二杯目 ペリドット・ブラジル

「あー、一応草案のゲラ送っときました。校正お願いします。はい」


 そう言って電話を切った。毎回思うが、なぜメールで済むようなことをいちいち電話せねばならんのか。電話というものに苦手意識を持っている者に、この業界は優しくない。

 フリーランスの作家なんて特に電話、連絡作業が多い。まぁ会社ではなく在宅ワークというわけで、社内でついでに……みたいな小さな事務報告なんかもできないから、仕方ないともいえる。そして、その道を選んだのは自分自身だ。

 本業こそ翻訳家だが、ライターとしても仕事を請け負い始めたことによって業務スケジュールは一年前の倍になった。順調に業績を重ねられていて、大金ではないが貯蓄も余裕が出てきている。

 独身貴族。とよく言われるが、実家暮らしの在宅ワークのおっさんに貴族も何もない。今は仕事が楽しい。趣味のプラモも最近は積んでいるものが多いし、代わりに類語辞典や外国語の勉強に時間を当てることも多くなった。スキルアップするに越したこしたことはないし、表現の幅を広げることで見えてくる翻訳元の語彙や比喩の解像度が増していくのが面白い。

 フリーランスは決して安定している職ではないが、特有の自由さとスリルが、ゲームのようでやりがいがあると俺は思う。この不安定な時代、正社員でも切られることも多々ある。なら、好きなことして食っていこうと大学を卒業と同時に作家業を始めた。後悔はしていない。

 自分があまり既存の会社形態に会わないと察していたからだ。

 だからこそこうしてフリーの形をとって、こうしてなんだかんだ稼げるようになっているわけだが──。


「隆正! 隆正出てきんさい!」

「どうしたの、母さん」

「どうしたも何も、今日はハローワークに行く日でしょうが!」


 実家暮らしとは時に価値観の合わない赤の他人と暮らすことを言うのだ。


「あのね母さん、何度も言ってるけど俺はちゃんと働いて」

「毎日毎日部屋に引きこもってパソコンいじるのが仕事だって? 馬鹿言うんじゃないよ人様に言える会社にも勤めないで。今日こそは面接とって来るんだよ!」

「はぁ……」


 この言い争いも、そのあと家を追い出されるのにも、賃金が発生すればいいのだが。

 いつものようにスーツを強要され、俺は団地を外から見る。

 今の俺の貯金は、普通に一軒家くらい買える。

 ハローワークに行く気はないし、ここら辺にはゲーセンやプラモ屋も無い。というかこの時間にスーツの男がゲーセンとか異質すぎる。適当に営業回りでも装いつつ、商店街の横を通りがかった。ふと足を止める。

 街路樹に隠れているが、「鉱石喫茶ちろり」という看板がひっそりとそこにはあった。

 ちろり。ちろりか、確か古文でやったな。一瞬とかそんな意味だったような。近代文学とかでも使われてたっけ。それか酒をあっためる道具にもそんなのがあったな。喫茶店だし後者か?

 物書きのサガなのか、気になった単語を見ると足を止めて考え込んでしまう。

 鉱石喫茶というのも気になる。コンカフェのような雰囲気ではないし、純喫茶っぽい。メイドカフェなんかよりまだ入りやすそうな外観だ。ここで時間をつぶしていい時間で帰ろうかな。と俺は重い木のドアを押す。

 香ってきたのは珈琲の香り。目に飛び込んできたのは緑と大きな棚。

 店員は一人で、客はいないらしい。穴場なんだろうか。昼過ぎの今、もっと人がいてもいいものだが。


「いらっしゃいませ」


 男とも女ともつかない店員が迎えてくれる。きれいな人だ。女子高生とかが好きそうな顔をしている。いや、案外年上が落ちるタイプか? 下世話な偏見を考えつつカウンター席に座る。

 メニューが見当たらない。


「ここってどういう注文方法ですか」

「棚の鉱物標本からお選びください。特徴や場所など教えてくだされば、その棚の珈琲を提供いたします」


 かなり特殊な形態をとっている店のようだ。個人経営の道楽のような雰囲気だが、それにしては店員が若い。バイトとかだろうか。

 吊るされたテラリウム。落ち着いた照明。無音の店内。カウンター席しかない狭い店内。

 雰囲気づくりは完成されているが、注文方法や店自体の立地で見つかっていない隠れた名店、というやつか。それとも珈琲の味が良くないのか。スマホでレビューを調べようとして、やめる。それは注文してからでいいだろう。

