六本松修学館①

 もう夕方の6時を過ぎているがまだまだ陽射ひざしは強い。昼頃は車の屋根で目玉焼きを作れただろうし、この時間でも弱火でじっくり焼くなら十分役に立ちそうだ。


 白崎榛菜はるなと友人の山岸さくらは地下鉄の駅出口から飛び出すと、木陰や建物の影を素早く渡り歩きながら六本松修学館へ向かう。たいした時間は掛からなかったはずなのに、たどり着いた時には背中が汗でじっとりと濡れていた。


「うわー今日もあっついねぇ……」榛菜がぼやくと、


「ほんと。溶けちゃうね」さくらが答える。


 六本松修学館は二人が通う学習塾だ。校舎はエアコンが効いていたのでやっと一息つけた。水筒に入れてきた麦茶が美味しい。


 二人が教室に入ると、最近仲良くなった灰野はいのあきらがすでに席に座っていた。相変わらず無造作に伸ばしたストレートの髪、白のカッターシャツに黒のスキニー。代わり映えのない格好だが、いつもは二人のあとにやってくるので珍しい。


「お、晶くん。今日ははやいね」


 榛菜はいつものように声をかける。彼は二人に頷いて返した。


 晶は普段から物静かに過ごしている。彼が通っている中学校でもそうだろうし、ここ六本松修学館でも必要な時以外は話をほとんどしない。榛菜が見る限り、たまの話相手はなしあいても彼と同じ中学の黒川くろかわ凛太郎りんたろうと他校の榛菜とさくらの三人くらいで、他はお義理に塾の先生に頭を下げるくらいである。


 しかし今日はとりわけ静かだ。挨拶をしても軽く頷いただけで声も出さないのは彼らしくない。いつもと雰囲気が違うことが気になった。


 彼女たちが通う塾は難関高校の受験を視野に入れた中学生が通っている。そのためか全体的に大人しい生徒が多い。晶はその中でもさらに目立たない存在だが、今日は席についたまま仏像のように動かないので、もともと薄い存在感がさらに希薄になっている。


 そのおかげか今日の授業中は晶は一度も先生に当てられなかった。かわりに手前の席に座る榛菜がいつも以上に先生に指される気がするので、何とはなしに彼女は不満顔である。


「ねえ、黒川くん」授業の合間、榛菜は廊下ですれ違った凛太郎に声をかけた。凛太郎は晶の同級生で、塾での席は晶の隣だ。四人は前後隣同士になっている。


「晶くん、今日はなんで石像みたいになってるの?」


「ああ、あいつか。学校ではいつも通りだったんだけどな。俺も詳しくは分からないけど、小学校の時の同級生に会ったらしい」


「同級生に会っただけ? 何か気になることでもあったのかな」


「まぁほっといていいよ。あいつたまにああなるんだ。俺でもあの石化は解除できん」


 榛菜が席に戻ると、隣のさくらも後ろの席に座っている晶の様子が気になるようだ。ノートの端っこにメモを書いて見せてくる。


『晶くんなにかあったの?』


 榛菜もノートに書いて返す。


『わかんない。黒川くんもハッキリとは知らないんだって。小学校の友達に会ってからあんな感じらしいよ』


『考え事してるよね? あの姿勢』


『うん。探偵ポーズしてる』


 探偵ポーズとは榛菜が命名した、晶が腕組みしながら右手で口元を隠す姿勢のことだ。5月の終わり頃に榛菜、さくら、晶、凛太郎の四人は10年前の未解決殺人事件の犯人を見つけ出した。その際に度々たびたび見せた晶の今の姿勢を面白半分感心半分くらいで呼んだのが『探偵ポーズ』。晶本人はこの名前を知らない。


『事件かな』


 字体からさくらが何かを期待しているのが見てとれる。そういえば彼女は推理小説が好きだった、と榛菜は思い出した。


『言われてみればそうかも。でも喋ってくれるかな』


『聞いてみないとわからないよ』不敵に微笑んだ。


 小学校の時のさくらは内気な少女で、自分から友達を作ることもできなかった。中学校になってからもそれは変わらないものと思っていたが、どうもあの事件以降は彼女にも変化があったようだ。


 なんとなく、嵐の予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る