっちゃんさんは口を尖らせてうなりながらまた横になった。
「他にご希望はありますか?」
「麦焼酎ロック」
「それもダメです。ん、たまご酒ってのもあるから……、いやいや、ロックはやっぱり駄目です」
「ダメって言ってばっかり」
「じゃあダメにならないようにまずは寝ていましょうね」
「うん」
「夕食も食べやすそうなもの作りますから」
「あのさ」
立ち上がろうとする僕を止めた。
「他にしてほしいことがある」
「ええ、良いですよ。アイスの残りを片づけてからでいいですか?」
「うん、体を拭いてほしい」
僕は絶句してしまった。言葉だけならまだいい。動作がフリーズした。さらには、空になったアイスのカップを落としそうなくらいに手から力が抜けそうになった。
「いや、でもなっちゃんさん、それはちょっと」
我に返る、いや自意識で我に返らせた。慌てる、これが狼狽するということだろう。本当に正常な思考がと反応ができなくなるものだ。
「汗たくさんかいて、着替えは自分でできるけど背中とか拭けない。君はエッチだけど、不埒ではない、でしょ」
確かになっちゃんさんの着替え中に戸を開けてしまったことをして前者ととらえられても仕方ない。後者に関しても、なっちゃんさんの衣類を僕が洗濯をすることもあるから、あながち的外れではない。が、さすがにそれは。なんてことを熟慮している場合ではないと、すぐに思い直した。
「そうですね。あったかいタオル準備してきます。すっきりした方がいいですもんね」
なっちゃんさんが僕をして不埒ではないと信頼してくれているのだ、それを無碍にはできなかった。
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