 細かく仕切られた棚に目をやると、確かに保存容器の横に必ず鉱物標本がある。カットされてないそれはまさに原石。流石に名前を当てる自信は無い。

 足を組もうとする。スーツが少しきつくて、窮屈だ。俺は何をしているのだろう。

 手を当てた顎は髭がきれいに剃られ、髪にはワックス。ネクタイもピシッとキマっている。

 そんな男は、今肉親に無職だと思われ、家を追い出された実家暮らしだ。その真実はフリーランスでもそこそこ名の知れた作家。事実は小説より奇なりと言うが、なんとも切ない現状じゃないか。


「オススメとかありますか」

「お客様の目に留まったものがおすすめになります」


 手慣れてるな。マニュアルとかあるんだろうか。

 今を嘆くのは後にして、標本たちに目を凝らす。色とりどりの鉱石たちは「宝石」として削られたものより武骨で、男のロマンをくすぐられる。

 その中で、ひときわ輝きを放つ黄緑があった。


「こちらですか」


 それに目をとられた数秒で、即座に店員は把握したのかその標本を手に取った。

 はつらつと光る黄緑の塊。元気さを感じるそれは俺みたいな日陰にいるやつには似合わない気がしたし、別に黄緑が特別好きな色でもない。でもなぜか、それに強く興味をひかれた。

呼ばれている。と思った。


「あー、はい。それでお願いします」

「わかりました。こちらはサントスのブラジル。フレンチローストですね」

「選ぶ鉱石で豆の品種なんかが変わるんすか」

「ご明察です」


 こげ茶の豆たちはコーヒーミルで挽かれていく。うちにある家庭用のやつとは大きさがやっぱりかなり違う。台所の棚に死蔵されたあれはまだ動くだろうか。手動のミルはもうかなり昔に処分してしまった。

 ブラジルか。コーヒー通を名乗るつもりはないが、有名な奴なら通販のインスタント。ドリップバックのもので知っている。好きなのはバリだが、今回はブラジルを引いてしまったらしい。

 ある種のクジだな。苦手な品種が当たる可能性なんかを考えると、客に自由にメニューを渡して選んでもらったほうが良さそうなものだが……。変なこだわりだと思う。

 まぁそういう店主の謎の意向はどの界隈にでもあるものだ。この店も、チェーンになってやるとか、店舗を増やすとかそういう野心より、こだわりを優先しているんだろう。


「どうしてこんな注文方法に?」

「選ばれることは嬉しいものですから」

「……? この店、長いんですか」

「どうでしょう。感性によるでしょうね」

「こんなたくさんの標本、どこで手に入れてんですか」

「まぁ……趣味でして」


 一つ一つが絶妙にかみ合わない。回答がなんかズレている。ただそれはわざとではない、天然でやっているのだなと察せる。ミステリアスを気取っているのではなく、素で答えを濁すというか、ハッキリするとこを考えてなさそうだ。

 謎が謎のまま、俺は珈琲が淹れられるのを眺めている。


「お仕事の帰りか何かで?」


 痛いところを聞かれた。

 別にニートではないので素直に答えればいいのだが、ひねくれた自尊心が親の愚痴を隠そうと動く。いや、なけなしの家族愛か、身内の恥をさらしたくない感情に近いかもしれない。俺は、この店員のように真っ直ぐには答えられない。目を泳がせながら、言葉に詰まった。


「失礼いたしました。この時間にスーツで来られる方はほとんどいないもので、物珍しく……」

「や、大丈夫です」


 なにが大丈夫だ。俺はもう何十年も家族に引きこもり扱いされてるアラフォーのおっさんだ。そもそもまだ仕事が残っている──というか、納期が近い仕事を片付けている途中で追い出されたので期日が不安だ。この歳、エナジードリンクで寿命の前借りはしたくない。


