中
「深淵」で、魔王城へと向かうクラウディアと別れてから1ヶ月。
王宮へと戻って来たフェルナンドは、その日、王都の一角にある壮麗な屋敷を訪れていた。
横付けされた馬車を降りたフェルナンドは、目の前にそびえ立つ、王宮ほどではないにせよ国内でも有数の大きさと美観を誇る屋敷を前にして表情を改め、襟を正す。護衛騎士を従えて進み出ると、屋敷の前に整列していた家人が恭しく一礼し、家令に任じられている壮年の男が口を開いた。
「殿下、ようこそお越し下さいました。これより
「うむ、よろしく頼む」
一行は緊迫した雰囲気こそないものの、公式の行事のように形式ばった様相で家人の案内に従い、屋敷に足を踏み入れる。フェルナンドにとって既に何度も通った見慣れた通路を抜けた後、先行する家令が振り返り、開け放れた扉に向けて掌を差し伸べた。
「…殿下、どうぞお入り下さい。
「うむ」
家令の言葉にフェルナンドは頷き、部下の手から花束を受け取ると、一人で部屋の中に入る。広い部屋には、美しい模様のあしらわれた高価な調度品が幾つも並んでおり、中央にはひと際大きなベッドが一台据え置かれている。フェルナンドが部屋の中央に進み入ると、ベッドに横たわっていた若い女性が侍女の手を借りて身を起こし、血色の悪い顔に喜びを湛え、嬉しそうに微笑んだ。
「…けほっ、けほっ…フェルナンド様、ようこそお越し下さいました。私、フェルナンド様の来訪を今か今かと楽しみにしていましたの…けほっ、けほっ」
「オフェリア殿、無理をなされるな。前回から日が空いてしまって、すまなかった。以前よりも心持ち、顔色が良くなっているのではないか?」
「そのようなお世辞を…ここ数年、体の調子は全くと言っていいほど変わっておりませんわ…けほっ、けほっ…ですが、それでも今日は少しだけ調子が良いかも知れません…久しぶりにフェルナンド様の御姿を目にする事ができましたから…」
そう答えたオフェリアは咳き込みながら微笑み、青白かった頬が薄っすらと赤く染まる。オフェリアが向ける潤んだ瞳に、フェルナンドは表面上は麗しい微笑みを湛えて一つ頷くと、手にしていた花束をオフェリアへと差し出した。
「オフェリア殿、少しでも気分転換になればと思って持ってきたのだが…」
「まぁ、素敵…バラにガーベラに…好い匂い…」
オレンジ色のバラやイエローのガーベラ等、色鮮やかな花束を受け取ったオフェリアは、一つ大きく息を吸って匂いを楽しむと、花束の向こう側に浮かぶフェルナンドの顔に向かって満面の笑みを浮かべる。フェルナンドが儀礼的に頷きを返すと、オフェリアは侍女に花束を渡し、背中を支えるクッションに身を預けて体を休ませた。
「…2ヶ月近くご無沙汰でしたですが、お忙しいのですか?」
「ああ。このところ執務が立て込んでいた上に、地方の巡察も重なってしまってな」
「まぁ、王都にいらっしゃらないのであれば、一言申して下されば無用な期待を抱かずに済みましたものを…」
「すまなかった」
フェルナンドの言葉を聞いたオフェリアが唇を尖らせ、フェルナンドが軽く頭を下げる。侍女が紅茶を淹れ、フェルナンドはベッドの上で無邪気な笑顔を見せるオフェリアに無難な態度で応じながら、冷静に相手を観察する。
フェルナンドの婚約者であるオフェリアはクラウディアの双子の姉であり、女性かつ僅か20歳でありながら、マルチネス侯爵家の当主でもある。兄が王太子となり、将来臣籍が確定しているフェルナンドにとって、国内有数の有力貴族で資産家でもあるマルチネス侯爵当主との婚約は、十分に将来が約束されたものと言えよう。
だが、フェルナンドはこの婚約に喜ぶどころか、大きな不満と違和感を抱いていた。彼はオフェリアと差し当たりない会話を交わしながら、どうしても目に映ってしまう現実に苛立ちを覚える。
…陰気臭い。回復の兆候も一向に見られない。それに、この女はクラウディア殿の双子の姉にも関わらず、――― 穢れている。
オフェリアはクラウディアの双子の姉だけあって、目鼻立ちや顔の造形は瓜二つと言って差し支えないほど似通っている。だが、妹のクラウディアが神々の寵愛を一身に集めたかと思えるほどの神々しさと力強さを放つ一方、姉のオフェリアは体が弱く、日常生活も侍女の手を借りなければ満足に済ませられない。その影響もあってオフェリアの顔色は常に青白く、やつれており、せっかくの目鼻立ちの良さを悪い方向へと引き立てていた。
また、オフェリアの頭部を彩る髪は、クラウディアの眩いばかりの金色の髪とは対照的な、闇夜のような黒一色で、瞳の色も黒曜石を思わせる黒。クラウディアの瞳は太陽を思わせる橙色に輝いており、妹が「昼」の化身であれば、姉は「夜」の化身だった。
なおかつ、その「夜」が芸術的な対照を意味する比喩的表現ではなく、人々の不安を呼び覚ます忌まわしい存在であると否応なしに認識してしまう、その穢れ。フェルナンドは、只人であれば気づけぬであろう、オフェリアの体に纏わりつく黒い靄に目を留め、感情が面に出ないよう表情を取り繕う。
――― 何度見ても間違いない。アレは、瘴気だ。
