第11話 いくら彼女を守るためといっても

 杖が、振り下ろされる。


 自分の身を守るために、その場でうずくまり、頭や腹をかばった。


 どうしよう、きっと痛い――


 そう思って体を強張らせた時、一喝が聞こえてきた。


「やめんか!」


 一瞬、時間が止まった。


「神の前で暴力を振るうことは神がお望みにならない。神はそなたに罰を下すであろう」


 おそるおそる顔を上げると、一人の恰幅のいい男性が礼拝堂の中に入ってくるところだった。長いあごひげは白髪交じりで、深緑色の長いガウンを着、ガウンと白い貫頭衣カンドゥーラの裾を少し引きずっている。黒く太い眉、鋭い眼光の、威厳のある初老の男性だ。


 周りを囲んでいた男たちがさっと左右に引いて彼のために道を作った。


「導師」


 それは、学識者の中では最上級と言っても過言ではないほど位の高い、大きな寺院の管理人となって人々に説法を解く立場にある偉大な知識人の尊称だ。


 彼はきっと、この寺院でもっとも力を持つ人間で、もっとも神の言葉を理解している人間だ。


 人々が導師に向かって膝をつき、軽くこうべを垂れた。


 彼は尊敬されるべき存在で、時として俗世の長である国主アミールより強い発言権を持つ。


 導師は黙ってエムレとハディージャに近づいてきた。


 エムレが杖をおろした。


 そのエムレの頬を、導師は無言で叩いた。ぱん、という打擲音ちょうちゃくおんが礼拝堂の高い天井に響いた。


「たとえ奴隷であっても神は生物に暴力を振るうことをよしとしないであろう。神よ、そなたを呪いたまえ」


 その言葉を、エムレは無言で受け入れた。


 ハディージャはぞっとした。きちんとした学識者見習いの彼が神の名のもとに呪いの言葉を吐かれた。彼からしたらどれだけショックだろう。

 エムレが傷ついたかもしれない。

 自分が罵られ殴られることより悲しい。


「まして寺院の中でこのような行い、断じて許せん」


 周りで見ていた男たちが「そうだそうだ」とはやし立てると、導師はその者たちのほうもにらんだ。


「そなたたちも、聞けばまさに祈らんとする者を妨害していたというではないか」


 男たちがびくりと硬直する。


「意思ある存在が自主的に祈らんとするところにちょっかいを出すとは何事か。奴隷だろうが、女だろうが、判断されるのは全知全能の神であってそなたたちではない。祈りたい者には祈らせるべきである」


 導師の言葉に聞き入って、男たちがうなだれる。


「散れ。行くがいい。私の寺院で乱闘騒ぎを起こしそうになったそなたたちに私は怒りを覚えている。今日は自宅で礼拝をするように」

「はい……」


 老人がエムレから杖をひったくるようにして奪い返した。エムレは抵抗しなかった。


「しかし、やはり、草原の民はひどいな」


 出入口のほうに向かいながら、男たちがひそひそと話をする。


「いくら奴隷だからって、あんな扱いをするなんて。神は草原に罰を下されるだろうな」


 エムレはその様子を黙って見送っていた。

 冷たい、表情のない目だった。


 ハディージャにも、何も言えなかった。


 エムレが、悪役になってしまった。エムレが奴隷に暴力を振るい神の御意思に反したことをする乱暴で最低な男になり、おまけに草原の民の男への偏見もまた強化してしまったことになる。


 ハディージャとエムレの目が合った。


 エムレはちょっと苦笑した。


「俺たちも行くか。こんな騒ぎを起こしてもここに居続けられるほど俺は図々しくない」


 ハディージャは泣きそうになりながら頷いた。


 そんな二人に、導師が声を掛けた。


「欲得のためにつく嘘は神の好まれるところではないが、ひとを救うためにつく嘘は神も見逃してくださるであろう」


 その低い声は、先ほどとは違って、優しく穏やかだった。


 導師のほうを見ると、彼は落ち着いた目で二人を見つめていた。


「そなたは砂漠の民を信頼しているのだな」


 導師が言う。

 何のことだかわからず小首を傾げたハディージャに解説するように、彼は続けた。


「草原の民の身なりをしたそなたが砂漠の民の血を引く奴隷を折檻しようとしたら、仲間意識が強く敬虔な砂漠の民が止めるであろう、と。そういう魂胆があったのであろう」


 目の覚める思いだった。


「優しすぎるぞ、若者よ。本当に打つことになったらどうするつもりだったのだ」

「命をもって償います」


 エムレの顔を見た。彼はうっすら微笑んでいた。


「一生かけて。謝罪します」


 導師が頷いた。


「神もお喜びになるであろう」


 エムレが深々と頭を下げた。


「助けてくださって、ありがとうございました」

「なんの、これしき。これくらいできずに何が導師か」


 これが本当に徳の高い賢者なのだと思わされた。


「しかし、自己犠牲はよくない。そなた一人が周りから冷たい目で見られて済むわけではないのだ。同行者の自称奴隷もつらかろうし、故郷の草原にいる親兄弟も悲しむであろうな」

「故郷の草原の親兄弟はむしろ天罰をくらってほしいところですが、まあ、同胞たちみんながみんな白眼視されるのも本意ではないので気をつけます」

「よろしい」


 そして、導師が両手の平を見せた。


「神はすべてをご覧じている。神はそなたたちの行く末を見守っておられるであろう。神よ、そなたたちをよみしたまえ」


 それは、学識者見習いであるエムレにとって、最大級の祝福だろう。


 ハディージャも、気持ちが楽になった。


「それでは、俺たちも行きます。ありがとうございました」

「気をつけるように。そなたたちの上に平安あれ」


 ところが、導師は最後いたずらっ子のような目でこんなことを付け足した。


「いくら彼女を守るためといえども――ポーズだけであったとしても、愛しい妻に暴力を振るうのはよくないぞ」


 ハディージャはとっさに「違います」と言ってしまったが、エムレは否定せずにとっとと礼拝堂を出ていってしまった。ハディージャは彼を慌てて追いかけた。それを、導師はいつまでも穏やかな顔で見守っていてくれた。



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