告発準備②

 二人は押し黙った。


「本来するべきことをせず、ヒーローのように颯爽といじめられっ子を助けようとして、返り討ちにあった。それが君です。助けることを目的とするなら、ヒーローになるのではなく一緒に助けを求めるべきだった。もう極端な話、警察に頼っても良かったのです。いじめは犯罪ですから」


 晶は思わず手に力が入っていたことに気付いた。ズボンに皺がよっている。バレなかっただろうか。隣を見ると、友達思いの少年は彼以上に落胆しているのが見てとれた。目を閉じ、唇を噛んでいる。相手にこちらの焦りが伝わってしまうと思ったが、そんな心配をする段階はすでに過ぎている気もしていた。もう交渉の余地はないのかも知れない。自然に視線が下を向いてしまう。


「はるなちゃんまだかな」と、老教授は呟いた。


 もう話は終わった、と晶も健流も解釈した。


「それでは、先生は協力していただけないのですね」


 健流が唇を震わせながら訊ねた。答えの出ている返事を聞くのは、晶も気が重かった。




「三井くん、僕が7回目の授業で取り上げた孔子の言葉を覚えているかな? 君が学校で最後に聞いていた授業だよ」


「義を見てせざるは勇無きなり、です」


 期待が外れたことを隠しもせずに投げやりに答える。


「そのとおり。だったらわざわざ聞くまでもなく、もうわかっているでしょう。君たちの期待に応えられるよう、最大限に努力しましょう」


 にっこりと笑ったその顔は、健流を驚かせるには十分だった。晶も思わず顔をあげて、耳を疑った。


「君は勇気を持って義、すなわち為すべきことを行った。だから僕も為すべきことをする。若者を助けるのは、老人の役目ですから。


 実を言うと僕もね、あんまり偉そうなことは言えないんです。榛菜ちゃんに聞いているかもしれませんが、学校でボヤを起こしかけたことがありましてね。あの時は大学を辞めようとしてたんですが、引き止められたこともあり、他に生活の手段を知らないこともあり、結局残ってしまいました。そうなるともう引くに引けないので研究も今まで以上に頑張りました。成果もそれなりに出しました。これはこれで為すべきを為した、と言えるのではないかと思います。


 しかし、心残りもありました。本当はどうするべきだったのか。家族がおらず、何の重荷もなければ、いっそ自由に振る舞えたのではないか」


 老教授は当時を思い出すように目を閉じた。実現できなかった、思い切った行動を取った若い自分を思い描いているのかもしれない。


「子供は生活する苦労がないから、などと馬鹿にする大人もいますが、本当は逆です。ほとんどの大人は、生活を理由に友人をのです。


 大人は私のように言うでしょう。もっといい方法があった、どうしてそんなことをした、と。僕のような大人にとってそれは正しいのです。残念ながらね。


 でも、『ヒーローになる』。いいじゃないですか。校長に直訴したいなら、幸いにも君たちには僕という伝手ができた。やってみるといい。君たちはまだ責任に縛られていないし、上手くできなくても次の手を考えればいい。搦手も結構。馬鹿正直も必要ない。限度はあるが、子供にしかとれない方法だってあるでしょう。多少ズルくたって構いません。大人はもっとずるいから、今のうちに慣れておきなさい。


 ああ、勘違いして欲しくないのですが、大人がダメだ、と言うつもりはないですよ。それぞれの良さ、強さ、美しさがあります。大人には大人の重くて硬い武器があるし、子供には子供の軽くて柔軟な武器がある。今は君たちはそれを正しく使いなさい。きっと、たとえ君たちでさえ、大人になったら同じことはできないだろうから」


 慈しみさえ感じられる目で健流を見た。


 晶は今の比喩に、この老教授が言葉に出せない苦労をしてきたのだということを感じた。大人になって重要な仕事、より難しい仕事をするにつれ責任が増え、武器は重く硬くなる。それは決して悪いことではないが、健流にかつての身軽さを見出したのかもしれない。


「三井くん。君は友達がいじめられていることに気付いた。そして君は為すべきことをした。君は正しい」


 さっきまでの攻撃的な言葉を忘れてしまうくらいに、不思議と老教授の言葉は心強かった。


「とはいえ、方法については大いに問題がある。特に火を使うのは良くない。次はもっと危険な目に遭うかもしれない。取り返しのつかない被害を出すかもしれない。繰り返しになりますが、正道を選ぶ道もあった。別の大人に頼るということ、他にも手段が用意されている場合があるということ、それは忘れないでください。言葉はきつかったかもしれませんが、これから君たちのために骨を折るジジイからの、せめてもの恨み節です」


 健流は思いがけない言葉に顔を俯かせている。肩が震えているのが見えて、晶はそっと手を置いた。図書館の前でも同じことをしたのに、こんなに意味が変わるなんて。


「すいません、お手洗いを借ります」返事を待たずに立ち上がって部屋を出ていく。


 それを見送る伊良部名誉教授の顔は、晶が想像する人望の厚い先達せんだつのそれだった。


 東洋哲学なんて、柔軟さに欠ける、礼儀と形式と歴史だけを重視する堅苦しいものだとばかり思っていた。それを研究する人もきっと頑固で意固地な人であろう、と。実際に晶と健流も自分自身の間違いや矛盾を指摘され、鉄壁とも言える大人の理屈に言い訳もできなかった。しかし不思議なことに、目の前にいる老人は彼が見てきた大人の中でもとりわけ柔軟で、子供に理解があるように見える。不合理で回り道に見える挑戦をやってみろとけしかける。ズルくても不正直でも良いと説く。哲学とは、学問とは何なのだろう。晶は、自分の胸が高鳴るのを感じた。


「ありがとうございます! 僕の考えが足りませんでした。今後は先生の……」


「いやいや。大丈夫です。それよりね」右手で言葉を止め、眉間に皺を寄せた。

「本題に戻りましょうか。三井くんは火を使ったのが問題だが、君はねぇ、僕のはるなちゃんを巻き込んだのが問題だ。改めて問いますよ。君ははるなちゃんの何なのかね?」


 切り替わりの早い教授の質問に、少年探偵の動きは固まった。まるでプールに飛び込んだと思ったら氷が張った水面にぶつかったような衝撃がある。頭の中で『!』と『?』が飛び跳ねた。


「や……その……ただの友達……」


 その時、晶の後ろにあるドアが勢いよく開いた。エプロン姿の榛菜が仁王立ちしている。


「じぃじ! 健流くん泣かしたでしょ! クッキー抜き!」


「ええーー! そんなぁー!」


 伊良部名誉教授の悲痛な声が響き渡った。早熟な少年探偵は、人間の多面性に対して自分の経験や認識は十分ではないな、と改めて感じた。


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