船乗り博打と密偵と

 日暮れを告げる教会の鐘が高く街中に響く。空には紫雲が気怠げに漂い、丹色の陽光が遙か彼方、山の間から徐々に消えていく。昼間の喧噪は嘘のように静まりかえり、街路を照らす篝火に火が灯され始めた。

 昼間の賑やかさは形を変えて、今度は歓楽街、居酒屋や飲食店、欲望を持て余した男女を引き込む蠱惑な店が、所狭しと集まる通りに移動する。客引きは勤めから帰る者達の袖を引き、一見異様な煌びやかさを、港町ハーフンは見せつけている。

 そんな享楽から離れて、淡くぼかされた教会の壁の近く、一枚の紙が風に舞っている。それを拾って、一人の緑紙の少年が佇んでいる。帝国の密偵、ハンスである。


 彼は昼間の掏摸の様子を見ていた周りの人間の証言から、仕方身振りで証言と現場をしきりに考え合せている。

 証言によれば、銭嚢を掏摸取られた少年は、銀髪の少女を抱き留めた隙に被害に遭ったらしいので、流石に目利きのハンスは、港街流の掏摸では無く、帝都流の仕業だと大体目星を付けていた。

 しかしそうなってくると解せないのは、銭嚢を掏られた少年だ。慌て振りを見るに、小粒でも無いだろうに何故、自分を振り切って逃げたのか、ハンスは不思議でならないのだ。


(とにかくあの人を捜さないと。もしかすると掏摸よりも、こっちの方が大きなネタかもしれないぞ)等と考えながらも、彼はぶらぶらと帰路に付いていた。

 すると、彼方に悄然とした後ろ姿が見える。項垂れた様子で宿に入っていく横顔、眼を凝らして見れば、昼間会った少年に紛れもない。脚を棒にしたのであろう、疲れて宿屋に入っていく姿が何とも小さく見える。

 少し間を置いて、ハンスは宿屋の戸を開け、宿帳に目を通した。それによれば、ユフとグレゴールの兄弟は、五日も前から泊まっていると云う。


 ハンスは店主に、二人がジパングに入領するための手続に手を焼いていると聞き、何か思う所があったのであろう、二人が泊まっている部屋の隣の空き部屋に入り、そっと聞き耳を立て始めた。

 ユフの声が聞こえる。


「グレゴール、そう心配するな。派手に遊んだと思えば、金貨三百枚なんて多寡の知れた物だよ。御役目なんだから路銀は早馬で取り寄せる。だが、ミーナ様のお手紙、あれを掏られたのは弱ったな」

「ごめんよ兄さん。あの手紙が無いと、ミーナ様のお父様が生きていたとしても、遙々帝都から来た甲斐が無い事は解ってるよ。今から俺が夜昼なく帝都に行って、ミーナ様にお手紙をもう一度貰ってくる」

「オオ、その元気があれば良い。実を言うと、今度のジパング渡りの許可はご破算だ。下手を打つと、こちらの秘密まで気取られかねない。そこで、二ヶ月先にジパングの連中が帰国する船に忍び込んで行く事にした。その間に、ミーナ様からお手紙をもう一度貰って来てくれ」


 それを聞くと俄に元気を取り戻したグレゴール、早速握り飯と水筒を鞄に詰め込みだした。その間にハンスは、急いで階段を下りたが、丁度二階へ上がろうとする店主と遭遇した。

 店主は今し方届いたらしい小さな桐匣を持っている。ハンスは素早く眸を光らせて、否応無くそれを奪い取り、御役目です、と一声言って麻糸を切った。

 ぱらり、と滑り落ちてきたのは空の銭嚢、まさしくグレゴールが昼間掏られた物に相違ない。帝都の掏摸には、妙に義理堅い所があると密偵仲間から聞いた事があるハンスは、苦笑いしつつ、それを改めてみると中に一通の手紙が入っている。

 女特有の流麗な筆跡が滑るように、次の文意を白絹のような紙にしたためていた。


 ーお父様がジパングに向かわれてから陰膳の日も十年が経ちました。帝国では御定法に則り、十年間連絡の無いお父様を死亡とみなし、建国以来の隠密組頭、ティーレ家も断絶の日が近付いて参りました。

 私も十五となりました。男でない私は、お取潰しの御下命をどうする事も出来ません。ですが私には、六つの時にお別れしたお父様が未だ存命であると信じられてなりません。そこで、乳母の兄弟であるユフとグレゴールに、命がけのジパング潜入をお願い致しました。

 もし無事にこの手紙を受け取れたのであれば、我が家の命脈は保たれます。ー


 ここまで読んで、ハンスの心はもう恋に燃える乙女のように昂ぶっていた。彼にも父の代以来、ジパング絡みの臥薪嘗胆がある。それへ一縷の曙光を見出したのである。

 これは他人事では無い、と次の字句へ眼を動かしてると、二階からすっかり旅装束姿に身を変えたグレゴールが下りてきた。ハンスは素早く手紙を懐に隠して今し方着いた宿泊客の顔をした。

 グレゴールは、行ってくるよ、と元気よく兄に言って、暗い夜道へ歩き出して行く。ハンスは、この手紙一枚の為に帝都まで行かせるのも気の毒に思い、何処か人気の無い場所まで尾けていき、手紙と交換にジパング入りの事情やティーレ家の身の上まで探る魂胆でいた。


 街の外では面倒なので、何処か土蔵の影や路地裏で、等と考えながら歩いていると、繁華街から離れた河の側、少し狭くて寂しい小路に差し掛かった。

 お誂え向きなので、ハンスが手を振りながら、おーい、と呼び掛けた時――先に行くグレゴールに迫る黒い影、ぎらと抜かれる銀蛇の一閃! 居合抜きに背中を割られたか、うわっ、と悲痛な声が聞こえてきた。

