第13話 レッスンの続き
「良いよ、わかったから、ついてくるなって。」
「でも、お父さんはだめっていうだけで。」
「だからわかったって。」
「何が?」恵子はうちで一緒に練習できない、とだけ言うと、了はそう言って家とは別の方向に向かって歩き、恵子はそれを追った。
「うち、ビンボーだろ。それにかーちゃん、夜働いてて。ソダチが悪いから。」
そう振り返って恵子に言うと更に運河沿いの道に向かって進んだ。
「ソダチって何?了くんの何が悪いの?」父に向かって言った言葉と同じことを了にも言った。
運河沿いの階段に二人は腰掛ていた。
「本当にごめんね。」
「だから謝るなって。」申し訳なさそうに言う恵子にそう言うと
「前にも言われたことあるし。友達の親とかに。」
「そんな、了くん、何も悪くないのに……」恵子は大人の世界が判らなかった。
「トロイメライ、あんなに練習したのに。」
そう言われると了は言葉に詰まった。
「ドー、ファー、ミファラドファ」
了は突然歌いながら手を動かした。
段差に膝をついて鍵盤に手をついて弾くように指を動かし、了は歌った。
恵子もつられて、「ファラド―」と左手のパートを歌った。
運河沿いの道端で二人の練習は続けられた。
時折リコーダーやピアニカを使うことも会ったが、ほとんどがエアー状態で、二人ののピアノの練習は続いた。
恵子が持ってくる楽譜を見ながら二人で指を動かし、歌った。
また時に恵子はCDプレーヤーをもって二人でそれを聞いた。
イヤホンを二人で片方づつすると顔が近づく。
「それ、どうしたの、その頬?」少し髪で隠れていたが、こめかみのあたりが少し切れて、腫れているのに気付いた。
「別に、ケンカじゃないよ。」そう了は言った。
「ケンカじゃなくても、転んだ、とかじゃないよね。」もう拳を腫らす事の無かった了が、誰かを殴ったとも思えなかったので思わず、
「……お母さんにされたの?」と聞くと
「母ちゃんじゃないよ。」了はイヤホンを外して立ち上がり、
「母ちゃんの彼氏が……」と言った。
「かれ、し?」
「そう、うちに住んでる男が居て。」
「お父さんじゃなくて?」
「うん、カレシなんだって。そいつが酔っ払ってたりすると、蹴ったりするの。うまく避けれるときもあるんだけど、寝てるときに蹴られたりするから。」
了は立ち上がって恵子に背を向けたまま言った。家に父親以外の人間が居て、そして蹴る。恵子には信じられなく、想像もつかない状況だ。
「先生には?」
「言ってない。言ったら殴られる。母ちゃんも殴られるし。」
目の前で手をぎゅっと握って立っている了から、その真実は恵子の想像を超えた苦しみがあるのが理解でき、かける言葉が見つからなかった。
恵子は座ったまま了の背中のシャツの裾をそっと引っ張るっと、了はストン、と横に座った。
了は右下を向いていたが肩が小さく震え、泣いているようだった。
恵子は了の左耳に片方のイヤホンを入れ、自分の右耳にも入れた。
「……この曲、この前ケイが弾いていたよね。」
「うん、最近練習してる。トロイメライと同じ作曲家の曲。」
「なんて曲?」
「異国から……、見知らぬ国と人々について」
「……見知らぬ国、そこに行きたい。」そう言って了は顔を上げた。
恵子は了の首に手を回し、
「私も一緒に行く。」そう言った。
肩を震わせる泣く恵子につられ、二人は抱き合って泣いた。
やがて曲が終わり、二人が泣き止み静かになると、重なった胸からお互いの鼓動が聞こえた。
その二つの鼓動はやがて一つの鼓動のように同じリズムで脈を打った。
「メトロノームみたいだね……」
***
運河沿いで二人の”ピアノレッスン”は続いた。
「この曲綺麗。なんて曲?」
「あ、謝肉祭の……」
「しゃにくさい?肉の祭り?」
「ええと食べ物に感謝する……」
「肉祭りか!いいな!大人になったらやろう!」
男の子らしい元気なコメントに恵子は笑った。
「早く大人になって、お金をたくさん稼いで、肉祭り!やろう!」
「そうだね。早く大人になって、二人で好きにピアノも弾きたいね。」
ちょっとネガティヴな言い方になってしまったかと思ったが、次の曲が流れると
「あ、この曲かっこいい!」立ち上がって了が言った。
「クライスレアリーナ。」
「俺この曲ひきたい!もっと練習していつか弾くんだ!」
了はそういって笑った。
協奏曲を聴くと手を大きく振って「指揮者も良いなぁ!」と言った。
しかし梅雨時を迎え、そのレッスンも天気の悪い日は出来ず、週に1度できればと言った感じで限界が近づいてきた。
