第87話 老人の本性
平静を装ってはいたが、ルカの胸中は激しく揺れ動いていた。
マルセルが連れて来た老人は、ルカが厳しい疑いの目を向け続けていた存在であり、おおよそ自ら訪ねてくるなどありえないことだと思っていたからだ。
身辺を詳しく調べ、尾行までつけた相手である。
訳が分からない。
このショウゾウという老人が、一連の事件に関わっているのなら、こうして堂々と自分の前に姿を現わすことなどできないはずだ。
そうであるにもかかわらず、こうして太々しくも私の前に姿を現わした理由は何か。
この老人の狙いは一体何なのだ?
「マルセル、君がわざわざ迷宮からこちらに戻ってこなくてはならないほどの用件なのだろう? それならば、こちらで話を聞こう」
ルカは己の動揺を悟られぬように作り笑いを浮かべ、この思いがけない訪問者たちを来客者用のテーブルの方に誘った。
モリスに飲み物などを持ってくるように命じ、自らは最後に席に着いた。
良いだろう。
逆にこれを好機として、この老人の本性を暴いてやる。
ルカはそう考えを切り替え気を落ち着かせると、さっそくマルセルの説明を聞くことにした。
マルセルによると、ショウゾウを伴ったレイザーが、複合迷宮の調査現場を訪れたのは三日前のことであったらしい。
迷宮に関するある提案を聞いてほしいという用事で、その計画のあらましを書いた紙の資料を持参してきたのだが、それを見たマルセルは、目から鱗が落ちるような思いを抱いたそうだ。
迷宮消失の調査が始まって十日ほど経つが、進展はおろか目新しい発見なども無く、調査は完全に暗礁に乗り上げていたため、その報告を兼ねて、ルカにこのレイザーたちの提案を聞いてみてもらおうと考えたのだという。
マルセルは、ショウゾウから紙の束を受け取るとそれをルカに手渡した。
「これは、誰の手によるものなのかな?」
「はい、恐れながら、この年寄りが分もわきまえずに書き起こしたものでございます。まさか、御曹司様の目に留まるなどとは思いもしていなかったので、ひたすらに恐縮しております。御不快に思われる部分もあるかと思いますが、余命いくばくもない老人の戯言とお許しくださいますように」
ショウゾウは椅子から立ち上がると、大仰なほどに床に平伏して見せた。
「ショウゾウさん、そのような真似はやめてください。さあ、立って。椅子に座っていてください。このマルセルが私に見せる価値があると考えたほどの文書です。心して読ませていただきます」
ルカは受け取った紙の束を捲った瞬間、思わず「これは」と驚きを口にしまった。
それは、高齢の者とは思えぬほどにしっかりとした字で、手書きの図表や絵を交え、詳細に書かれたものだった。
本の虫と一族の人間に呆れられるほどの読書量であるルカにとってもこれほど詳細な文書はそうお目にかかったことがないほどであったのだ。
思わず周囲の人の目を忘れて、ルカはその内容に夢中になってしまった。
それは幼い頃より叩き込まれてきた領主家の人間としての教養をもってしても難しい未知の考え方や概念が含まれていて難解ではあるが、おおよそそれを理解できぬものにも注釈がついていたり、要点だけ簡略にまとめられていたりした。
読み進めるほどに、ルカはこの文書を作成したというショウゾウに底知れぬ畏怖を覚え始めた。
これは市井に暮らす一介の凡庸な老人の手によるものなどでは、絶対にありえない。
この国の知恵者を広く募っても、短期間でこれだけの文書を作り、計画を立てられる人物などどれほど存在するであろうか。
まるで同じ時代の、同じ国の人間とは到底思えない発想と教養がその文字の間から滲み出てきているようにルカには感じた。
このようなことを思いつく人間であれば、若く未熟な自分の目を眩まし、欺くことなど
この老人の本性を暴こうなどと考えた自分は間違っていたのだろうか。
ルカは、差し出された文書の中身と作成者の知性にひどく魅かれつつも、目の前で畏まっている老人の中に潜む何かに内心、戦慄していた。
このショウゾウが、このオースレンに降りかかった災いの背後にいるのなら、善悪を見極めるなどと悠長に構えている場合ではなく、いっそこの場で捕縛してしまうべきではないか。
この部屋にはマルセルもいるし、ひと声呼べば、城中の者たちが殺到してくる。
だが、ルカはその考えを実行に移すことができなかった。
もし、
白昼堂々と自分の前に現れたこと自体が、ルカを、そしてグリュミオールを恐れていない証拠ではないかとも思った。
万が一などあってはならない。
結果を求めるあまり、恐るべき敵を生み出してしまうこともあり得るのだ。
見極めるべきは善悪ではなく、このショウゾウがグリュミオール家の敵なのか、味方なのかだ。
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