11:接近


 エルシーにはまた日常が戻ってきていた。婚約者候補の教育期間は問題なく続いている。


 事件が起きてから、ライナスが資料室に顔を出すことはなかった。その代わり、フィルがライナスからの差し入れを持ってエルシーの元を訪れていた。


 ライナスのように迷いなく参考になる本を取ってくるなどということはないものの、エルシーが行き詰まった時にさりげなく助言したり、本を探しに行ってくれるフィルの存在はありがたかった。口数が少ないだけで、エルシーを嫌ったりしてはいないというのは本当のようだ。


 さらに、ここ数日で、ライナスが資料室に来なければ、婚約者といってもなかなか会う機会がないということにエルシーは気付かされた。期限付きの婚約者候補なのだから、それも当たり前かと思い直す。それに、あの日以来顔を合わせていないため、どんな態度をとればいいか、よく分からなくなっていた。


 普段通り、資料室へ向かうと、なんだか慌ただしい。いつもは資料室にはいない使用人までやってきている。室内に入ると、エルシーに気づいた一人が近づいてきた。


「もしかして、今日はここは使えない?」

「そんなことはございません。ただ、少し騒がしいかもしれません」

「何かあったの?」

「実は、長く使っている棚が一つ壊れていることが分かりまして。いつ本が落ちてきてもおかしくない状態だったのです。それで、よい機会なので棚を新品に入れ替えようということになりました」

「そうだったのね。何か起きる前に気づけて良かった」

「はい。すでに本棚から出してある本はあちらにありますので、いつも通り自由にご覧ください」


 言われて室内を見回すと、本が積み重ねてある。

 

「奥の持ち出し禁止の棚はどうかしら?」

「そちらは、今日はまだ入れ替えができないということで、通常通りご利用いただけます」

「わかったわ。ありがとう。忙しいのに手を止めさせて申し訳なかったわ」

「いえ、大丈夫でございます」


 仕事に戻る使用人を見送り、エルシーは、奥の棚へ歩き出す。今日は、他国の古代史が課題なので、持ち出し禁止の棚の本に用事があった。


 棚のそばに小さなテーブルと椅子があり、作業をする使用人の邪魔にならないよう荷物を置く。


 持ち出し禁止の本は、チェーンで棚と繋がれており、その場で見る形になるので、手元にメモと筆記具だけ準備して、目当ての本を探すことになる。


「こっちの棚も、こうやって見るとかなり年季入ってるわね……」


 これだけの膨大な量の本が落ちてきたらと思うと、なぜか本当にそれが起こりそうな気がして、慌てて首を振った。縁起でもないことを考えるのはやめよう。


 目当ての本を見つけ、時々メモを取っていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。フィルか、使用人かと顔を上げると、ライナスが立っていた。エルシーは一瞬驚き、すぐになんでもない表情を装った。


「……ごきげんよう」

「こんにちは、エルシー。そんなに間を空けたつもりはなかったのですが、久々な感じがしますね」

「もうお身体は?」

「すっかり元気です」

「それは、良かったです」


 エルシーの隣まで来て、ライナスはメモを覗き込む。よく調べられていて、要点がまとめられているなと感心した。


「フィルは役に立ちましたか?」

「えぇ。もちろんです」

「……そうですか」


 ライナスは、自分でフィルを遣いにやったのに、なんだか面白くない気分になる。


 エルシーはエルシーで、近くなった距離を意識してしまい、それを誤魔化そうと、意味もなく手元の本に視線を落とし、ページを繰っていた。


「何か探していますか?」

「えっ……あー、その、この辺りの戦いのことについて、詳しい記述を……」

「なるほど」


 全然必要はない資料だ。ただライナスとどんな顔をして話せばいいかわからなかっただけだ。


 そんなエルシーのことを知ってか知らずか、この本だけでは難しいと、ライナスは少し離れた本棚を見ていく。


 本を引き抜こうとすると、エルシーのいる方から、ミシッと木がしなる音が聞こえた。二人はすばやく上を見上げる。棚板の本の重さでたわんでいた部分に亀裂が入るのが目に入る。


 ライナスはとっさにエルシーに駆け寄り、頭を抱えるように抱きしめた。


 けれど、待てども、ライナスの予想した衝撃はなく、彼の腕の中にすっぽりおさまったエルシーは、あまりの近さに言葉が出て来ず、固まっていた。

 

