傷舐め合って、慰め合って 〜足りない二人の一年間〜

地軸

第一章  はじまり

プロローグ①

ああ、結局何をしたかったんだろうな、僕は。




午前七時、アラームとバイブの音が部屋に響き渡る。目を開けると見慣れた薄汚れた天井、壁、雑に積まれた参考書とノート。「白雲遊しらくもゆう」と僕の名前だけが書かれてあり、開いたページは白紙のままである。


モンスターのいる異世界、空の上にある天国、魔法が使えるゲームの世界、何度も夢見たが幾度願っても、起きたらそこに居る、なんて夢のようなことは無かった。


目覚まし時計を止めると秒針の動く音がまた鳴り始めた。与えられた役割を律儀に遂行する目覚まし時計、腹立たしくなり部屋の隅にあるゴミ箱へ投げ捨てた。


時計と今の自分を比べたのだろうか、それで怒りが湧くようなら僕も堕ちたものだ、そんな他愛のないことを考え一人苦笑する。


いつからだろうか、こんなにも冷笑的になったのは、心の底から笑えなくなったのは。頭痛がしてきた。ネガティブ思考は元からだ。自覚はしているがどうも治りそうにない。思考をクリアにしたい。朝からこの調子では夜まで持たない。ひとまず洗面所へ行き顔を洗う。



「ひっでぇ面」



ふと言葉がこぼれた。自分は健康体であるはず。それでもどこか生気がなく、目に一切の光がない。肌も部活に励んでいた頃と比べるとかなり白くなっていて、白装束を身にまとえば幽霊に見えるだろう。


頭を激しく振った。理由を考えようとする思考回路を無理やり止めるためである。


きっと理解したら、もう戻れない。理解しなくていい。一人で抱える、そう決めたはずだ。





「誕生日おめでとう、遊」



朝食中、母はただ一言僕に言った。貼り付けたような笑顔を浮かべながら。何度も母の顔を見てきたから理解できる。あれは心から笑っていない。


ああ、ああ、気持ち悪い。いっそ罵ってくれれば楽になる、諦めもつくのに。感謝を言う気持ちにもなれずただ僕は頷いた。目は合わせられない。きっと罪悪感で押し潰されてしまう。


シンクには二人分の食器が置かれていた。会社員の父は会社に、部活で朝練習のある妹はもう高校へ行ったらしい。そういえば最近二人とは口も利いてない。僕と違い希望に満ちた高校一年生、きっと素晴らしい学生生活を送っているのだろう。


気を紛らわせようとトーストを頬張る。朝食を食べ終わりいつも通り部屋に戻ろうとする僕を母が引き留めた。差し出した手には五千円札が握られていた。



「何これ?」


「誕生日プレゼント。今日十九歳でしょ。何をあげればいいのか分からなかったからこれで買って。どう使ってもいいからさ」



また笑顔で母は言う。今、母は何を思っているのだろう。些細な言葉にも裏があるように思えてしまう。



「ありがとう」



流石に礼は言ったが、依然として無表情のままだ。母の目には今の僕はどう写っていたのだろうか。





参考書とノートを開き、机に向かった、しかし握ったペンが進まない。ここ最近はこれが日常になってしまっている。やる気が出ないという訳ではない。ただ、動かそうとすると手が止まってしまう。体が拒絶しているのだろうか。


気づけばスマホートフォンを開いていた。怠惰な自分に嫌気が差した。ため息を付きながらも、新着のニュースを見ようと画面をスクロールする手は止まらない。電車の遅延、台風接近、芸能人の不祥事。今日も世間は暗い話題で溢れかえっている。しかし、一つだけ僕の目を引くものがあった。


どうやら都内の博物館では南米の歴史がテーマの展覧会が行われているらしい。僕は昔からこの手の話題には興味があり、様々な書物を小学生の頃から読み漁っていた。それは現在も変わらない。


幸い現在手元には今朝もらった物も含めて数万円ある。使い所のない金だ。一気に使ってしまっても構わない。すぐにでも行こうと思ったが今は8月半ば、夏の暑さもまだとどまる所を知らない。未だに日中の最高気温は三十七度近くある。夏休みということもあり外出も1ヶ月近くしていない。熱中症になってしまっては目も当てられない。


などと、ぐだぐだと行かない理由を並べている間に僕は無意識に着替えを済ませていた。やはり好奇心には抗えない。



「珍しいね。どこに行くの?」



食器を洗っていた母は僕に尋ねた。水の音で他がよく聞こえないためか、いつもより大きな声であった。途端に体が萎縮する。するべきことを投げ出して趣味に没頭しようとしているのだ。罪悪感が無いと言えば嘘になる。



「博物館。都内の」



たった一言、それでも絞り出すにはかなりの勇気が必要だった。鼓動が速くなり息が切れる。汗が頬を伝って床に落ちる。視線は自然と下を向いていた。



「そう、気をつけてね」



非難の言葉は聞こえて来なかった。途端に体の緊張がとれ、玄関へ向かおうとする足が動き出した。埃を被っていたスニーカーを取り出し、靴紐の長さを調節して履いた。少し小さくなった気がする。僕が何も成さずとも時間は過ぎてゆく。当たり前だが残酷なことに今更気付かされる。


