第2話 ∞南天の実とかき揚げ丼




 三瓶さんぺいユリが葛西に来たのは水族館に思い出があったからだ。中学時代から好きだった先輩、その人がアクアリウムを趣味でやっていたからだ。二人のデートはいつも、ここの水族館だった。

 ゲートを出て、ため息をつくユリ。七分丈のパンツルックに、スカーフを首に巻き、スポーティなショルダーバッグで石畳を歩き、水族館を後にする。


『行方不明』ってどういうことよ。ため息交じりの疑問符が宙を舞う。


 それは去年の成人式の日のこと。式典で、久しぶりに会った同級生。そこで話題の中心は、そのアクアリウムの先輩、魚住兼太うおずみかねたのことである。

「ユリって、魚住先輩とつきあってたよね」

 晴れ着に身を包んだ幼なじみの美希が言う。

「うん」

「行方不明になったの知っている?」

「ううん」

「私の隣の子が魚住さんの友達なんだけど、先週から連絡が取れないんだって。なんでも傷心旅行でアマゾンに出かけたままだって」

「アマゾン?」

「ネットショップじゃないわよ。南米の川よ」

「それくらい分かるわよ」

「それで現地からの情報も無くて、生死もどちらかと言えば、絶望じゃないかって」

 ユリはそれ以上聞けなかった。いやあまりにも唐突な、突飛な話で、頭がついていかないのだ。両耳を手で覆い美希の言葉を遮って、帰って来たまでは覚えている。


「あれからずっとひとり。私のせいじゃないわよ! だってフラれたのはこっちじゃない。折角勇気を出して結婚したい、って告白したのに、待ってくれの一点張り。返事聞けずに行方不明って。それなのにどうしてあっちが傷心旅行なのよ。よりによってアマゾンって、水槽馬鹿にも程があるでしょう、こんなに好きだったのに」


 握り拳に力が入るユリ。そのまま人の流れに無意識についていってしまう。

「ここどこ?」

 見れば駅前の飲食店街の入り口である。ウェルカムボードには『本日のおすすめはかき揚げ丼です』とある。彼との思い出の味だ。


「なんか食べていくか」

 彼とのデートの帰りに何度か立ち寄った食堂。

「この食堂『潮風食堂』って名前だったのか」


 納得しながら暖簾を潜ると、青砥一色と零香の夫婦が温かく声をかける。

「あらお久しぶり。今日はお一人なのね」

 おつりの受け渡しなどでなんどか会話した程度の客であるユリの顔など覚えていないと思っていたので、零香の記憶に面食らった。

「わたしのこと、覚えているんですか?」

「ええ、水族館の帰りにいつも男性の方とお二人で寄ってくださって、しらすのかき揚げ丼を召し上がっていかれる事が多かったですよね。私は零香っていいます。ここのお嫁さんやってます」と笑う。

「零香さんですか」

「はい」

「あの人、行方不明だってことです」

「まあ」

 肩を落とす零香。人ごとのようには思っていないようだ。


「唐突に済みません。水槽馬鹿だから、そのままアマゾンの源流で流木にでも頭打っちゃったのかな?」

 強がりに笑う声に覇気は無い。


「流木もかき揚げに入れて、揚げて食べちゃうと良いのね。元気出してね」と零香。

「ねえ。ありがとうございます」と曖昧に微笑む。


 改めてメニュー、お品書きを見るユリ。

「やっぱり、表の看板にあったしらすかき揚げ丼かな」

 お冷やを置いた零香は、優しく「はい。かしこまりました」とだけ返事した。


 鍋の油に天ぷらを具ごと落とす一色。ジュワーっと天ぷらのはねる音とごま油の香ばしいにおいが店内に漂う。


 やがて盆の上に丼と吸い物を載せ零香が厨房から戻ってきた。

「はい、しらすかき揚げ丼でございます」

 見ればかき揚げ丼の縁に赤い実をつけた小枝が添えられている。以前はこんなもの載っていなかった。

「これは?」

「お飾りなので、食べるときは除けてください。ウチの人が『難を転じる』って験担ぎで、あなたに幸運が来るように、と添えたようです。南天の実です」

「まあ」

 ユリは、その枝をつまんでしげしげと見つめる。

「これいただいて帰っても良いですか?」

「勿論」と零香。

 ユリは厨房の奥で微笑む一色に会釈をすると、割り箸を割って思い出の味を堪能し始めた。


 ワンルームマンションの一室。ユリは短大入学を機に隣町の千葉で一人暮らしを始めた。

ベッドサイドにその南天を置くと、

「少し気が晴れた」と呟いて、眠りについた。


 うとうとがどれくらい続いただろう。自分を呼ぶ声でユリは目が覚める。

「ユリ、ユリ」

 それは登山ジャケットと重壮な靴を履いた魚住だった。

「先輩」

「ユリ、僕は死んでないよ。大丈夫、必ず君の元に返るから」

 そう言って彼の姿は消えた。

「生き霊?」と不思議な顔のユリ。

「私の元に返るって、私フラれたんじゃないの?」

 不可解な言い回しに、変な気分になるユリだったが、

「まあ、夢だしね。気休めかな」と忘れることにした。


 次の日、ユリの携帯電話に美希からのメールが飛び込んできた。

『魚住さん、家族と連絡取れたんだって』

『知ってる』と返すユリ。

 そしてユリは携帯電話を胸にあて、ぎゅっと抱きしめた。

 すでに彼から直接電子メールが届いていたのだ。

 彼からのメッセージはこう書かれていた。

『ユリ、結婚しよう! アマゾンユリの写真を送ります。これを君に見せたくて、ユリのために探しに来たんだ。あと数時間で羽田に着くよ。シャワー浴びてスーツに着替えたら君の家に結婚申し込みに行くからね。待っていてね』

 一方的な彼のスケジュールには、毎度のこと業を煮やすが、今回ばかりは『難転』して嬉しいことだった。

「ほんと馬鹿」

 ユリは南天の花とアマゾンユリの写真を眺めながら、とても待ち遠しい、それでいて恥ずかしいような至福の時間を過ごしていた。


                            了


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