21.雷雨に閉ざされて
瑪瑙ラテは狭い車内で小汚いマットの上に爪先を立てて、足首をほぐすようにゆっくりと曲げてみた。捻挫の痛みはもう無い。
お医者さんの診断でも、さしあたって運動に問題は無いとのお墨付きをもらっている。癖になる可能性もあるから、あまり強度の高い動きはしないように、とも忠告されていたが。
どこかむず痒さを感じる足首をやんわりとさすり、それから窓の外に視線を走らせる。
空の底を抜いたような土砂降り。
窓ガラスに叩きつけられる雨粒は激しく弾け、秒単位で生まれる波紋の密度が高すぎて、今、どこを走っているのかもよく分からない。
雨粒波紋の防波堤と化した窓ガラスには、無感情の自分だけが映っている。
時折、遠くでフラッシュのように閃く稲光が、二人きりの暗い車内を照らした。
車はゆっくりと進んでは止まり、止まっては何かを探るようにそろりと動き出す。
それを繰り返して時間は過ぎてゆき、病院を出てから一時間は経つのに、未だに雷雨の中に埋もれている。
「参ったな……」
気だるげな運転手の男がぼんやりと呟いた。
ラテは眉尻を下げて、申し訳のなさそうな表情を作れたところを確認し、それから前のバックミラーに映る顔に話しかけた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、鷹詰社長」
「いやいや、むしろ僕のワガママに付き合ってもらってる立場だから。運転手くらいさせてもらわないとさ」
完全に止まってしまった車の中、少し疲れた様子で運転手――鷹詰貴朗は後部座席に振り向いた。
ラテが助手席に乗らなかったのはけして彼を嫌っているとかではなく、単にモノが山積みになっていて座れなかっただけだ。クーラーボックスやら、なんやら。
移動に使う社用車だが、前に誰が乗ったのか、足元には柿の種の破片やらポテトチップスのカスが落ちている。
「今日については、私も中止にならなくて嬉しいので……。鷹詰社長も忙しいのに、私の不用意な怪我でお時間もらってしまって」
「僕が忙しい時間はもう終わったから気にしないで。むしろ現場をうろちょろしてると邪魔者扱いだし。忙しい君のマネージャーやスタッフの代わりに、君の送迎を任せられるくらいには余裕のある人員なのさ」
「社長なのに」
「社長だからこそ、が正しいかな。これだけ大きい会社のイベントで、こんなギリギリまで社長が切羽詰まって動かなきゃならない場面は、そりゃもう大変なコトが起きてる、ってワケ。そうじゃないから最強台風以外は順調に進んでると思っていいよ」
「ものすごい渋滞でずーっと止まってますしね」
年下の女におどけてみせるタカローを軽く笑い、前方の赤いテールライトを示す。
どこかで事故か、あるいは冠水でもしているのか。邪魔をしているテールライトは雨の向こうでぼんやり赤く光ったまま、消える気配がなかった。
タカローも現実を思い出してうんざりしたのか、重い息を吐いた。
「もうとっくに着いてるはずだったんだけどね。失敗したな、違う道を使うべきだった。最短経路だし真っすぐな道だしで安全を取ったんだけど、みんな考えることは同じなんだな」
「すごい台風なのに車の行き来はあまり減らないんですね」
「君みたいに仕事のある人や、こういう時こそ稼げると考えている人じゃないかな。僕を含めて、自然の驚異を舐めている、ということだろうね」
「私はちゃんと怖いなあって思ってますよ」
「最悪、君にはこの雨の中を走っていってもらわなきゃならないのに」
「びっしゃびしゃに濡れちゃいます。きっちり最後まで送り届けてくださいよ」
「僕もそのつもりではあるけれど、この三十分で五百メートルも動いてないからさ……」
窓から道の先を覗いてみると、いくつものぼんやり灯るテールライトが列を成している。かたつむりよりも動きのないテールライトが、天から降る青い雑踏にかすんでいく。
途切れた会話に、ラテも流れで作っていた表情を失っていく。
タカローもまた興味を失ったのか、フロントガラスを打つ雨音を鼻唄混じりに数え始めた。
「…………」
「ふんふん……、……ふんふふん」
