プロローグその二 謎の美少女


仕事が忙しくなった。六月に大学図書館は、忙しくなる。なぜなら教員が、学生にレポートを提出させるために、学学生は、自分のパソコン、スマホ、タブレットを駆使し、課題の研究成果を打ち込んでいく。

しかし、中には図書館に来館し、図書を書架から出してレポート用紙に書き込んでいくような昔ながらの学生もいるのだ。

そんな学生の学習を援助する『レファレンスサービス』がある。

『レファレンスサービス』とは、レポートの課題を解決するために、学生にどのような図書を選択させるかを指導するサービスである。

これが難しく、学生は性急に答えを知りたがるのを抑えて、答えを学生自身で導き出させなければならない。だから大学図書館員は高度な専門性を持たなければならないのである。

一平は、学生に丁寧に図書検索を説明していく

担当時間が終わると一平はクタクタになる。午前中だけで、五人も質問に応じていたからだ。

一平は、事務所の自分のデスクでコンビニ弁当をカバンから出した。お昼休みである。

一平のその様子を見るともなくみていた課長の丸井が、目尻の下がった柔和な表情で言った。

「龍崎くん。コンビニ弁当は、身体に良くないよ」

課長に指摘されて、彼は頭を掻きながら

「はあ、ぼくもそう思っているのですが…。つい、朝は時間がなくて」

主任の太田が、自前の水筒からお茶を湯呑みに注ぎながら言う。

「早く、作ってくれる女性をみつけることだね。誰か好きな女性はいないの?」

その時、一平のデスクの列から二列離れたデスクにいた女性事務員の半井真希の肩が、微かに動いたのだが、誰も気ずかなかった。

「あ―、太田さん。そのセリフは、今じゃセクハラ発言なんですよ」

一平は不平顔で抗議した。

「それは悪かったね。で、いるの?」

「いません。目下募集中です

「根本的解決は、人任せか。それが問題だな

丸井課長は、トドメの指摘をした。

2

今日は、六月の三十日だ。この駅前広場で、謎のピエロに遭遇し、見事なダンスをその夜他の多くの人々と目撃したはずなのに、その後、ピエロは現れることはなく、噂にもなっていないことが、一平には不思議だった。

(もしかしてあのピエロは、幻。俺の幻覚だったのか)

一平はそう考えそうになるが、あの夜のピエロの華麗なステップを思い出すと、現実だったと思い返す。

前期試験が近く、図書館の業務も比例して忙しくなる。 

時間だけが過ぎていき、旅行に付き合ってもらえそうな女性は見つからないままだ。

一平は焦っていた。そんなある日の昼休み、昼食も摂らずに、個人研究図書の整理に励んでいる一平に、半井真希がお茶を入れた湯呑みを丁寧にデスクに置いてくれた。

「龍崎さん。お昼ですよ。一息入れられたら」

「半井さんか。もう昼なのか。忙しくて昼ご飯食べるの忘れてたよ」

「がんばりますね」

真希は、笑顔で言う。

「まあね。そうだ半井さん。一緒に旅行しないかなあ」一平は焦りのあまり半井真希をいきなり誘ってしまった。

「え!」真希は絶句した。

一平は事情を話したが、話が進むに連れて、真希の目は鋭く細くなっていく。

「バカにしないでください。そんな得体のしれない話を信じるほど、私、子供じゃありません!

きちんとした信頼関係もないのに、”一緒に旅行しよう"なんて。私、龍崎さんを誤解していたわ。軽蔑します」

真希にビシっと言われて、図書館事務所は氷つき、一平は、丸井課長に厳重注意を言い渡された。


夜の八時まで残業して、一平は、大学を出た。都会の空にしては珍しく、夏の夜空に月と星が瞬いていた。梅雨入りしているが、雨は降らない。

駅前広場は、帰宅を急ぐサラリーマンやOL等でにぎやかだ。しかし、昼休みの真希への軽率な誘いが尾を引いて、一平は、まっすぐマンションに帰る気にはなれず、喫茶店に入った。

花金にも関わらず、お客は少なかった。

一平が入ると同時に、チェックのシャツにミニスカートのウエイトレスが、驚いた顔で一平を見たのだが、他のウエイトレスに一平がコ―ヒ―を注文していたので、彼は気づかなかった。

