第3話 あぁ、愛しのお兄様。今夜にふさわしい言葉がお分かりになりまして?

「あぁ、なんて綺麗なお月さま」

 ローガンに皇帝暗殺を命じられてからの数日間、王国を発つ準備に追われていたルーシーが久方ぶりに月を見上げる時間を取れたのは、王国で過ごす最後の夜のことだった。

 ルナーン王国の王城は小高い丘の上に建つ、三つの建物からなる白亜の城だ。玉座の間や王の私室、それから上級貴族が王城に留まる際に使う客室があるのは、真ん中の一際大きく装飾の派手な建物で、その脇に高さの違う二つの塔が建っている。背の低い方が『星見の塔』と呼ばれ、高い方が『海読みの塔』と名付けられていた。

 夜の間中、星と月の動きから神の言葉を読み取るために聖職者が集う『星見の塔』を避け、ルーシーは『海読みの塔』の最上階で窓枠に腰かけ、白い手袋越しに月を撫でた。

 冷ややかな、白銀の月。

「帝国からも、月は綺麗に見えるかしら」

 手を下ろして、それでもまだ、月を見上げたままルーシーは息を吐くような静けさで囁いた。きっと、太陽はよく見えるのだろうと思うけれど、眩い太陽で月が霞んでしまっていては悲しい。それだけが、あらゆる準備を整えてなお、最後に小さく残る心配事だった。

「大丈夫だ。あの国でも、月は美しい」

 聞こえた声にルーシーは意識的に笑みを浮かべて振り返る。皇帝と同じ橙色の髪がまず一番に見えて、それから目を逸らすと皺のよった眉間があって、最後に降る雪のように白い瞳と視線が交差した。

 オリバー・エルフィ・モンシャイン。

 先代皇后の姉を母に持ち、ルナーン王国が建国されてからは先代国王に実の子のように可愛がられて育った、白の公爵家嫡男である。

 義理の兄が扉の近くに立っていることには随分前から知っていたけれど、ルーシーは何も気づいていなかったふりで驚いてみせた。

「あら。愛しのお兄様。まだ起きていらっしゃったのね」

「俺が母に連れられて皇宮を訪れたときには、太陽を見るための背の高い塔があったから、そこからなら、きっと月も星も、よく見える」

 ルーシーの言葉には答えず、オリバーは靴音をたてて窓辺に歩み寄りながら、言葉を続けた。それが不器用な兄なりに、知らない場所へと旅立つ妹に安心を与えようとした言葉だと分かったから、ルーシーの口元に小さく笑みが浮かぶ。

「それなら、よかったわ」

 月が見えるのなら、どれだけ離れていても、きっと、この国の事を忘れずにいられる。

 ルーシーがほとんど吐息のようなか細い声で答えると、月に向けられていたオリバーの視線が彼女に移された。ローガンの月を映した瞳とは、違う種類の白がふたつ、ルーシーの目の前で揺れる。まっすぐで、素直で、汚れも嘘も知らない、純白の瞳。

 目を逸らすことも、話題を無理やり変えることもできずに、ルーシーはかろうじて笑みを浮かべたままで、彼の言葉の続きを待った。

「ほんとうに、お前が行くのか」

 僅かな逡巡ののちに、まっすぐな問いが下りてくる。

「ええ。わたくし以外には、できないことですもの」

 皇帝を殺すことも。

 失敗したときに、敵国の妃として潔く殺されることも。

 他の令嬢には、とても出来ない。任せられない。

「父上は、此度も反対すると思っていた」

 オリバーが目を伏せて、橙色のまつ毛がかすかに揺れた。ルーシーは柔らかく笑みを浮かべたまま、言葉を返す。

「なにも不思議なことはありませんわ。だって、失敗しても、成功しても、モンシャイン家には得しかありませんもの」

「得?」

「ええ。成功すれば、敵将を堕とした家として、ルナーン王家に対しても強い発言権を得られます。逆に、失敗したとしても、金食い虫の厄介な養子が消えるだけ。モンシャイン公爵が、この縁談を断る理由がありませんわ」

 もしもルーシーが、モンシャイン公爵の血を引く、実の娘であったなら、彼の駒として手元に残される未来もあり得たのだろうけれど。

「でも、父上はいつも、ローガンの邪魔をするから」

 今回も、そうなればいいと。

 オリバーは俯いて、掠れる声でそう言った。その言葉の柔らかな響きに、ルーシーは心から微笑んだ。本気で義理の妹を案ずる兄の、心根の優しさがあまりにも美しくて、愛おしい。

「モンシャイン公爵は、なにも、ローガンのことが嫌いでいつも意地悪をなさるわけではありませんもの。ただ、モンシャイン家の未来がより明るくなるように、より安定したものになるように、いつも頑張ってらっしゃるだけ」

