放送事故

「……」


 すると、普段なら頭の回転を生かしてすらすらと答えるところを、有馬は硬く口を閉じたまま凝然と動かない。左右対称を意識した清潔なスタジオの背景に似つかわしくない、淀んだ雰囲気が瞬く間に横たわり、カメラに映り込まない裏手ではソワソワと落ち着かない様子でスタッフが色めき立ち始める。


「あのー……有馬さん?」


 適切な声の掛け方を逸したアナウンサーは、絆す訳でもなくバカ真面目に有馬の返答を求めた。


「貴方の言う通りです。私は貴方に従います」


 まるで神の啓示を受けるかの如き焦点の定まらなさをカメラの前であけすけにし、横並びに座らせられている共演者を酷く怯えさせる。アナウンサーも忽ち声を失うと、自分が番組で担っている立場を忘失し、「ひ」とあまりに無責任な声を上げた。


「これでいいのですね」


 有馬は朗らかに笑い出し、縦に振った首の動作から「納得」を引き出す。そして、鎮座していた椅子に別れを告げ、敬礼まがいに首元へ右手を持っていく。顔に影を落とさないように設置された照明は、右手に握られた物の怪光を呼び起こす。カメラマンはひたすら有馬の姿を捉え続け、その職種に由来する好奇心によって、有馬の握った物が刃物であることを明確にした。


「!」


 危険を察知した共演者が一斉に椅子から立ち上がると、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。いち早く身の危険を感じ取っていたアナウンサーは、既にカメラの画角から外れてスタッフに助けを求めていて、騒然とした空気が辺りに蔓延した。直接目視せずとも、液晶画面という間接的な窓を通して、不穏な空気は洩れ伝わり、全国各地で一寸先にある“最悪”な結末を目に焼き付けようと凝視する。


 そんな仄暗い期待に応えるように、有馬は自分の首を肌色の障子に見立てて、刃物を悪戯に刺した。喉の裂傷に伴う多量の出血は、我先にと体外を目指した結果、地上で泡を吹くほどの水難事故を再現する。台本が置かれたテーブルの上に口から溢れ出た血液がボトボトと音を立てて落ちた。思わず顔を背けたくなる光景だったが、倒錯的な感情に支配されたカメラマンの興奮は恐れを知らず、レンズが向くべき場所や画面を構成する比率、被写界深度などを適切に制御して眼前にて起こる有事を鮮烈に映し続ける。


「おい! 止めろ!」


 怒声が爆竹のように弾けて飛び、無責任な呼び掛けを周囲に訴える。勿論のことながら、有馬を止めようとする殊勝な人間はスタジオにはいなかった。溢れんばかりの道徳的な気風は不特定多数の路上にこそ現れ、閉じられた空間に於いて、自然発生することは先ずない。


「く、ぅ」


 ナイフに寄生された有馬の身体はきわめて曖昧だった。意味深長に空目使いし、手摺を探るように両手をあてどなく彷徨わせる。間も無くして、有馬はテーブルの上に手をついて、自分の身体を支えるだけの土台を見つけた。

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