#11 名前の無い魔法

 生活魔法、というものがある。

 魔法と言うのは何も戦や研究にだけ用いられるものではなく、かつては生活の様々な局面で使われていた。

 毎日同じことの繰り返しである家事労働はそのまま魔法の修練の積み重ねも意味し、生活魔法は最も習得の容易な魔法のひとつとされる。


 そもそも、発火の魔法からして、生活魔法の典型と言える。

 今となっては迷宮の外では無用の長物。だがかつては何より重宝する生活の技。


 古い時代の冒険者は、現在に比べ単なる営みのひとつとしてダンジョンに潜ることがはるかに多かった。

 冬でも食べられる実の生る採集場所。森よりも獲物の多い狩猟場所。

 人々はロマンや名声でなくそういったものを求めて迷宮に足を踏み入れる。


 伝承に残る古い魔法の多くは、戦いよりも仕事の役に立つものなのだ。

 川のない場所で水を汲み、薪を割らずに煮炊きをする。

 かつて望まれたささやかな夢の形。今は科学が肩代わりする、既に名前を失った無数の些末な手仕事。人の手をそれらから解き放つ奇跡を、かつて人々は魔法という名前で呼んでいた。


 *


「知ってんだからなお前が部屋で面倒がって皿も使わずキャンプ用品で飯食ってること。毎日部屋でキャンプしてるようなもんだからここでも出来るだろうが!」

「な、なんでそんなこと知ってんですか! プライバシーはどうなってんですかプライバシーは!」


 キャンプ動画が一定の人気を誇る定番のジャンルであることは、あまり見ない俺でも知っている。同様にダンジョンで習得した魔法を披露する動画もまた、一定の再生数を見込めるダンジョン配信お決まりである。

 その二つを組み合わせれば一定の需要が見込め、動画の見どころになる。


 動画の企画としては真っ当な発想だとは思う。

 だが、この二層でキャンプをするために魔法の習得を目指すなどと言い出すのは狂人の発想である。


「お前ならやれる。お前が、お前の魔法がここをキャンプ場にするんだ」


 老師の目は本気だった。


 生活魔法の習得方法。それは単純明快である。

 ダンジョンの中で生活をすること。日々の生活で準備したものを迷宮に持ち込むのではなく、日々の暮らしを迷宮の中でも営むこと。

 身体に染みついた日々の営みを、魔力を用いて再現する。


 出来ない道理はない。身の内に魔力はあり、日々の営みもまた当然ある。必要なものは全て揃っている。


 散らかった床にぐうたらするスペースを作る魔法。

 離れた位置にあるゴミ箱まで要らないものを飛ばす魔法。

 食べ物を落とした事実を、三秒以内なら無かったことにする魔法。


 老師がかつて実在したという生活魔法を挙げていく。たぶん出来るだろうなという実感がある。だって割とよくやっていることだから。

 そしてそれらの習得が容易いこともわかる。習得に掛かる労力も含め、普通にやるより楽だからそういう魔法が存在出来たのだ。


 問題はそんな魔法を覚えたくないことだけだった。 

 ダンジョンでの命懸けの冒険と日々の弛まぬ修練、その果てに得られる魔法。かつて夢にまで見た憧れが魔法にはある。今なお人々の心を離さない多くの冒険譚を綴る神秘。


「わかりましたよ……やればいいんでしょう?! やってやりますよ!! キャンプ魔法の魅力で全世界の視聴者たちを虜にしてみせますよ!!」


 俺の習得魔法の一覧が汚染されていく。



 憧れは理解から最も遠い感情である。

 長年の憧憬と切望と引き換えに、俺は魔術というものへの理解を積み重ねていく。


 今までの俺は、ただ魔法使いに憧れるだけの馬鹿なガキだった。

 俺は魔法使いになった。その過程で多くのものを失い、憧れは理解へと変わる。

 魔法という概念。その神髄。魔法とはアレだ。こう、アレなのだ。本来の用途は良く分かんないけど背中がかゆいときに丁度良い棒きれみたいなものなのだ。思ったよりいろんなことに使えるし、使えるのであれば使える用途すべてに使った方が良いものなのだ。


