(2)

「エクレール、エクレール、王子領に着いたぞ」

「待ってガレット……あと五分……」

「長旅だったものな。起きれなくても無理はない。俺が運ぼう」

「ガレット無茶よ……そんな細腕で……」

「俺はノワール、十九歳だ。エクレールよりも背が高いし力もある」

「……んえ?」

「だから心配するな。それじゃあ、今から部屋に連れて行こう」

「あ、え、どういう……きゃあ!?」

 馬車の中でうとうとと微睡んでいたら、いきなり体が宙に浮いた。驚いた弾みでバランスを崩してしまったが、ノワール様は難なく私の体を支えてくれる。いつもよりも高い視線の先には、かつての日常に近い光景が広がっていた。

「相変わらず軽いな」

「体重は人並みにあります。ノワール様が力持ちだからそう思われるだけかと……あの、もう起きましたから降ろして下さいませんか?」

「なるほど、軍の訓練に交じって鍛えていた甲斐があったな」

「降ろして下さいませんか?」

「謹んでお断りしよう。七年越しの再会なんだ、エクレールを片時も離したくない」

「……そうですか」

 こうなったら、彼は絶対に聞いてくれない。一度決めた事は貫き通す、という性分は相変わらずのようだ。

(まだ、そうおっしゃって下さるのね)

 エクレールと離れたくない。婚約が決まって以降、ノワール様は何かと理由を捻り出してはフェリシテ家を訪れてくれていた。そして、迎えの馬車が来るたびに、そう言って御者や側近を困らせていた。エクレールを王宮に連れて帰ると言って私を馬車に乗せようとした事もあったし、馬に乗れるようになってからは王宮を抜け出して一人で訪ねてくる事すらあった。だから……確かに、あの時おっしゃっていた気持ちは本物だったのだろうと思う。

(だけど……今も、だなんて本当に?)

 どうしても、そう思ってしまって彼を信じきれない自分もいるのだ。正直、そう思っても仕方ないのではないだろうか。

 だって、彼はこの七年の間も王子として貴族の世界で生きてきた。彼自身もかなり恰好良く育っているし、見目麗しかったり優秀だったりする貴族の御令嬢も数多く見てきた筈だ。それなのに、そんな社交界の華達よりも私を……だなんて。嘘を言っているようには見えないけれども、私に人を見る目がないだけかもしれないし。

 仮に、本当に、心から今でも私を想って下さっているというのならば、それはそれで気後れしてしまうのだ。いや、嬉しいのだけど。七年も消息を絶っていた私を、それでも変わらずあの頃と同じように想って下さっているというのならば、本当に。だけど。

 今の私は村娘。侯爵家の御令嬢として研鑽を積んでいたのは七年前までで、貴族令嬢としての振る舞いや知識、教養は更新される事がないまま止まっている。

 そして、この七年で新しく覚えた事と言えば、食器洗いや簡単な料理、村の気候に合わせた寒暖への対応方法、刺繍以外の裁縫仕事やハーブ栽培等々、村での暮らしに必要或いは便利な技術ばかりだ。生きていく上で必要なものだったし知っていて損になる事はないだろうけれど、貴族生活に役立つのかと言われると微妙である。

(……今の私は、彼の隣に相応しいのだろうか)

 ただのエクレールとなった私が、前のように彼の愛情を受け取って良いものなのだろうか。


  ***


「只今を以て、フェリシテ家の爵位を剥奪する!」

 私を取り巻く世界が変わったのは、十歳になった時だった。その前年に母が逝去し、愛する妻を失った絶望で壊れていった父の圧政を止めるには、もうそれしかなかっただろう。

 この国の貴族が爵位を剥奪された際は、領地も屋敷も全て国に返還する決まりとなっている。それまでに貯めていたお金やドレス・家具等は手元に残せるが、これからは貴族でないので持っていても活用出来ない物ばかりだ。

 だから、思い入れがあるものやこれからも普段使い出来そうなもの以外は全て売り、その一部を退職金として使用人達に紹介状と共に配った。そして、治療が必要な父を国境沿いの山の中にある療養施設へ入れ、私自身は麓の町の修道院に入ろうと思っていた。

 そんな中、母の侍女だったシトロンが私に声をかけてくれた。自分はクレア様に救って頂いた身、今の暮らしがあるのはクレア様のお陰、だからこそ、クレア様亡き今は忘れ形見であるエクレール様の力になりたいのだ、と。甘える訳には……とは思ったものの、私はまだ当時十歳、心細さはあったのでシトロンについていく事にした。