「父上は、自分が王になりたいだけだ」

「それだって、お家のためになりますでしょう? 王になれば、強い権力を得られますもの。そうすれば、守れるものも増えますわ」

「お前は、父上が王になったら、何かを守ると、本気で思うのか……!?」

 オリバーは顔を歪めて、勢いよく顔をあげた。そうして、目の前のルーシーが慈しみを滲ませた柔らかな微笑を浮かべているのを見て、口を噤む。そんな風に、覚悟の決まった顔を見せられて、これ以上、どう食い下がれというのだろう。

「お兄様。わたくし、これから積年の夢を叶えに参りますの。その前夜にふさわしい言葉は、お分かりになりまして?」

 ルーシーは唇の端をつりあげて、首を傾げる。その、いたずら好きな子供のような顔にオリバーは僅かに目元を強張らせて、それから、そっと目を伏せた。言うべき言葉は、分かっていた。危険だと分かっている場所に、妹を一人送り出すのが嫌で、どうにか引き留めたくて、みっともなく駄々をこねてしまっただけで。

 本当は、最初から。

 分かっていたのだ。

「行ってらっしゃい、ルーシー。お前の道行きが幸福で溢れているように、兄はいつも祈っている」

 オリバーの言葉に、ルーシーは満足気に笑って頷いた。

「ええ。――行ってまいります。愛しのお兄様」



 王国での最後の夜は明け、ルーシーはついに、国を発つ馬車へと乗り込んだ。

 人間はルーシーと傍仕えのリリィに運転手だけ。荷物は普段着のドレスと礼服が何着かあるだけで、献上品の類はないから人の乗る馬車に荷車を引かせて進む。

 山側に立つ王城から海辺に立つ皇宮までは、馬を変えながら進み続ければ二日ほどで到着する距離だ。とはいえ、旅慣れないルーシーとリリィではずっと走り通しというわけにもいかず、彼女たちが帝都の手前にある最後の宿場町にたどり着いたのは、王城を出発してから四日目の夜だった。

「運転どうもありがとう、ヒース。寒いなか悪いわね」

 馬車をおりて、ルーシーは真っ先に、外で冷たい風に吹かれ続けた運転手を労った。栗色の巻き毛とそばかすが印象的な彼は、モンシャイン家お抱えの御者で、ルーシーがどこかへ出かける際には必ず同行している。今回の旅路でも、真っ先に運転手として名乗りをあげたのが彼だ。

 ヒースは寒さで真っ赤になった頬にえくぼをつくって、ルーシーの言葉に答える。

「へへっ。いいんすよぉ。馬車を引くのはオレの仕事ですし、なにより、姫様との旅は楽しいっすから!」

「あら。相変わらず口がうまいこと。そんなにおだてても、あげられるものは何もなくてよ?」

「そう言いながら、ピコの実の甘煮を出すのはおやめください、ルーシー様。この旅路の間にヒースが肥えてしまいます」

「あっ、こらっ! なんで止めるんだよ、リリィ! せっかく、姫様が甘煮をくれるところだったのに」

「あなたが肥えて御者台が壊れては事ですので」

「甘煮をちょっと食べたくらいでそんなに太るわけないだろ!」

「私のルーシー様から甘味を戴くなんて羨ましいので」

「ほらぁ! やっぱり、それが本音じゃないか! お前ももらえばいいだろ!」

「私は主人に物をねだるような浅ましい使用人ではありませんので」

「あなたも欲しいなら、最初からそう言えば「早く出て行けッッ! この化け物が!!!」――なあに。こんなところにも、ノアと同じ不届き者が居て?」

 自慢の美しいメイドと可愛がっている御者とのやり取りを遮られたルーシーは、叫び声の方に視線を流す。怒鳴るような声とその言葉から、揉め事だろうと想像はしていたものの、視線のさきにあるのは、予想よりずっと苛烈な暴力だった。

「あんたなんか、あたしの子じゃないッッ! あんたなんか産んでないッ! 死ねッ死ねッ死んでしまえッ!!!!」

 血走った眼の女性が、火かき棒のようなもので狂ったように黄色い髪の少年を何度も、何度も、何度も、執拗に殴っている。殴るたびに、赤い血液がレンガの道の上に散った。

 少年の方はどうやら意識はあるようで、両腕で頭を守ってはいるものの、反撃する気配はない。

「なんだ、あれ……」

 中年の女性がまだ十代かそこらだろう少年を殴り殺さんとしている光景の異様さに、ヒースは小さく声を落として、リリィは口を覆って立ち尽くす。目の前の光景はもしかしたら夢なんじゃないかと、二人の思考が現実逃避に入る傍らで、ルーシーはすぐさま走り出していた。

「ルーシー様……っ!」

 気づいたリリィが一瞬遅れて手を伸ばすも、もう届かない。

 指先が空をきって。



 次の瞬間には少年に覆いかぶさったルーシーの上に――勢いよく、火かき棒が振り下ろされた。

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