モノクロームの渇望

 僕は、冬空の下を走っていた。

 冬の凍える風が頬を切る中、息を切らせて。

 この寒空の下でジーンズにTシャツ一枚という格好なのにも関わらず、汗を流して。


 ただひたすらに、逃げていた・・・・・


 何からだろう。

 何故こんなにも、必死になっているのだろう。

 一方で、何故、後ろ髪を引かれる思いがあるのだろう。


 分からない。

 何も分からなかった。

 それでも、僕は、走り続ける。



「あれ……?」


 ある日の朝。

 起きて直ぐ、僕は違和感を覚える。その原因はすぐに分かった。


 ──世界から、色が失われていた。


 いや、正確にはモノクロ。ベッドから上半身を起こして周囲を見渡すと、世界は灰色で満たされていた。目を擦ってみても、それは変わらない。夢かと思って頬を抓ってみても変わらない。


「……っ……」


 そして、強烈な飢餓感を覚えて思わず胸を押さえる。食欲ではない。心が何かを強く求めている。それが何かは分からない。ともかく、何もかもが突然だった。

 窓の外を見る。よく晴れているだろう冬空もまた、灰色だった。

 真っ先に病気を考えてネットを使って調べてみるも、後天性の色覚以上こそあれど、特定の色が識別しにくくなるだけであり、色が失われるものは見つからなかった。


「……はぁ、なんなんだよ」


 結局全てのやる気を失い、再び上半身をベッドに投げ出す。溜息とともに呟きを零しても、何処からも返事がくることはない。まだ、大学に行くには早い時間だ。僕は二度寝をする事に決めた。



「マジかよ……」


 アラームの音で目が覚める。恐る恐る目を開くと、やはり世界はまだモノクロだった。


「……学校、行くか」


 病院にかけ込むのが最善の手なのだろう。しかし、僕は半ば現実逃避に入っていた。もし重大な病気だったら、という怖さもあり、同時に時間が経てば治るのではないか、という希望的観測も同時に存在している。


 いつものように準備をして、家を出る。そう、いつも通りに過ごしていればいい。

 徒歩で三十分ほどで、大学には着く。正門に着くと友人も同じように登校してきた所らしかった。


「おっす」


 友人が片手を上げる。


「ん、おはよ」


「あれ? どしたの? なんか元気ないじゃん」


「あのさ……。いや、やっぱ何でもない」


 聞いてみようかとも思った。もしかしたら友人もまた同じ状況に陥っている可能性を求めた。自分の視界がおかしいのではなく、世界がおかしくなったのだと。或いは、世界は元々色のない世界だったのかと。

 けれど、もし否定された場合、僕は再び現実と対峙することになる。それが、怖かった。


「ならいいけどさ。じゃ、俺は授業行くわ」


 履修している授業は違うために、友人は再び片手を上げて去っていった。辺りを見回す。他には誰もいない。妙な寂しさが込み上げた。

 そしてまた、謎の渇望が、焦燥感が浮かび上がってくる。


 僕はそれに気づかない振りをして校舎へと向かった。談笑している複数の生徒とすれ違う。同じ学部の、知っている人もいる。彼は、彼女は、何色の髪色をしていただろうか。今の僕には、それを知る術はない。



 その日は二限から始まり、お昼には終わった。人の多い学食に行くのは何となく嫌で、午後には何も予定がない故に、何処かで適当に昼を済ませようと大学の外へと繰り出す。学生街故に、飲食店には事欠かない。

 ただ、いつもは様々な彩りで満ちているはずの道も、今はただ灰色で塗りつぶされていた。

 やはり一度病院で精密検査を受けようかと思ったその時、


 ──遠目に、一つの色彩が見えた。


 この場には、いや、何処だろうと似つかわしくない真っ赤なドレスにレースの付いた黒い日傘を差した女性。鮮烈なその色が、僕にははっきりと見えた。

 遠くに見えるその女性は、ビルとビルの間の角を曲がってみえなくなってしまう。


 渇望が、強まる

 灰色の世界の中で、唯一見つけた色。


 気づけば僕は白い息を吐き出しながら走っていた。周りからは怪訝そうな目を向けられていたが、そんなことは気にならなかった。


 同じ、角を曲がる。


 ──赤。まるで、血のような赤。


 レース調の真っ赤なドレスに肩まで伸ばした黒髪、そしてドレスと同じ深紅の瞳をした少女が目の前には立っていた。年齢は、僕より少し下だろうか。顔立ちは大人びているが、身長はそんなには高くない。


「なぁに? 私に何か用?」


 透き通った声。心を射抜くような深紅の瞳がこちらをじっと見つめる。まさか待ち構えていたとは知らず、何も考えずに追いかけてしまったために、僕は言葉を発することが出来なかった。


「あ、いや……」


「そう、それじゃ」


 少女は踵を返してゆっくりと歩き去っていく。モノクロの世界の中で、その赤だけがはっきりと見える。胸が苦しくなり、思わず胸を押さえる。


 どうしようもない、渇望。

 どうしようもない、飢え。


「あのっ……!」


 声は自然と出た。ここで引き止めねば、という思いに心が支配されていた。緩やかな歩みを止めた少女は、気付くと一瞬の内に目の前に現れて僕の顔をしげしげと眺めており、少しだけ目を丸くした。


「あら、貴方。よく見たら■■じゃない」


 そして、意味不明な言葉を発せられる。■■、■■とは何だ。しかし、ぎゅっと胸を締め付けられる感覚に襲われる。


 これは、渇望と恐怖?

 その二つが入り交じっている。

 しかし、渇望の方が大きい。

 僕は、この少女に何を求めているというのか。


「ふぅん、戻ってきたいの?」


 戻る。つまり僕はこの少女のもとにいた?


「耐えきれなくなって自分から逃げたくせに? 我儘ね、貴方」


 その透き通った声が耳に届く度に、恐怖と、それに勝る渇望が僕の胸に押し寄せる。心の中に、ぽっかりと穴があいている感覚。今の僕には何かが欠けている。


「まぁ、いいわ。お気に入りではあったし」


 少女の広げた手の平に淡い青色の光が浮かび上がると、それは直ぐに収束する。そして、彼女の手の上には黒い革製の首輪が現れていた。


 どくり、と心臓が跳ねる。何かを思い出そうとしている。それは決して真っ当なものでは無い、冷や汗を伴うような、昏い記憶。

 それでも、僕は飢えていた。それを欲していた。欠けている何かがその首輪だという確信があった。少女の手に、震える手を伸ばす。しかし、その手は直ぐに彼女によって打ち払われる。


「何してるの。自分から触れちゃ駄目でしょ。頭を垂れなさい」


 怜悧な瞳と見下した表情。僕の心に僅かな歓喜が目覚める。何だ、この感情は。自分の感情に戸惑う。一方で、それで当然なのだという気持ちもある。少女に命じられるまま、僕は片膝を着いて頭を下げた。

 僕の首に黒い首輪が巻かれ、背後のベルトで苦しくない程度で留られる。少女の手が触れた瞬間に、えも知れぬ快楽にびくりと体が跳ねた。


 嗚呼、そうだ。僕はこれを求めていたのだ。これこそが、僕の渇望していたものだったんだ。


「いい子ね、


 頭に小さな片手が乗る。僕は顔を上げる。少女の目は冷たいながらも、そして歪んで、昏い、けれども可憐な笑みを浮かべていた。


 ──そして、僕の世界に色彩が戻った。



 

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