第四章
第18話 なっちゃんさん、寝込む
季節の変わり目はもうとっくに過ぎているはずだが、とはいえ昨今の猛暑の後を残暑などとは手ぬるいような高温の日々のせいで秋らしい秋の期間が年々短くなってきてしまっているので、一〇月だから秋と決めつけられないが、肌感が涼しいと寒いの際どい差の間で七分袖にするか長袖にするか悩ましい、そんなもう十一月になる頃だった。
なっちゃんさんが寝込んでしまった。
朝、いつもより少し遅く起きて来た時から、喉が嗄れていたし、足はふらふら、何より顔が赤かった。片耳に引っかからず傾いていたメガネをはずした目はうつろだった。仕上げ段階に入っていた朝食の準備は取りやめ。まずは体温測定。結果、四十二度あった。高熱というより体内が猛暑。夏になると、埼玉県某所が国内最高気温でよくニュースの話題になるが、それに匹敵していた。入浴温度がそれくらいならもう熱くて入っていられない。病院を、の前に救急車を呼ぼうとしたが、なっちゃんさんに止められた。それだけならなっちゃんさんをたしなめてわずか三つの数字のタップを瞬時に行えるのだが、また何のタイミングなのか、大家さんからメールが入った。「もしなっちゃんが体調不良になったら、大人しく寝かしておいて。病院には連れて行かなくていいから」。それだけならまだしも、どっかに盗聴器でもあるのかと懸念を通り越して疑念を率直に叩きつけても暖簾より軽薄な風間さんからも「なっちゃんがおかしくなっても大家さんのいうこと聞いとけばいいから」なんて連絡も入った。風間さんなんて戯言と放っておいたとしても、あの大家さんが言っている以上それは単なる助言ではなく、ほぼ指示になる。となれば、それに従うしかない。幸い、僕の授業はなかったし、看病にいそしむことができる。
なっちゃんさんの自室に入るのは初めてではない。まだここの大家補佐をし始めた当初、要領を得ずに、戸を開けたらなっちゃんさんが着替え中だったってことがあった。あれ以来、ノックをしてから入る作法を身につけさせられた。その時もなっちゃんさんは悲鳴を上げず、それどころか恥じらうこともなく淡々と着替えを続行し、「君、気を付けて」と、静かにたしなめられた。学校教諭から滔々と説教されるよりも、あるいはメガトン級の一喝を下されるよりも、はるかにダメージが残りかつ教訓として血肉になったフレーズとなった。
それはともかく、朝食を抜いた分というわけではないが、すりおろし林檎を持って来たのだった。なっちゃんさんはまだ寝入っておらず、パジャマにも着替えずに布団に入って、焦点の合わない目を泳がせていた。ふわふわとした感じで上半身を起こすと、もにゃもにゃと判然としないことを言ってからすりおろし林檎のガラス容器を手にした。
「なっちゃんさん、何か食べたいものありますか」
どうにか食べ終えて横になったなっちゃんさんのおでこに冷えピタを貼った。
「ううん、あんまり特に食べたいものはない」
力のない言葉で答える。確かに朝食を終えたばかりのタイミングでというのは、間が悪かったかもしれない。けれど、体調を崩した時は食べたいものを食べさせた方がいい。昼間際になって寝ているなっちゃんさんを起こして聞くというのも憚られた。
また、居間を漁ったが風邪薬がなかった。薬品箱にあったのは絆創膏とハンドクリームと下痢止めだった。風間さんはともかく、大家さんに様子見を指南されたとはいえ、放っておくこともできない。市販薬でも風邪薬は買っておかなければならない。僕が体調を崩した時にも使えるし。食べたいものを聞いておけば、買い物を一回で済ますことができる。
すりおろし林檎をあっさりと食べ終えたので、
「桃缶でも食べますか?」
もう少し食べられるかと尋ねる。
「みかんの方がいい」
「みかんはお腹によくないですよ」
「それなら黄桃のがいい、今。ちょっと凍らせて」
何か暖色系が好みなのだろうか。なっちゃんさんの普段の格好とか道具とかからは特段そういう傾向があるとは思えないが。食べたくないと言いつつも、食欲があるのはなによりだ。要望に応えなければならない。
台所に保存食の入ったプラスチックのケースがあってそこに缶詰類があったはず。見れば、確かにカレーやらコーンビーフやらシーチキンやら、それに果物類。大家さんの準備の良さに舌を巻くのだが、手を動かす方が先決である。なっちゃんさんのご要望の品を見つけ、わずかな時間冷凍庫に入れた。
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