ぬるい海をたゆたうのは

西しまこ

1.

 理乃は思う。川添くんの部屋はいつも片付いていると。1LDKの狭い部屋には余分なものは一切なかった。

 理乃は小さなテーブルの前に座り、チャンネルを弄んでいた。

「ねえ、川添くん。今日は映画、何観る?」

「ちょっと待ってて」と川添は言い、キッチンからお皿を二枚持って理乃の方に来た。

「パスタ! 嬉しいな」「うん。今日はナポリタン」「いつもありがとう」

 二人で選んだ映画を観ながら食事をする。

 理乃は、金曜の夜はこうして、会社の後輩である川添の部屋で、二人で過ごすことが多かった。川添が作る料理を食べ、映画を観る。そして。

 映画を観終わったころ、理乃の手に川添の手が触れた。絡まる指先。熱いものが躰を巡る。目と目が合って――お互いに顔を寄せて、唇を啄むようにする。それから、口の中を探る。あつい。口の中って、どうしてこんなにあついんだろう? と理乃はいつも思う。それから、ああ、川添くんの味だ、と。柔らくてあつい、蠢く舌。手がお互いを探す。服の上から。それから服の中に手が入っていく。

 いつの間にか、服はどんどん床に散らばり、息遣いと体液の音と、それから体温だけを感じる。

 ぬるい海の中に入っていくみたいだ。

 思考は止まり、躰全部で彼の手と唇と指と舌を感じる。

 川添くんとのセックスは好きだ。

 川添くんのセックスはとてもやさしい。

 理乃は、そのやさしい、ぬるい水の中で、彼を感じる。そして、安心する。

 ゆらゆらする、熱のこもった肉体。熱いものが理乃の奥まで入って来る。

 理乃は目を閉じて、そのことだけに集中する。

 瞬間、真っ白になって、川添が理乃の上で止まり、そしてキスをした。触れるだけのキスを。

 まだゆらゆらしているみたい、と理乃は思い、シーツを足でなぞって、さらさらとしたその感触になんとなくほっとした。布団にくるまりながら目を閉じて、ぬるい海の感じを思い出していたとき、「明日はどうするの?」と横で川添が言い、理乃はふいに現実に戻された。

「明日――は、土曜日だよね。シンくんと会うかな?」

「まだ続いているの?」

「そう、続いているの」

「ふーん」

「ふふ。川添くんこそ、彼女と? 土日は戻ってくるんだっけ?」

「――うん、たぶんね。なんか仕事忙しいらしいけど」

「そっか」

 理乃はベッドからするりと下りて、服を探して、手早く身に着けた。

「帰る?」

「うん。今日はありがと。楽しかった」

「またね」

「うん、またね」

 川添も服を着て、玄関まで理乃を送る。手を振って別れる――それだけ。

 お別れのキスはしない。家まで送ってもらったりもしない。泊まったりもしない。

 だって、つきあっているわけではないから――


 あたしと川添くんって、どんな関係なんだろう?

 理乃はときどき、ふと考える。

 恋人じゃない。恋人になることを予感する相手でもない。

 一番近いのは「友だち」だ。セックスもする、友だち。でも、境界線がきちんとあって、お互いにバリアを張り巡らしている。川添くんと一緒に過ごせるのは、彼がそのバリアを越えて来ようとしないからだ。そのことは、理乃にとってとても大事なことだった。

 川添のマンションと理乃のマンションはとても近い。歩いて十分くらいだ。この距離が、二人を今みたいな「友だち」にさせたとも言える。でも、川添は理乃の部屋に来たことはないし、理乃も呼んだことはない。場所は知っているはずだ。でも、「理乃の部屋に行きたいな」などと言われたこともない。「どうして行っちゃいけないの?」などと言う相手だったら、理乃は川添と「友だち」ではいられなかった。

 理乃は自分の部屋に入り、すぐに服を脱いで裸になった。汚れものは洗濯機に入れ、スーツはハンガーに吊るす。音楽をかけながら、お風呂にお湯をためた。お風呂は一人でゆっくり入るのが、理乃は好きだった。明日はきっとシンくんが一緒に入ろうと言うだろうから、今日くらいは好きな入浴剤を入れて蝋燭を浮かべたりして、音楽を聴きながらゆっくり入りたいと理乃は思った。

 アロマの香りで満たされながら、湯船に浸かる。白い肉体。理乃は躰のすみずみまで点検をする。川添は跡をつけたりしないと分かっているけれど、念のために。お腹を触り、太っていないかどうかも確認する。二十八歳の肉体はまだまだ充分きれいだ、と思う。二歳年下の川添くんはともかく、シンくんは五つ下だから肉体の手入れには気を抜けないと理乃は考えていた。

 シンと理乃はつきあって、半年くらいになる。そして、ただの、会社の、隣の課の後輩だった川添と理乃が「友だち」になったのは、一年前だった。

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