 俺の中で魔法と言う存在は憧れと非日常の象徴から引きずり降ろされ、当たり前に、そして雑に使われる三本目の腕となる。


 俺は魔法を使えるのだから魔法を使う。当たり前のことだ。

 俺にとって魔法を使うのは当たり前のことだから、俺は魔法を使える。これもまた当たり前のこと。

 そんな破綻した循環にダンジョンの持つ恒常性が力を与え、俺は自分の魔力が今までに無いほど高まっているのを自覚する。

 論理ではない。自分は魔法が使えるという実感。自分にとって魔法は身体の一部であるという認識。それこそが魔法の根源であることを、頭ではなく身体が理解する。



 たぶん今日から俺はリモコンを押すのに立ち上がったりしない。尻が痒ければ誰にもバレずに尻を掻ける。カレー鍋は魔法がかき混ぜるから目を離しても焦がしたりしない。

 カメラを自分で構えるのも止めた。こんなん魔法で持てばいいのだ。だって持てるのだから。


 その場のノリ、あるいは必要に応じてアドリブでオリジナルの創作魔法を作ることは当たり前のことだ。

 俺は今思い付いたもう無いはずのケチャップを無から絞り出す魔法を試しに使いながら、改めて自分の周囲を見回す。

 世界は既に一変していた。ああこれも魔法で出来るな、魔法でやっていいな、という類の物事で視界は満たされている。


 ただの布切れをひと撫ですると、それはもうまな板の代わりとして使える。十分な硬さに強化された布の板をちょうどいい高さに手で持ち上げ、手を離した後もその場所を維持させる。

 先輩が集めてきた知らない実をナイフでスライスして、纏めて鍋に放り込む。


 名前の無い無数の魔法。

 ファイアボールだのコールウィンドだの、そんなものよりそっちの方がよほど役に立つ。

 自分が習得魔法のリスト? それがもう魔法の使えない人間の発想だ。レシピが無ければ料理を作れない料理の素人と同じ。

 レシピがあるかなどどうでもいい。レシピが無ければ目の前の有り合わせで作れば済む話で、問題はその出来、今食べたい味になるか。


 要は目的さえ達成できればいいのだ。

 腹さえ膨れればそれでいい、今作っている名前の無い料理のように、敵を殺したければ魔法で石でも投げればいい。


 鍋の火力を調節する。

 今朝までは火を出すだけで精いっぱいだった俺の魔法は、今や目を離しても燃え続けるし、細やかな火力の調整も朝飯前である。

 老師が獲ってきた鳥を捌いてこれも鍋にぶっこんで、その隣では先輩が拾った謎の草を洗って刻んでいる。


 キャンプ魔法と強弁した俺の雑な魔法に助けられながら調理を進める二人を撮影する。キャンプ動画などやったことはないが、なんとなくのイメージでそれっぽくやれば問題ないだろう。

 ガチのキャンプ動画が見たい視聴者はガチのキャンパーの動画を見ればいい。


 良く分からない料理を作り、思い付きのキャンプを低性能な撮影機材で撮り、素人の編集で垂れ流すのである。どんなに低クオリティであっても、それがダンジョン内の危険地帯で魔法を用いて行われているだけで視聴者は喜ぶ。

 ここはダンジョンである。キャンプ場ではない。

 だが、ダンジョンをキャンプ場と言い張り、キャンプをすることに意味がある。



 *



『なんか急に燃え始めたんだけどこれ大丈夫かなあ』

『料理が失敗しても死ぬわけではないので大丈夫だと思いますが……一応延焼が怖いので消して完成ということにしましょうか。デデーン! ここでなんかイイ感じのテロップ!!』

『料理は全然ダメな感じなんだが? 田中お前なんか大丈夫か? お前が大丈夫か?』

『はい! ということでね、今回はですね、魔法の力で料理してみたわけですが! いやもうほんとに、出来たことにびっくりです。魔法ってすごい。そう思いましたね。ではこの動画が面白かった人はチャンネル登録好評価よろしくお願いします!』

『飯は? 飯食うところは撮らねえの?』

『出来た料理は、スタッフが責任もって全ておいしくいただきます!! それではまたお会いしましょう! Bye!』

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