第五夜 桜の花が散る時
「おい!240番!起床時間だぞ、起きろ!」
男の声を聞き、大きなあくびと伸びをする女。
彼女の名は
この拘置所に2年間収監されている死刑囚だ。
罪状は殺人。
彼女は、5年前に東京の町中で起こった無差別殺人事件の犯人。
20分足らずで8人の犠牲者を出したこの事件は当初、日本では初の女性が起こした無差別殺人事件として大いに騒がれた。
しかし、時の流れは不思議なもので、時間の経過の共に彼女の事件、そして名前は、世の人々の記憶から薄れていった。
彼女は2年前に死刑判決を受け、ここに収監された。
しかし、彼女の性格は変わることはなかった。
「んー…もう朝?」
「そうだ、もう7時だ。ほら、さっさと起きろ!」
「…はあい」
のっそりと起き上がり、面倒臭いと言わんばかりにゆっくりと眼鏡をかけ、朝食へ向かう。
自由時間になった。
莉愛は、最近愛読している小説に目を通す。
タイトルは『影の消える日に』。
虐待を受けて育ち、心を塞いだ少女が、とある青年との出会いをきっかけに、少しずつ心を開いていく…というストーリーだ。
「…」
莉愛はASD (自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)という2つの発達障害を持っており、人付き合いを好まない。
その代わりに、昔から読書が好きだった。
故に、ここに来てからも毎日暇さえあれば読書をしている。
そのため、周りの死刑囚からは「つまらない女」と呼ばれ、いつも変人扱いされている。
だが、彼女にとってはどうでもいい事だろう。
彼女は、自分の世界にいられればそれでいいというタチなのだ。
朝はダラダラと起き、昼はのっそりと昼食に向かい、夜はさっさと寝る。
莉愛は、ここに収監されてから2年間、ずっとこの調子だ。
死刑囚は、死ぬ事こそが刑罰。
故に、普段の時間は腐るほどある。
その時間の中で、彼らは自身の罪を悔い改める者、いつ来るかわからない死に怯える者、文学や慈善活動に目覚める者などに分かれる。
しかし、その一方で全く変わらない者もいる。
彼女もまた、その一人だ。
彼女は人懐こく、またとても陽気な性格だ。
傍から見ていると、死刑囚どころか悪人であることすら疑わしい。
「ねえー、前頼んだ本持ってきてくれた?」
今も、こうして一人の刑務官…
「持ってきてない」
「えー?なんでー?」
「前も言っただろ、ここではそういう本は読めない決まりなんだ」
「えー?ここにはいい男がいないから、結構溜まってるのにー。
…てかさ、あんた…よく見たらなかなか…」
「用が終わったなら、俺はもう行く」
「あ、ちょっと、待ってよ!」
「なんだ、莉愛」
「あ、名前で呼んでくれた。ちょっと嬉しい」
「…。それで?」
「あんたに聞きたい事があってさー。
あんたって…なんでここで仕事してるの?」
「…なんでそんな事を気にする?」
「私、ろくに仕事続いた事なくてさ。そんで、もうここに来て長いっていうあんたにちょっと話を聞きたいな、って思ってさ」
「…」
真司は、答えなかった。
「はあ…ねみー…」
真司は、大きなあくびをする。
夜勤は、朝方の彼にはきついものだ。
「おう、お疲れ」
同僚が休憩室に入ってきた。
「…お疲れ」
「眠そうだな。ま、お前は夜勤の時はいっつもだけどさ」
「わかってんなら、突っつく必要ないだろ」
「はは、そうだな」
そして、同僚は言った。
「なあ、240番とは上手くやれてるのか?」
「…!?なんでそんな事を?」
「だって、みんな言ってるよ。あいつとお前がよく話してるって」
「それは…まあ…」
「聞いたけどさ、お前あいつと結構楽しく話してるんだろ?」
「いや、別に…」
「隠さなくてもいいよ。仕事は、明るくやんなきゃ意味ないからな」
「俺は…別に…」
この時、真司は少し考えていた。
ここに勤務して、ちょうど10年。
莉愛は、今までに見てきた死刑囚の中で、最も個性的で、変わった囚人だ。
そして、同時に…
いや、いいんだ。
自分は看守、あいつは死刑囚。
刑務官である自分は、彼女をいずれ殺さねばならない。
それは、紛れもない事実だ。
一人となった真司は、ぼんやりと窓の外を見る。
そこには、拘置所の敷地内に植えられた一本の桜の木の枝がある。
最近は暖かくなってきたからか、花は少しずつ咲き始めている。
「…」
そう言えばいつだったか、莉愛は花見が好きだと言っていた。
この花を、あいつに見せられたらな…
真司は、うっすらとそう思った。
「240番」
「…珍しいね、あんたから声かけてくるなんて」
「一つ、聞きたい事がある」
「なに?」
「お前は、なんで罪を犯したんだ?」
「何?この前の逆のシチュエーション?」
「…いいから答えろ」
「…ふー」
莉愛は、ため息をついて話しだした。
「あんたはさ、この社会で生きることをどう思ってる?」
「生きること…?」
「そう。生きてて楽しいとか、つまんないとか。どう思ってる?」
「俺は…」
「私は、楽しいと思ってた。
ずっと、楽しみたいと思ってた。
でも、それは出来なかった。
私は、生きてく目的も、楽しみも、見つけられなかった。
ただ…それだけ」
「…」
その日の夕方、真司は伝えられた。
240番の死刑が、2日後に行われる事を。
そして、自身がその処刑の担当だという事を。
休憩室の窓から見える桜は、満開だった。
「あ、来た来た。
ね、前頼んだ本持ってきてくれた?」
「…この前聞かれた質問の答え、教えてやる」
「へえ?」
「俺はな…昔から、お前みたいな悪人を、殺して裁きたいと思ってた。だから、この職についた。
でも、正直…お前の事は、殺したいとも悪人だとも思えないんだ、莉愛。
けどな、お前が殺した人間、お前を殺したいと思ってる人間が、存在するのは事実だ。
だから、俺はボタンを押す。
…午前9時00分。240番、出房だ」
刑場の入口で、所長は言った。
「240番、鹿口莉愛。
何か、最後に言い残す事はあるか?」
「はあ…そうね。
最後に言わせてもらうとすれば…」
莉愛は、悲しげな顔で言った。
「私も、ここにいる人達みたいな生き方をしてみたかったなー、なんてね」
「どういう意味だ」
「そのまんま。私は社会に受け入れてもらえなかった。だから、人を殺して社会に復讐しようと考えた。
でも、そんなの無駄だった。
社会に復讐したって、どうにもならない。
でも…私は、普通に生きてく事は、どうしても出来なかった。
だから、ここにいるあんた達が…普通に生きてられる人が、羨ましい。
私も、みんなみたいに生きれたらよかったなあ…ってね」
執行台に立たされた時、莉愛は叫んだ。
「待って!」
「何だ」
「真司は…真司はいる?」
その言葉を聞いて、真司は驚いた。
「いようがいまいが、お前には関係ない!」
「大有りよ!私は…最期はあいつに…!」
真司は、思う所を押さえ、ボタンを押した。
窓から見える桜が、ちょうど散る時の事だった。
その後、真司は数多くの死刑囚の処刑に立ち会った。
そして、莉愛の死からちょうど40年後。
「…ご臨終です」
真司は、病室のベッドの上で静かに去っていった。
死因は、脳梗塞。
桜の花の、散る時であった。
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