「ああ、そういえば……間違っていたら申し訳ないのですが」

「え、なんですか」


 ドリップされている珈琲はコポコポと気体がはじける音を立てる。そしてシュワシュワと沈んでいく。

 この無音の空間は良く音が響く。

 BGMをかけないのはなぜなんだろう。思案するような、一瞬の間。


「作家の小里隆正さんですか?」

「えーと、はい」

「おお、会ってて良かったです。先日あなたのコラム集を読了したので」

「あ、ありがとうございます。あれは初のコラム本だったので読めるものになってるか不安で」


 まさか読者だったとは。確かに著者近影を撮るときも同じ格好で言った気がするな。普段はラフなTシャツにモサモサ頭だから、友人には「これ誰だよ」といじられたものだ。

 店員はニコニコと上機嫌だ。


「珈琲のお話もあって嬉しかったですよ。面白かったです」

「いやいや、バリスタの方と比べたらとんだにわか知識で」

「ずいぶんと詳しいと思ったのですが……昔そういう職についていたり?」

「父親が、バリスタというか焙煎士で」

「はぁ~なるほど……。是非とも珈琲について語り合いたいものです」

「あー、父さんは、もう亡くなってて」


 今月が三回忌だ。狙ったかのように珈琲の日に亡くなった、父さんは本当に珈琲が好きだった。父さんが死んでから母さんのまともな仕事に就けというヒステリーは頻度が高くなった。今思うと、自分の先の短さを悟ったのかもしれない。高齢出産だった母さんはもう八十になる。

 店員は顔を曇らせる。珍しい色の瞳は惜しさを含ませている気がした。

 コーヒーカップは白くて柔らかく光を反射している。その明るさで父さんが愛用していたマグカップを思い出す。初盆、まだ心の整理がついていなかった母さんが、俺の将来で大喧嘩をした時に泣きながら叩きつけて割っていた。あの時言われたどんな罵詈雑言より、それが砕けたのが何より悲しくて、母さんへの怒りもあって。あれから冷戦はまだ終わっていない。

 珈琲は父さんを思い出して。それに付随するあれそれも思い出して疲れるときがある。

 珈琲にのせた感傷的人生論。そんなやつをコラム集に載せていたっけ。

 母さんだって俺のことを心配してのことなんだろうが、もうそんなこと杞憂だ。俺としては母さんは母さん自身の人生に時間を使ってほしい。もう長くないのは俺だってわかっている。

 もう巣立っていることを、認めてくれないのに苛立っている自分もいた。


「人はかくも儚いものです」


 店員はコーヒーカップを俺の目の前に置いた。虹色の透明な紙に包まれた何かの菓子が添えられている。緑って何味だ。

 立ち上る湯気は虚空に消えていく。線香の匂いを幻覚した。珈琲の苦みは俺の頭を覚醒させるが、明るい話題はそれでも出てこなかった。


「だからこそ、他人に尽くしたくなるんでしょうね」


 繋いでいくために。

 店員は首元のタイピンを弄る。

 その言葉に何も言えなくなる。父さんは晩年、たくさんの珈琲の知識や道具の使い方を教えてくれた。

 母さんは家事だの職に就かないと将来の不安なんかを滾々と語ってくる。

 それが俺のためだって言うのはわかってる。


「それが自分の存在証明になるから。儚いからこそ、誰かに覚えていてもらうために」


 甘ったるい菓子を噛んで、まだ熱い珈琲を一気に飲み干した。カップの底には花の模様が施されている。真っ白なカップの中の、唯一の色。これもまた、黄緑だった。

 まだ熟していないコーヒー豆を見せてくれた父さんがフラッシュバックする。

 黄緑は決して俺に関係ない色じゃなかった。


「追加のご注文はありますでしょうか」

「……いえ、帰ります。珈琲、美味しかったです」

「小里さんに会えてワタクシもうれしいですよ」


 財布を取り出そうとして、やんわりと手で止められた。

 店員の手には、石の入った試験管が一つ。


「初回サービスでお代は結構です。その代わりと言っては何ですが、こちらを受け取ってください」

「……。よく経営できてますね」

「これもまた、繋がれてきたものなんですよ」


 試験管は軽く、落としたら簡単に割れそうだったのでカバンの中に入れる。

 輝くそれは、コーヒー豆よりはるかに小さいけれど、確かにあの時の色だった。

 帰り際、ふと思いついて振り返る。店員は見送りか手を振っている。

 フリーランスは本来自分でスケジュールや仕事をとってこないといけない関係上、スケジューリングや計画性は大切だ。そんな作家、小里隆正らしくない無計画な、でも本気がこもった一言。