 そして、療養施設がある場所からほど近いシトロンの故郷の村で、私とシトロン、シトロンの娘で侍女見習いだったガレットとの三人暮らしが始まった。華やかで豪華だった生活とは打って変わった生活だったけれど、一人じゃなかったから頑張ってこられたんだと思う。

「エクレール、今大丈夫か?」

「ええ、はい」

 私の部屋だと言って案内された部屋のベッドに寝転がっていたら、ドアの外からノワール様に声を掛けられた。ドアを開けるために体を起こしてベッドから降りたのだが、その前にドアが開いてノワール様が部屋に入ってくる。そんな彼の傍らには、どこか見覚えのある青年とシトロンくらいの年のメイドが立っていた。

「部屋の具合はどうだ? 足りない物があったら言ってくれ」

「十分過ぎるくらいにご用意頂きましたので大丈夫です。私が持ってきた荷物はどこにありますか?」

「今荷馬車が着いたから降ろさせている所だ。じきにメイド達が持ってくるだろう」

「ありがとうございます。あの」

「どうした?」

「そちらの男性、もしかしてブラン・デュランス様ですか?」

 私の記憶が正しければ、茶髪の彼は幼少期からノワール様の側近として仕えていたブラン・デュランス伯爵令息だった筈だ。かの伯爵家の三番目の息子で、ノワール様が王宮を抜け出す度に連れ戻しに来ていて……苦労人だったなという記憶がある。

「ええ、その通り。お久しぶりでございます、エクレール様」

「貴方は、変わらずノワール様の傍に?」

「お蔭さまで。未だによく城を抜け出されるので、その度お迎えに上がってますよ……ああ、ブランで大丈夫です」

「……ブラン」

 余計な事を言うなとばかりに、ノワール様が彼を睨みつける。睨まれたブランは、やれやれという風に肩を竦めて一歩下がった。入れ替わるように、控えていたメイドが一歩進み出る。

「彼女は今のうちのメイド長、ローヌ・マルセだ。ベテラン中のベテランだから、安心して頼ってくれ」

「ご紹介に預かりました、ローヌ・マルセと申します。以後お見知りおき下さいませ」

「こちらこそ。よろしくね、ローヌ」

 彼女の方へ一歩近づいて、右手を差し出した。握手しようと思ってそうしたのだけれども、当の本人には不思議そうな顔をされてしまう。

「あ……ごめんなさい。そうね、ここではしない事だったわ」

「浅学で申し訳ありません。何をご希望でしたか?」

「握手しようとして……村では、いつもこうしていたから」

 ローヌに尋ねられたので答えると、傍らにいらっしゃったノワール様の眉間に分かりやすく皺が寄った。どうしよう、何が琴線に触れたのかは分からないが怒らせてしまったのだろうか。

 そう思って困っていたら、彼の両手が私の両手を掴んだ。そして、互い違いに指を組まれてぎゅっぎゅっと握られる。

「え? あの……ノワール様?」

 彼の行動の意図が分からなくて、助けを求めるようにブランとローヌの方を見る。ブランは笑いを押し殺していて、ローヌは呆れたような表情をしていた。

「気にしなくて大丈夫ですよ。拗ねているだけですから」

「拗ねて……? 何故?」

「今まで貴女と握手してきた村人が羨ましいのでしょう」

 さらりとそんな事を言われ、私の顔が熱くなった。ノワール様は、相変わらず無言で私の手を握っている。

「もうそろそろエクレール様のお荷物も届くでしょうし、お召し替えをしないといけませんので。お二人は執務にお戻り下さい」

「だ、そうですから。行きますよ、ノワール様」

「……まだ到着していないだろう」

「足音聞こえてきましたもん。数分と経たずに来ますよ」

「まだ到着していない」

 子供のように繰り返しながら、ノワール様に手を握られる。心なしか力が強くなっている気がする……と思っていたら、勢いよくドアがノックされた。

「お荷物届きましたよ!」

「ありがとう。入って」

 返事をすると、複数のメイドや使用人達が荷物を持って部屋にぞろぞろ入ってきた。鉢植えは大丈夫だったかと思ってちらっと確認したが、特に問題は無さそうだ。

「さあノワール様、行きますよ」

 そう言ってブランがノワール様の腕を掴んだので、隙をついてノワール様の手から逃れる。ノワール様は、ブランに引きずられながら執務室に戻っていった。

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