29. 縄とロウソクと
大声を張り上げたかと思うと、バッと立ち上がっていた。電気をつけて、洗面所にかけこんだ。胃液は何度も食道を侵して、鏡のなかのぼくは、玉のような汗を青ざめた顔に浮かばせていた。
コップいっぱいの水を飲み干して、椅子にもたれかかり、つとめて別のことを考えようとした。
震えがとまらなかった。あの視線、あの嘲笑、あの屈辱――アイツは、いつだってぼくの敵であり、敵であることを自覚しておらず、自分を正義の味方だと思い込んでいた。
* * *
今日がバイトの日であったならば、少しは気が紛れたのかもしれない。だけれど、あいにく今日は一日家にいるしか予定はなかった。それでも、あの夢のことを忘れたくて、市街地の方へと歩くことにした。
雪曇りの空には光を通す孔がひとつもなく、雪により流れを狭められた川と、その後ろに
行く当てもなくどこまでも歩くには、寒く寂しい日だった。途中でバスに乗り、灰凪駅で降りた。
駅の近くにある《あるものないもの、なんでも揃う!》という
ブラウンのジャケットを羽織って、栗色のストールをさらっと首に巻きネクタイのようにしている。ふわっとカールをかけた髪に、イヤリングが光っている女性――
そして、紅色のカゴのなかには、なにかを縛る縄のようなものが入っていた――ので、ぼくはなにも見なかったことにして、回れ右をしたのだが、雪にぬれた靴がキュッと音を立ててしまった。
「
気付かれてしまった! 先生は、ぼくのよそよそしさに不審を覚えているらしかった。そして、カゴのなかの縄と、右手に持っているロウソクとを見比べて、その意味を察したらしい。
「ちっ、違うのっ! そうじゃなくて! いまって、こんな色のロウソクも仏具として売られてるんだなって、珍しくて見てたのっ! この縄は、粗大ゴミを出すためにっ!」
「だっ、大丈夫です! なにも見ていませんので!」
このままだと、お互い、刻一刻とダメージを受けていく一方だ。すぐにここを去らなければ。
「……ところで、鱗雲くん」
顔を赤らめていた先生は、ひとつ咳払いをして、こう話題を転じた。
「ちょっと疲れ気味な感じに見えるけど、ムリは禁物だからね」
分かるんだ……。悪夢を見たあと、一度も眠れず、最悪の気分のなか朝を迎えたことを、先生に打ち明けたい衝動に駆られた。
「鱗雲くんが、すごくマジメで頑張り屋さんなのは、よく知ってるけど、たまにムリをしてしまうところがあるから、気をつけてね」
まるでお母さんみたいだ――なんて思ってしまう。
「休暇中だけど、なにかあったら連絡してね。わたしに言えないことなら、大学にはいくつか相談することができる施設があるし……絶対、ひとりで抱えこまないでね」
そのときだ。先生の顔に深刻な――寂しげな
「それじゃ、わたしは行くけど……そうだ、鱗雲くん」
「はっ、はい」
「このことは、ぜったいに、だれにも言わないでね?」
少し涙目になっている先生。
「わっ、分かってます! 心配してくださってありがとうございました!」
先生と別れたあとに、ひとつ疑問に思ったことがある。
粗大ゴミを縛る縄って、あんな感じの太くて――いや、考えるのは止めよう。
あのカラフルなロウソクを買っていったけれど、きっと、そういうために使うのではないのだろう。あそこが仏具を売っているコーナーでないことも、なにもかも気にしないでおこう。先生がどっちの立場なのかなどと想像するのも、よくないことだ。
でも、これだけは確かだ。ぼくを気遣ってくれたのは、話題を変えてごまかすためではなくて、ほんとうに、こころから心配をしてくれているのだ。だってあのときだけは、ぼくの知っている、いつもの先生の姿に戻っていたのだから。
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