温泉宿へとご招待
私がすずめを台所に出迎えると、台所のカウンターに「ちゅん」と停まった。
「せんじつたすけていただいたすずめです。なはあおじともうします」
「あおじ、ね。それで、私に羽を休めるっていうのは、どこに連れて行ってくれるの?」
「ちゅん。わたしはおんせんやどこうふくゆのてんしゅをつとめております」
「温泉宿。それってどこ?」
「はい、こちらうつしよのうらっかわ、かくりよとのはざまにございます」
一応、現世というのは人間たちの住む世界。幽世っていうのは、妖怪や神様が住む世界って聞いている。それはあおじの感覚でもそうなんだろうか。
「一応小説書いてるから知ってるけど、現世っていうのは私たちの住む世界で、幽世っていうのはあなたたちの世界ってことでOK?」
「かみさまやだいようかいのすまうばしょで、やどなんておそれおおい。うつしよからごきかんなさるかくりよのどうちゅうで、やどをひらいているのです」
「なるほど」
どうもあおじは、神様や妖怪っていう強いものではないらしい。でも。私は一応聞いてみる。
「泊まるっていうのは? あなたの切り盛りしている店で、ネットって通じる? ご飯食べて大丈夫? よもつへぐいっていうのがあるんでしょう?」
よもつへぐいっていうのは、かつて日本をつくったとされる神様、イザナミが黄泉の国のご飯を食べてしまったせいで、地上に戻ることができなかったことからできた言葉。転じて神様の世界のご飯を食べてしまったら人間は元の世界に帰れないって意味合いで使われている。
私のポンポンと投げた質問に、あおじは「ちゅちゅーん……」と丸まった。ふくふくすずめは丸まっても可愛い。
「さっこんはねっとがないとおこまりのおきゃくさまがおおいですから、かんびさせていただいておりますよ。ただ、こうふくゆのじょうほういっさいかっさいあげられませんので、しょくじやおんせんのしゃしんはごえんりょいただいております」
「ほうほう」
「でもしょくじはおおばんぶるまいしますし、おんせんはめがみさまがたからもひょうばんのたまのゆですよ! おんじんですからね、それくらいはごほうしさせてくださいませ」
「ほうほう……でも、私もひと月くらいしか滞在できないんだけど……その間って服の用意とか大丈夫?」
さすがにひと月家を留守にするってことは、洗濯物が溜まるってことだ。幽世で洗濯できるのかなと思っていたら、私の言葉に「ちゅちゅーん……」とまたしてもあおじは丸まってしまった。
「せちがらいですねえ。おつきのひとをおつけしますから、こまったことはそちらのかたにそうだんしてくださいませ」
「あらら。人まで付けてくれるの?」
「おきゃくさまにあっとうてきまんぞくして、またごらいてんおまちもうしあげるのが、おんせんやどのほんぶんですから」
そう言って、あおじはえっへんとお腹を突き出した。可愛い。
私は「わかった」と言って頷いた。
「どうせだったらひと月お邪魔しましょう。荷物をまとめたら出発でいい?」
「かしこまりました。それではおまちしておりますね」
私はあおじにお猪口いっぱいのお水を出してあげてから、せっせとひと月分の旅行の服を用意した。洗濯させてもらえるんだったら、思っているより服は少なめでも大丈夫かな。あとノートパソコン。担当さんたちとやり取りできるように持っていく。そして取材ノート。仕事の缶詰というよりも、取材が本分なんだから、これで気分を盛り上げていきましょう。
それにしても。私はぴちゃぴちゃと水を飲んでいるあおじを眺める。
神経衰弱にしては、至れり尽くせり過ぎて、ちょっと怖いというのがある。もし本当に旅行で、やたらと楽しいことしかしないって展開になったら、仕事を放り出してしまいそうな気がする。
やだなあ、それはすっごくやだなあ。私が私でなくなりそうだもの。カートの中に荷物一式を詰め込み、最後に日傘を携えた。
「あおじ、お待たせ。それじゃ行こうか」
「ちゅちゅーん。それではいちめいさまごあんなぁい」
こうして私は、肩にあおじを乗せて出かけることとした。
楽しい旅だといいんだけれど、旅は準備しているときが一番楽しかったりするから厄介だ。
****
最初はよく知っている路地をとことこと歩く。
「それではそちらをみぎにまがってください」
「右ね。了解」
誰もかれもが私のほうを怪訝な顔で眺めて通り過ぎていく。もしかすると神経衰弱が原因で、すずめと会話している女に見えているのかもしれない。
でも、だんだん見慣れた景色がぼやけてきたような気がした。
「あれ? 路地が……」
「うつしよからはなれたのでございます」
「おかしな道順だったのは?」
「うつしよとかくりよは、どこからでもいけ、どこからでもいけないのです。わたしのようにただしいみちじゅんでなければたどりつけませんから、つぎにごらいてんのときも、かくりよのみなみなさまといっしょにいくことをおすすめします」
「なるほどなあ……」
細い路地をぐるぐる回って進むというのは、普通に行けば時計回りに曲がっているだけなんだから、普通は元来た道に戻るんだけど、戻らずに幽世に向かう道に点いちゃったんだから、幽世の住民と一緒に行かないと着かないって縛りでもあるのかもしれない。
そりゃ訳のわからない人たちに突撃されても、幽世の住民だって困るだろうから、こういう縛りでもしないと駄目なんだろうなあ。
私がそう思いながら、あおじに言われるがままに進んでいった。
ぼやけた視界は、だんだんと開けてきた。気付けば水彩絵の具を伸ばしたような世界が広がっていた。絵本に描かれているような、江戸風の街道に一軒。比較的大きな店があったのだ。
「ちゅんちゅん」
「ちゅんちゅん」
「ちゅんちゅん」
「わあ」
私は思わず目を細めてしまった。
あおじのように丸くて小さなすずめたちが集まって、掃除をしていたのだ。ちりとりを咥えているのもいれば、ほうきを咥えて掃いているのもいる。
尾をふりふり、羽をパタパタ。その姿は。
「かっわいい」
すずめがいっぱい掃除している姿は、はっきり言ってものすごーく可愛いのだ。
ふっくらすずめ。まーるいすずめ。ちょっと痩せているすずめも皆可愛い。一生懸命掃除していたら、私の肩に泊まっていたあおじが「ちゅちゅーん」と皆に声をかけた。
「おきゃくさまごらいてんでーす!!」
「ちゅちゅん!」
「てんしゅをたすけてくださったかた!」
「おんじん!」
「おもてなしですよ!」
掃除をしていたすずめたちがこちらを見ると、一部は目をきらきらさせながらもその場で掃除をし、残りのすずめたちは一斉に宿に引っ込んでしまった。
【温泉宿 幸福湯】
あおじの教えてくれた名前が、たしかに宿の看板に掲げられていた。
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