「ここって社員募集とかしてます?」


 店員は驚いたように固まった後、柔らかい笑みを浮かべる。

 扉を開けて入ってきた陽光のせいか、タイピンがキラキラと輝いている。この人の虹彩によく似ていた。


「あなたが、繋ぐことができたのなら。鉱石喫茶ちろりは何も拒む理由がありません」

「ありがとうございました」

「またのご来店、お待ちしております」


 不安定な世界はどこも同じ、だから。


「おかえりなさい。仕事は?」

「母さん、とりあえず全部聞いてほしいんだけど」

「なによ」


 重い紙袋をダイニングテーブルに置く。本屋で買ってきた荷物だ。


「俺はフリーランスとして作家業をやってる。本なんかも出してるし、貯金もある」


 母さんはまだ黙っていてくれている。


「でも正社員なわけじゃない。会社に所属していない。だから俺の将来を不安がる気持ちもわかるよ。でも、俺はこの仕事を気に入ってる」


 本心を伝えるとき、真っ直ぐに目線をそらさず話せる性格でよかったと思う。母親譲りの性格だとよく言われた。


「でも、別でやってみたいこともできた」


 紙袋を開ける。ドサドサと雪崩が起きた。出てきたのは本の山。そしてノート。


「あんた、これ──」

「珈琲焙煎士はそれ自体に資格はないけど、関係する資格を持ってて損は無いから」


 母さんは目を見開いてこちらを見ている。その顔は何を思っているのだろう。俺に父さんを重ねているんだろうか。顔は父さん似だそうだ。

 すぐに就職しようとしなかったのは、これが俺なりの歩み寄りと、譲れないラインだからだ。資格勉強は真面目にするし、焙煎士になるならなる。でも、作家業をやめるつもりもないという意思表示。


「父さんの遺志を継ぐよ。俺は。でも俺は父さんじゃない。二足の草鞋を履くのは大変だろうし、この歳から焙煎士になるのは困難な道だろうけど、これ以上は譲れない」


 これが俺の答えだよ。そう言って締めくくった。母さんは未だ俺を視線で射抜いている。

 呆然と言ったほうが正しいだろうか。

 もう、マグカップが割れるようなことは言いたくなかったが、あの香りを、黄緑の輝きを思い出すと自然と体が動いていた。

 父さんの私物はこの家にはほとんど無い。昔母さんが捨ててしまったり、供養に出したりしたからだ。割れたマグカップは焼却されたか、再資源にされたのか。思い出せない。


「…………あんたは昔から頑固な子だったよ。誰に似たのか」


 母さんだと思うけど、父さんかもしれない。二人とも他人に流されることのない人だった。

 俺はそうあれているんだろうか。


「やるからには、一人前になるのを見届けるまでは死ねないね」


 過保護なところは、それもまた母さんの譲れないラインがあるんだろう。

 カバンの中でカチリと試験管が転がった感触がした。

取り出す。割れてはいなかった。


「ああ、母さんこれあげるよ。今日行った喫茶店でもらったんだけど」

「なにこれ? あら、ペリドットの原石」


 あの黄緑はペリドットだったらしい。

 母さんはそれを見て懐かしそうに目を細めた。「ペリドット・ブラジル」と書かれたラベルをさする。


「こういうのも、血ってやつなのかしらねぇ」

「なにが」

「あなたのお父さんが私に最初にくれた指輪も、ペリドットだったのよ」


 まだ未熟な僕だけど、このペリドットがルビーに変わるころには、きっと貴女を幸せにしてあげるからって。最初はコーヒーの実にたとえてるって気づかなくて、ペリドットが時間が経つと本当にルビーになるんだって信じてちゃったの。その時から珈琲が好きなあの人らしい告白だったわ。

 なんて母さんはしばらくその試験管を見つめていた。

 ペリドットはその記憶を優しく見つめるように、淡く輝いている。


「──というわけで、毎週三日はここで勉強してるんです」

「ドラマがあったのね!」


 短髪の女性、矢津波やつばはいつものアイリッシュコーヒーを飲みながら小里の話を聞いていた。喫茶ちろり唯一の常連の彼女は、最近よく見るようになった小里の経緯が気になったらしく、こうして質問攻めしていた。これには店主のようも苦笑いだ。


「矢津波さん、勉強のお邪魔ですよ」

「でもでも、あの翻訳家兼コラムニストの小里さんがいたら誰だってこうなるわよ。しかもほぼ常連になってるし!」

「俺は全然いいっすよ。息抜きになるし」


 コラムで自分を話すのは慣れているらしい。

 小里はブラジル珈琲をのんびりと啜っている。手元には教科書とノート、ペン。

 こんなに本気で頭に勉強を叩きこむのは受験以来だと笑っている。学ぶのが苦ではないのか楽しそうだ。


「先生もいるし」

「ワタクシ、先生と言われるような器ではないのですがね」

「本職に聞くのが一番だから」


 そろそろ夕方、珈琲の香りがノートに染み付く日は近いだろう。

 そのノートも、いつか誰かの形見になっていく。そう信じて。

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