了はそれでも楽しく楽譜を読みながら歌い、手を動かした。恵子も一緒に歌い、楽しい時間を過ごしていた。だからこそ思った。
(どこかで彼がピアノに触れることができないか……)
そう考え、思いついた。
「放課後に音楽室を?家にもピアノ、あるだろう。」担任の寺本が答えた。
「家のピアノ……、もあるんですけど、秋にコンクールがあって、き、緊張するので、外でも弾きたいなって思ったん、ですけど……」恵子は放課後に学校で弾くことを思いついた。しかし、女子に人気の了と練習、という事は言い出せなかった。
「田中さんは本当にピアノが好きなんだねぇ。」若い寺本は多くを考えず、ただ笑って感心すると、
「音楽室だから、音楽の坂井先生に言っておくよ。」と快く言ってくれた。
夏休みを控え、練習場所が確保できたのは本当に良かったと思った。
月曜日の放課後、誰もいない音楽室へ行くと、了が先に居たり、あとから来たりして、二人のピアノ練習は本格的に再開した。
トロイメライを習得し、『見知らぬ国と人々について』も殆ど弾けるようになっていた。他にもハノンなどの指練習もこなしていた。あまり好きそうではなかったが。
折角なので他の作家の曲も、と恵子は考えていた。
「こいつがシューマン?」
音楽室の後ろに貼ってある作曲家の肖像画の1つを指さして了が言った。
「うん、そう、ロベルト・シューマン。」
「へぇ。こいつもきっとピアノがうまかったんだろうなぁ。」
「シューマンも勿論ピアノはうまかったと思うけど、奥さんが有名なピアニストですごくうまかったみたい。」
「そうなの?」
「そう、クララ・シューマン。」
「そうなんだ。まぁ、作曲家とピアニスト、って当たり前の組み合わせか。」
「うん。でもクララの父親も音楽家で、最初は二人の仲を反対されたって有名な話があるんだよ。」
「ロベルトとクララかぁ。リョウとケイ、RとKだな。」
「いや、クララはCだよ。」
「良いんだよ、ケイはKだ。」
そう言った了の顔はちょっと赤くなっているように見えた。
シューマン以外の曲もと考えていたが、合間にアニメソングを弾いたりそれを二人で連弾してアレンジしたりして、楽しくレッスンは進んだ。
そんなある日、
「なんだ、福山、田中さんの邪魔してるのか?」そう言って音楽教師の坂井が入ってきた。
「邪魔なんてしてねーよ。」
「邪魔なんて、一緒に練習しているんです。」
二人同時に言ったのに押されたのか、坂井は入ろうとした音楽室に入らず、
「ふうん。」と言うと、ドア口から離れて行った。
(やっぱり一緒、って言ったほうが良かったかな……)恵子は心配なったが、翌日以降、何か言われることはなく、夏休みの前数週間、二人は練習を続けた。
しかしある日の放課後、
「一生懸命練習しているみたいだね。」
下駄箱の前で靴を履き替えていると後ろから坂井が声をかけてきた。
「あ、はい……」と答えると、間があったのでそのまま帰ろうとすると
「でもあれじゃぁ田中さんが練習できないだろう。」と坂井は言った。
「あ、でも教えることが……練習になるので。」
「コンクールに向けての練習じゃなかったのか?」
そう言われると恵子は黙ったが、坂井はにっこり笑って言った。
「じゃぁ、もう1日練習日を作ればいい。」
「いや、でもそれは……」
「明日は?」
「水曜日はピアノ教室があるので……」
「教室は何時から?」
「……6時です。」
「じゃぁ、教室の前の放課後、1時間、先生がみてあげよう。」
「でも……」恵子は答えにまた詰まると、坂井は恵子の肩に手をおいて
「田中さんは特別上手だし、先生ももっと聴いてみたいんだ。」耳元でそう言って肩に置いた手を腕の方に滑らせた。
恵子は思わず一歩前に出るが、
「月曜日は福山君の練習、田中さんの練習は水曜日だね。」坂井が背後で言った。
「……さ、さようなら。」恵子はそう言って振り返らずその場を後にした。
***
「今日?うーん、ピアノは弾きたいけど、今日はサッカーだしなぁ。」
休み時間にこっそり了を捕まえ、廊下の柱に隠れながら了に聞いた。
「……そうだよね、サッカーも上手だもんね……」
「いや、いくよ!」
「ううん、良いの。先生も私の練習って言ってたし。」
「そうなの?でも俺もケイのピアノ聴きたいしなぁ。」
「いや、良いよ。」恵子はさっぱりと言ってその場を離れた。
二人でサッカーまで行かずに練習するのは流石に束縛しているようで、それ以上言えなかった。
そして一人違和感を抱えたまま、放課後、音楽室へ向かった。
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