「エルシー、怪我はないですか?」

「……す、スキルを……使いました」


 ライナスは腕の力を少し緩めて、上を見上げる。コツンと鼻先に本が当たった。間一髪だったようだ。


「殿下……苦しいです……。」


 未だ自分の腕の中で顔を隠すように小さくなっているエルシーに視線を戻すと、耳が真っ赤になっているのに気づく。先ほどの面白くなかった気持ちはとっくにどこかに行ってしまって、今エルシーがどんな顔をしているのか見てみたくなった。

 

「離す前に、顔をあげてもらえませんか?」

「む、無理です!」


 絶対にからかわれているし、絶対に真っ赤になっている。エルシーは鏡を見なくても、もう分かっていた。とにかく顔のいい男、しかも王子に抱きしめられたら、どんな女の子だってみんなそうなる。ならないわけがない。これは普通の反応だ。落ち着こう私。

 

「なんだか、安心しません?」

「しません! 離してください!」

 

 頭上から、くくく、と笑う声がして、ライナスが体を離す。そして、エルシーの後頭部に回されていた手が、ふわふわの髪をとかすように触れてから離れていった。


 ライナスの行動の何もかもがエルシーの体温を上げていき、この腹黒王子が……!と言ってやりたくなる。それを我慢して、俯いたまま、一歩後ろに下がり、そのまま振り返って、走った。


「椅子をとってきます!」

 

 取り残されたライナスは、上機嫌で、手が届く範囲にあるチェーンの切れてしまった本を集め始めた。


 少ししてエルシーが椅子を持って戻ってくる。ライナスが声をかける隙を与えぬよう、すばやく椅子に乗り、本を無心で集めている内に少し落ち着いてきた。


 落ちてくる本がないかよく確認して、スキルを止める。


「誰か、こちらに来てくれないか」


 ライナスの声に使用人が近づいてくる。そして、二人の様子と、棚を見て、顔を青くした。


「お怪我はございませんか!?」

「二人とも無事だよ。壊れる直前に気づいたからね」

「あとは、私どもで片付けをいたします!」


 使用人に本を渡し、椅子を降りようとすると、ライナスが手を差し出してくる。使用人の前なので、無視するわけにもいかず、手を借りた。ライナスにとってはなんでもない行動なのだろうが、様になりすぎて困る。


「ありがとうございます」


 すぐに手を離してお礼を伝えるが、ライナスを直視できそうもなく、視線を床に落とす。


「ここでは、レポートはできなさそうですね」

「そうですね……」


 このままここにいれば、片付けをする使用人の邪魔になるのは明らかだった。かといって、自分の屋敷に帰っても資料が足りない。

 エルシーはどうしようかと腕を組む。


「では、私の執務室にどうぞ」

「それは殿下の仕事の邪魔になりませんか?」

「困っている婚約者を置いていくような男にはなりたくないので」


 執務室に行けば、トレイシーやフィルもいるはずだ。このまま二人きりよりも、よっぽどましな環境かもしれない。

 エルシーはライナスと共に、執務室へ移動した。


 目的の部屋に着くと、そこは空っぽだった。あれ?と見回すエルシーを見て、ライナスは口を開く。


「トレイシーは、私がいない間は休憩を取らせています」

「そうでしたか……」


 唯一、フィルは護衛として扉の近くに立っているが、気配を完璧に消していて、会話に入ってくる様子はない。完全に計算違いだ。


「どうぞ私の執務机を使ってください。特に見られてまずいものは机の上にはありませんから」

「……恐れ多いのですが……」

「このソファとローテーブルでは書きづらいでしょう。ほら、あまり時間もありませんよね。遠慮せずどうぞ。何かわからないことがあれば、聞いてください。ここにいるので」


 ライナスは、ソファに座って、足を組み、エルシーを見やる。エルシーは、仕方なくライナスの執務机を借りることにした。


 実際にレポートを始めてみると、ソファから執務机はある程度の距離がある。いつものように隣に座られない分、気が楽だった。


 エルシーは分からないことを時々ライナスに質問する。目の前に本はないのに、ライナスは本当に色々なことに詳しく、思慮深い。改めて、優秀さを知ると共に、尊敬の念が湧いてくる。からかいが過ぎるのだけは、いただけないが。


 エルシーは、心の中で育ちつつある気持ちを、一臣下としてライナスを助けたい気持ちだと自分に言い聞かせた。この騒動が終わるまで、余計なことは考えず、しっかり役割を果たそう、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る