 転げて逃げるグレゴール、斬られた瘡が苦しそう。夜闇を泳ぐ刃が追い、見る間に二の太刀三の太刀、グレゴールは無我夢中で河波に転げ落ちた。


 グレゴールを襲った辻斬りは、舌打ちして刀を納めた。ハンスは、その姿を見るや否、真っ黒な影目掛けて、自慢の双剣を煌めかせ、と一足跳びに斬り掛かる。

 御用っ、とばかりに来た影を見て、黒い影は素早く刀を払い、戛然とハンスをあしらった。


「何だ小僧。生意気に二刀流か。面白い、遊んでやるから寄ってこい」

「何をっ」


 と、ハンスは必死に刀を捌き、相手の隙を窺うが、まるで腕が違っている。見る間に見る間に斬りまくられ、首に刃を擬されていた。


 今、ハンスを児戯の如く弄んだのは、辻斬り商売の高坂陣内こうさかじんない。元はジパング出身の旗本である。居合斬りの妙技を持つ上に、示現流の達人で、尋常の剣技も錬磨の物がある。風采も中々立派なのだが、惜しむらく、博打欲に掛けては異常という性質である。

 旗本七千石の家に生まれた陣内だったが、借金で家を潰し、諸国を放浪した挙句、今年初め頃からハーフンの町で、夜な夜な辻斬りを働いている。

 その陣内の刀、同田貫どうだぬきを首に突き付けられたハンスは、くそっ、と歯噛みして、なおも抵抗を試みたが、完全に読み切っていた陣内は、と跳足して身を引いて、彼の攻撃を躱した後、ビシリと峰打ちを喰らわせた。


 あッと高い声を出し、ハンスは気絶してしまった。罪人を捕えるのが商売の彼は、あべこべに陣内のために縛り上げられ、両手両脚簀巻きにされてしまった。

 ポンポンと陣内が手を打つと、ギーッと小舟が漕ぎだしてきた。彼は、小舟にハンスを蹴り込んで、自分も乗り込むと、隠れ家に帰っていく。

 その晩から、ハンスは河下の怪しい家、陣内の隠れ家に監禁された。屋根裏に放り込まれて、夜明けに彼が眼を覚ますと、鉄格子の下には太い綱や帆車、海図等が所狭しと並んでいる。


「くそっ。此処は船宿だな。道理で手入れが入らない筈だ」


 船宿は街外れにあり、かつこの港町では、船乗りの権限が強い。陣内に隠れ家を提供する代わりに、辻斬りの分け前を受け取っているのであろう。

 しかしハンスには、こんな小者を捕える気は起きなかった。彼の前には遙かに大きな事件が転がっている。あの手紙から得た、父の代からの大疑獄、それを思うと、こんな所にいる時間が勿体ないのである。

 どうにかして抜け出さないと、そう思っても空しく時は過ぎていく。それから四日ほど経った夜更け頃、階下からざわめきが聞こえだした。


 (何だろう? 誰か来たのかな)そう思って、ハンスが覗いて見ると、船乗り達が綺麗な札を撒き散らし、金貨銀貨を積んで、卓の上で博打をしている。

 少し残念な気もしたが、一応この男共の顔を覚えておくのも無駄ではないだろう、とハンスは鉄格子の間から眼を凝らして、一人一人の人相を確認していた。

 (皆血眼だな。これなら明日の昼間には、逃げ出せるかも)とハンスは心の内で思い、船乗り共を見守った。案の定、鶏鳴を知らず、暁光を知らず、蝋燭の火を継ぎ足し継ぎ足し、いよいよ博打はに入る。

 

 そうしている内に、誰かからか文句が出て喧嘩が始まる。酒も入っている所為でガヤガヤと揉めだした所へガラリと引き戸が開いた。

 入って来たのは黒ずくめの陣内、傍らには銀髪の少女がいる。少女は、大の男達に怯む様子も無く、ふわりと金貨や銀貨の煌めく賭場の中に、風を薫らせながら座った。


「何だカーラさんか。誰かと思ったぜ」


 と、男共は先程までの喧噪を忘れ、そのあどけなさの残る艶めかしい美しさに、疲れた瞳を吸われている。

 カーラは粗末な服にも関わらず、一輪の馥郁さを見せつけながら、


「例の大仕事は無事に済んだから、ちょっと港町見物としゃれ込んでいたら、偶然ジンナイさんと会ったんで、遊びにきたのさ。それにしても面白そうな遊びだね。ちょっとあたしも混ぜてくれないかい」

「おお、カーラさんもやるかい。でも、女だからって手加減は無しだぜ。恨みっこ無しイカサマ無しの博打だ」

「へえ、じゃああたしはこればっかし出そうじゃないか」


 そう言ってカーラは、細い指先を懐に入れて、ずっしり重そうな革袋を取り出した。一座の者達は思わず眼を瞠り、強欲な瞳を輝かせる。その狡猾さを流石に十五の小娘は見抜けない。

 天井裏からは、ハンスが猫のように眼を光らせ、軽く舌打ちをしながら、(くそ。こんなんじゃあいつらがいつ眠るのか解らないぞ)と気を揉みながら、賭場の行く末を監視していた。

 明け方の陽は高くなっていくが、薄暗い船宿で行われるふしだらな博打は一行に終わる気配を見せない。裏の世界に脚を踏み入れて久しいカーラではあったが、稚い彼女は今や、碌に知りもしない博打の毒牙に掛けられようとしていた。

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