お世辞にも上手いとは言えない手慰みだったが、四方の金属板から響く打音と並べて聴くと、不思議に落ち着くハーモニーとなっていた。
ある意味、全く雑音のない世界で、貴重なリサイタルを視聴する。
ラテは目蓋を閉じて、徐々に漂ってきたまどろみに身を任せてしまった。
不意に。ここ数ヶ月、ずっと張っていた気の糸が緩んだ。
「……ありがとうございます」
「ふん……? どうしたの、急に。どういたしまして」
タカローの返答に、ラテは首を小さく振って応えた。
つい彼の歌を遮ってしまった感情も、零れた言葉の理由も、ラテ自身が理解していなかったからだ。
気が付けば、感謝を意味する台詞が発されていた。
それについて考える前に、運転席から質問が飛んでくる。
「ああ……、思い出した。眠いなら寝ててもらって構わないけど、そうでないなら一つ、君の考えを聴かせてもらいたいことがあるんだ。暇潰しにどうかな?」
「いいですよ。変な姿勢で寝ると身体を捻っちゃいそうなので。私なんかの意見でお役に立てるかは分からないですが……」
ラテの物言いに、苦笑するのがバックミラーに映る。
「別に答えのある問いじゃないんだ。単に君の見解を聴きたいだけで。――“アイドル”って、何だと思ってる?」
「『地獄』が近しいですね」
即答したラテの様子にタカローは目を丸くした。
「地獄、ねえ……」
オウム返しに発された言葉には、特に意味を感じられない。間を繋ぐためだけの音が空虚に響く。
「ええと。どういう見解か教えてもらえる?」
「言葉通りですけど。アイドルなんて地獄に住むただの愚か者でしかないと思ってる、というだけです」
「君の言葉通りに受け取るのなら、君もまた愚か者の一人になるけど」
「まあ……その一人であることは間違いないですね、残念ですが」
「なるほどね」
馬鹿にしているとも取られかねない回答に、アイドルを謳う事務所の社長は、むしろ面白そうに口角を持ち上げていた。眉を顰めるかと思っていたラテとしては、予想外の反応に戸惑う。
「君はわざわざオーディションを受けて、その地獄に入会したってワケだ。何でまたそんな苦難の道を選んだんだい? ……ん? 地獄なんだから苦難で合ってるよね?」
「苦難で合ってるんじゃないですか、道なんかありませんけど。それに、私はアイドルになりたくてプリズムのオーディションを受けたのではないんですが。あくまで私が憧れたのは『遠久野ライカ』っていうVtuberです」
「ライカにはプリズムのコンセプトを体現してもらったつもりだけどね。ま、いいや。僕からすると、アイドルにはプラスのイメージを抱いていたいと思う。けれど君はネガティブイメージが先行している」
「ネガティブイメージというか、事実です」
ラテは、窓ガラスを流れ落ちていく白糸を追いながら言う。
「アイドル業界は地獄そのもの。常闇の地獄を懐中電灯で照らしてみたら、転がっているダイヤが光を反射したりして……。他に光るものがないから眩しく見えるだけなんですよ」
「随分……殺伐とした世界観だねぇ……。君の履歴書には書いてなかったけど、もしかして自己体験からの感想?」
主だったリアルアイドルはチェックしてたはずなんだけど、とタカローは呟いた。
「そんなに大したものじゃないので。……でも、鷹詰社長はご存知かと思っていました。選考の段階で調査とかするものじゃないんですか?」
「簡単には調べるよ。でも探偵や興信所を使ったりはしてないし、一般的な尺度で秘密を隠せる人なら十分だからさ」
「……そういう、私の経験が買われて、採用されたんだと」
「自慢じゃないけれど、おかげさまでそういう経験をされてる方も応募してくださってるから、やろうと思えば立派な経歴をお持ちの方を採用できるんだよねえ。わざわざ隠したいと思ってることを暴くほど、悪趣味じゃあない」
それは確かにそうか、とラテも納得した。
例えば、同期でも朝霧サイレなどは明らかに歌唱の経験値が違うと感じていた。技術は専門に学んだのかもしれないが、明確に『お客さんがいる場面』における経験がある。それが透けて見える舞台度胸を備えているのだ。
「それなら、なんで私なんかを採用したんですか? 世間一般より、よほど酷い履歴書だった自負があります」