瘴気は、様々な形となってこの世界に現れる。
毒、腐敗、死病と言った、体を蝕む時もあれば、憎悪、怨念、恐怖、悪しき欲望と言った、心を蝕む形で姿を現わす場合もある。
その瘴気が、オフェリアの痩せ細った体に纏わりついている。
オフェリア自身を蝕んでいる病魔ではないだろう。オフェリアの症状は、瘴気に侵された者としては、あまりにも軽い。
そして、フェルナンドにとって不可解な事に、クラウディアもオフェリアの瘴気に気づいていながら、敢えて祓おうとしていない。
オフェリアの体が蝕まれていないのであれば、その瘴気は心に巣食っているのだろう。それは、ままならない病弱な自身の体に端を発する、周囲への憎悪や羨望なのか。数々の偉業を打ち立て、人々の賞賛と栄光を集める双子の妹への、嫉妬なのか。或いは、それらを全てひっくり返し、他者の幸せと引き替えにしてでも手に入れようとする、破滅的な欲望か。
フェルナンドは、そんな瘴気に塗れた女と婚約しており、――― いずれ夫婦となって将来を共に歩まねばならない。
フェルナンドの苦悩を知ってか知らずか、話し疲れたオフェリアが息を吐き、目を伏せたまま頭を下げる。
「…申し訳ありません、フェルナンド様。婚約してから
「あ、いや。お気に召されるな、オフェリア殿。私の事は気にせず、今はまずご自身の回復に努められよ」
「ありがとうございます、フェルナンド様。必ずや健康を取り戻しますので、今しばらくお待ち下さい…けほっ、けほっ…」
オフェリアの謝罪に対し、フェルナンドは掌を振りながら、曖昧な頷きを繰り返す。オフェリアとの結婚を望んでいないフェルナンドにとって、彼女の申し出は渡りに船。彼は病弱な婚約者の体を気遣う心優しい王子を演じながら、事態の先送りを続ける。
――― だが、こんな茶番は、もう終わりにする。
「…オフェリア殿。今年も静養に向かわれるのか?」
「はい。明後日王都を発ち、自領にて体を労わって参ります。フェルナンド様と1ヶ月もお会いできないのは、寂しい限りです」
「私もだ、オフェリア殿。だが、貴女の体の事を思えば、致し方ない。1ヶ月後、元気な姿でお会いできる事を、願っているよ」
「はい、またお会いできる事を楽しみにしています。フェルナンド様」
婚約者の仮面を被り、取り繕ったフェルナンドの笑顔を見て、オフェリアは憧憬を露わにして微笑む。
そうしてオフェリアの部屋を辞そうとするフェルナンドの首筋から、黒い靄が微かに立ち昇っていた。
***
「…準備は?」
「些かの抜かりもなく」
オフェリアを見舞ってから5日後。
王宮の一角に割り当てられた執務室にて、フェルナンドは一人の男から報告を受けていた。彼はフェルナンドの股肱とも言うべき腹心であり、フェルナンドのためとあれば自らの手を汚す事も厭わない男だった。男が報告を続ける。
「今頃、マルチネス侯爵は盗賊に襲われ、生死の境を彷徨っているところでしょう。殿下、結婚を目前にして突然婚約者を喪いました不幸、まずはお悔やみ申し上げます」
「ああ、ありがとう」
フェルナンドは豪奢な椅子に身を沈め、瞳に冷たい光を浮かべながら、男の弔礼に応じる。フェルナンドは窓の外に目を向け、南の夜空に浮かぶ満月を視界に捉えながら、しみじみと呟いた。
「…クラウディア殿は、さぞ悲しまれるだろうな。魔王を討伐して凱旋してみれば、血を分けた、たった一人の肉親が亡くなっているのだから。彼女を襲った不幸を想うと、胸が張り裂けそうだ」
「はい。当主を喪い、由緒あるマルチネス侯爵家の血を引く者は、これでクラウディア様ただお一人となりました。如何な『聖女』とは言え、御家存続を考えれば、還俗して夫を迎えざるを得ますまい」
「ああ。だが不幸中の幸いと言うべきか、魔王はクラウディア殿の手によって討伐されている。クラウディア殿も安心して還俗できよう。私も彼女の姉の婚約者として同じ人を喪った悲しみを分かち合い、いずれは伴侶として彼女の将来を支えていくつもりだ」
4年前、初めてマルチネス姉妹と相対したフェルナンドは妹のクラウディアを見初め、その想いを打ち明けたが、彼女は「既に私は女神様に身も心も捧げております」と述べて断っている。そして代わりに自分の姉との婚約を奨め、国王の意向もあって、フェルナンドとオフェリアの婚約が成立した。
フェルナンドは現在22歳。
この国の第二王子であり、秀麗眉目な彼の許には絶えず見目麗しい女性達の秋波が送られて来るが、オフェリアという病弱な婚約者の存在に拘束され、それに応えるわけにもいかない。18歳から22歳までの、最も精力的とも言うべき4年間をむざむざ空費してしまった事にフェルナンドは歯噛みしながら、それでも望まぬ女との結婚を回避し、クラウディアと言う最高の女性がもうじき手に入る歓びに浸る。実兄である王太子の妃は公爵家の出身とは言え、凡庸な女だ。
その時。
執務室の空間が矩形に切り取られ、眩い光が部屋の中を照らし出した。
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