いつもカバンに入れている『銀河鉄道の夜』の文庫を取り出して、読み始める。

図書館で借りて、何度も子供の頃に読んだにも関わらず、大学内の書店で購入した。

それほど好きな小説なのに、今の一平には、宮沢賢治の味わい深い文章が、頭に響いてこないのだった。代わりに半井真希の自分に向けられた軽蔑の視線が浮かんでは消える…。

一平は、目を閉じて首を振り、コ―ヒ―を飲み干すと、喫茶店を出た。

気を取り直して、自宅マンションへ帰ろうとした時、

「おじさん。ピエロのダンス見ていたよね」

女性の声に、一平は歩みを止め振り向いた。

3

その若い女性は、幅広の帽子をかぶって、ユルフワのコットンワンピースを着ていた。

丸メガネが、彼女にコケティッシュな魅力を与えている。

「おじさんとはぼくのことか」一平は不機嫌に答える。

「他に誰がいるのよ」若い女性は、悪びれずに答える。

一平は、さらに何か言おうとしたが、それよりも女性が発した「ピエロのダンス」という言葉に反応した。

「君も、あのピエロを駅前広場で見ていたんだな」

「ええ。ついでにポカンとして立ってばかりのおじさんのことも覚えているわ」

一平は、カバンの中から、ピエロに渡されたチラシを取り出して言った。

「君もチラシ持っているのか

若い女性は、無言で同じチラシをポシェットから取り出して広げる。

一平は、若い女性の言葉遣いに腹立たしくなりながらも、あの踊るピエロがいたことを確信できてほっとする思いだ

「おじさん、同じピエロからチラシをもらった同士として、ものは相談なんだけどさ…」

若い女性は、ニヤリと微笑んだ。

「私と一緒にこのチラシのツアー参加しない。

私、今スランプなのよ。参加すれば、私は、何かを得られると、直感が、私に囁くの。

だから、このツアーに絶対参加したいの。でも、私学生だから二十万なんて大金持ってないし、アルバイトで貯めた十万円までならあるんだけど。あと十万足りないの。だから、おじさんとペアで参加しましょうよ。私の足りない十万出してくれない?」

立て板に水のようにまくし立てられて、一平は気押されたが、目の前の若い女性の"人生がスランプ"状態という言葉には、共感できた。なぜなら、今自分がそうだから。

普段の彼なら、こんな眉唾な話は、一蹴してしまうのだが、気弱になっているところに若い美少女に懇願されて、首を縦に振ってしまったのである。

4

週末土曜日、休日の昼、龍崎一平は、駅に隣接するKデパートのレストランラウンジにいた。

そこに若い女性が、ミニスカート姿で小走りに来た。

「おまたせ」




「五分遅刻だよ」と一平。

「女の子は出かけるのに、時間が要るの」

若い女性は、年上の彼を逆に諭すような言葉で断言する。不思議と彼女の言葉遣いが、一平には、心地よい響きを感じさせる。


証明写真には、ブレザーの制服姿の女の子が、やや緊張した表情で写っていた。

氏名欄には、『宮前勇気』とある。

「名前は、"みやまえゆうき”と読むのよ」

「それぐらい読めるよ。それにしても、本当にうちの大学の学生さんなんだ」

一平は、ため息混じりに呟いた。

(こんな美少女がいるんだ)

一平は、心中で嘆息した。

宮前勇気は、自分をじっと見つめる視線に照れる。

「それにしても一平さんて変わってるわね。

勇気は、急いで話の矛先を変えようとしてくる。

「私が、『私と一緒に行きませんか。お金十万出して』と言ったら、しばらく考えて、私の提案に同意したのに、今日の十二時を指定して、場所もデパートのレストランなんて指定するんだから。ふつう、男の人って、ホテルなんかでお金を渡して、なし崩しに女の子を抱こうとするもんだと思ってたわ」

一平は、苦笑を浮かべて否定した。

「くだらないテレビドラマの見すぎだよ。それより約束を果たそう」

一平は、スマホのネットバンキングから、勇気の口座にお金を振り込んだ。

勇気はお金が振り込まれたのを確認すると、笑顔になった。二人は、ピエロが配ったチラシに印刷された、ツアー主催社の口座にお金を振り込んだ。

一分ほどすると、『振込確認、参加承認』のメッセージが、二人のスマホの画面に現れた。

勇気は笑顔で礼を言う。




「ありがとう一平さん。私を信じてくれて」




「ぼくは、女性にひどいことはしないよ。既に一度ひどいことをしたのだから…。」




先ほどまで明るい彼の表情が、一瞬、ドス黒く変わったのを勇気は見逃さなかった。




(この人、一度辛い恋愛を経験したのね)




「それでは、ぼくは帰るよ」




一平が席を立つと、勇気が言った。




「ひどいなあ。こんな美少女な私を独りにして帰るなんて。デリカシーないですよ。私、観たい映画あるの。一緒に観ませんか」




一平を見つめる勇気の目は優しい。一平も勇気の心遣いに感謝して、二人は映画館へと向かった。






半井真希は、レストランから出てきた一平たちを見つけた。




「あれは、龍崎さんだわ。隣の女性は誰かしら。とても綺麗な人。もしかして、いつか言ってた一緒に旅行に行く、相手なのかしら」




真希の中に嫉妬がうずまいた。




(なんて人なの!一度断ったぐらいですぐに他の女性を見つけるなんて。一平のバカ!)




しかし、真希は肩を落として歩くしかなかった。

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