「そうかな? あの程度なら結構見るよ」
少なからずショックを受けたのは、自分の想像を上回る現実が存在していたからか。
「あれより酷い……?」
「内容はどうあれ、君は高校も卒業しているし。一般的に褒められた履歴書じゃないのは同意するけど、残念がるほどじゃないさ。元々、人生一発逆転を狙うアウトサイダーの多い業界だから、ある意味当然の話かもしれない」
「つまりは何の特徴もない、ってことですね。余計に私の採用理由が分からなくなりました」
ここまでタカローの話を聞く限りでは、ラテに採用のフックとなる項目は存在しない。数多の煌めく経歴の、あるいは悪目立ちする履歴の前に、埋没してしかるべき存在としか感じられなかった。
ラテはタカローのことを理系人間として認識している。社長としての側面よりも、天才AI開発者の尊敬が大きかった。
理系の人間は、論理、ロジックを重視するとの偏見がある。
だが今のところ、瑪瑙ラテの採用工程に論理の欠片も見当たらないのが不思議で仕方ない。
タカローは言った。
「理由を明言化するのは難しいな……。君を採用したのは、単に良いと思ったからだよ」
「そんな雑な……」
思わずラテは言葉を失った。
ロジックのロすら形に出来ない内容ではないか。
しかし、タカローは微笑みを作って見せた。
「何か不満が? 逆に考えれば、言語化できない魅力が君にはあって。煌びやかに輝く経歴を蹴ってでも、僕らは君を欲しいと思った」
「不満なんか何も。……ただ言葉にならないと、不安なだけです」
「まあー、言葉って形にして確定させると安定するのはそうだけど。不安定な魅力を孕む君だから良かったんだよ。伸びしろを感じたとでも言っておこうか」
伸びしろ。
果たして本当にそんなものがあるのだろうか。見えない物をどうして信じられるのか。
「今日のライブ、本当に楽しみにしている。ライカにもつい言っちゃったんだよね、君たちが今日伝説を超えるって」
「何を言っちゃってんですか!?」
「不安だって漏らすから、期待値をはっきりさせておこうかと」
「違う、違いますよ!? 私が求めてたのはもっとこう……」
「違った? ライカも君に期待してるとは思うんだ。彼女の
どうして私なんかに。
つい一週間前まではやれる気しかしていなかったラテだったが、怪我をして落ち着いてみると、いつの間にか弱気の虫が胸の奥に居ついていた。
付け焼刃でダンスも歌も練習したけれど、遠久野ライカはおろか、同期にすら遠く及ばない。
配信やコミュニケーションだって努力したが、8期生の中でも際立っているワケではなかった。むしろ、他人に嫌われないだけで、好かれるための愛嬌など見当たらないと思っている。
そんな誰よりも秀でていない自分が、どうして遠久野ライカを引き留められるなどと思えたのだろうか。
「ははあ……、さてはビビってる? ビッグマウスの割に小心だったりするのかな」
「脳みそオーバーヒートしてた時はそこまで考えが至らなくて。……それで、怪我でやること無くなったら色々と考えてしまって」
ポジティブすぎた頭が平時を通り過ぎてネガティブモードに入っている。
それはラテも自覚していて、だけれどそう簡単に暗い自分から抜け出せるなら苦労はない。
だから第三者からポジティブの種をもらおうとしたのに。ラテは鼻からぬるい息を抜いた。
「勢いだけでここまで走ってこれるのもすごいけれど」
「肝心な時まで持たないんじゃ意味がないんですよね……。はあ……」
妙に息が顔に籠る。
重く固い感情を二酸化炭素と一緒に放散した。
「……ごめんなさい。せっかく期待してもらっているのに、こんなので。鷹詰社長も失望してますよね……」
「そうさなあ……ううん……。……おっと」
ふと思い出したように車列が進む。
ゆっくりと、歩いて数歩の距離を、大仰にエンジン動かして進んでいく。そしてまた、静止する。
規則正しい機械の律動が、水に閉ざされた世界に響いた。
「……期待しかないかなあ」
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