玄関を開けると日差しが僕の肌を貫いた。瞬間足を止めるが、すぐに歩き出した。いつもより足早な気がする。確かに楽しみではあったが、他に理由があるような気がした。





休日だというのに電車内は暇をもて余した老人の他、疲れを隠しきれていない会社員、恐らく登校途中の学生で溢れ帰っていた。きっと肉体的には彼らのほうが疲弊しているだろう。


しかし、僕はただでさえ久しぶりの外出なんだ、今日ばかりは許していただきたい。こんな車内で立っているなんて想像もしたくない。幸い僕は始発で乗車したため席に座ることができ、強めに冷房もかかっていて快適に過ごすことが出来た。


することもなく、過ぎてゆく景色をただ眺めていた。車窓から見える外は雲一つ無い晴天。最初はアパートや小さい商店が並んでいるだけで見応えが無かったが、都内に近づくにつれて大きなビルや港が見えるようになり気分が高揚してきた。何より、海なし県出身の僕にとって海を見ることは貴重なことであり、今回出かける理由の一つでもあった。


青に染まり、波を打ち、白く光る水面は映画やドラマで見るよりも一段と美しく見えた。両耳に付けたワイヤレスイヤホンからは自分の好きなバンドの歌が流れている。心持ちがこんなにも良いのはいつぶりだろうか。


電車に乗ってから二時間近くかけてようやく東京に到着した。駅構内は人でごった返していた。休日ということもあり、平日よりも人は多かったのだろう。あまりの人混みに目が回る。一息つくために駅構内のカフェチェーン店によりアイスコーヒーを注文した。一人席に座った。昨年は同級生と一緒に来て将来を語り合っていたのだが。





コーヒーを受け取り一口飲むと、火照っていた身体が冷やされていくのがわかった。ここで重大なミスに気がつく。僕は駅から博物館までの道のりを知らない。しかし簡単にその問題は解決できる。検索すればよいだけだ。調べようとスマホを手に取ろうとした。


ここで先程のよりも重大なミスに気がつく。スマホがどこにもない。バッグの中、ズボンのポケット、テーブルの下などありそうな場所は探したが一向に見つからない。今どき珍しい公衆電話で自分のスマホに電話をかけても一切着信音が聞こえない。電車内では操作していない、だとすると家に忘れたのだろう。


さて、スマホを忘れたことは百歩譲って良しとしよう。いや、本当は良くないのだが。しかし博物館までの道のりが調べられないのは問題である。駅構内のマップを見るが道のりが書いてあるはずもなかった。数分考えた挙げ句駅員に尋ねることにした、幸い定年間近であろう男性の駅員が近くにいた。



「あの…」


「はい、なんでしょう」


「ここから博物館までの道のりを教えていただけますか?」


「繧ゅ≧荳?蠎ヲ險?縺」縺ヲ縺上□縺輔>」


「はい!?」



反射的に言ってしまった。失礼だとは思ったが今はそれどころではなかった。宇宙人にでも話しかけてしまったのだろうか。そんなことを思い、万が一のことを考え半歩後ずさりした。



「え?ああ、すみません。上手く聞き取れなかったもので。年をとるとどうも耳が遠くなってしまいましてね」


「え、いえ、はい、大丈夫です。ああ、そうだ。ここから博物館までの道のりを教えていただけますか?あ、国立のです」



精一杯平静を装い会話を続行する。冷や汗は止まらない。



「でしたらここの突き当りを左に曲がると外に出ます。そしたらそこをまっすぐ行くと大きい公園に出ます。そこに公園全体の地図があるのでそれを見れば道はすぐわかりますよ」


「あ、ありがとうございます」


「いいえ、これが仕事ですので」



こうして無事道を聞くことが出来た。親切な人間で助かった。それにしても、あのとき駅員は何語を話していたのだろう。中国語、英語はショッピングモールなどでよく聞くため多少意味が分からずとも聞き取れるが、あのとき聞いたのはそのどちらでもなかった。


世界には六千九百もの言語があると言われている。僕たちの知らないマイナーな言語はいくらでもあるだろう。その内のどれかだとしたら彼はかなりのハイスペックである。都内の駅員半端ないって。


耳が遠くなったと言っているが、きっと僕の発音が悪かったせいだろう。きっと駅員も、何語かは分からないが、もう一度言ってくださいとでも言っていたのだろう。思い返せばここ最近母とですらろくな会話をしていなかった。歌手でなくとも声帯筋は働かせておくべきだと肝に銘じた。その後も通行人に道を尋ねて、ようやく博物館へ辿り着いた。





チケットを買い、館内に入る頃には既に疲労困憊していた。ただでさえ高い気温、アスファルトの照り返し、人混みがあり、その上運動不足、いわゆるモヤシだ。こうなってしまうのも無理はない。


自動販売機で購入した冷たい烏龍茶を流し込む。完全に回復した訳では無いが、展示物を見ることが可能なくらいには気力も体力も回復したようだ。受付でチケットを提示して展示スペースへと続く階段を上った。段数は少なく、休憩したのにすぐ疲れる、といったことにはならなかった。


最近はバリアフリー、ユニバーサルデザインなるものも増えているという。スロープやエレベーターは無いためこれに該当はしないのだろうが、きちんと整備されている。流石国立。そもそも若人が一人で博物館へ訪れること自体が稀だろう。館内の設備は恐らくすべて年配の方に配慮したものになっている。


階段を上る十数秒でここまで思考を巡らせた。この回転の速さを他に活かせないものか。いや、自虐はやめにしよう。今はただ、すべて忘れよう。展示スペースへ足を踏み入れた。

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