第9話 噂
拓海が敷山家に来てから二度目の梅雨。春になっても、カエルもカラスも異常に増殖せず、香弥の声を出さず、拓海の名を呼ぶ事も無く、それは梅雨の現在まで続き、拓海は、香弥の事を思い出さない時間も増えていっていた。
「カエル人間だって」
「こわーい」
「小学生男子が好きそうな話だよね」
クラスの女子の会話が唐突に拓海の耳に入ってきた。
蘭と隼、それに雛子だ。
「なになになになになに?」
奏翔が割って入った。自然、拓海も加わる。
蘭が弟の友達に聞いたと言うのは、雨の日に現れるカエル人間というオバケの話だった。弟の友達は隣県のハトコから聞いたのだと言う。
雨の日に傘もささずに幼い女の子がゆっくりゆっくり歩いているので、どうしたのかと声を掛ける。女の子が振り返るとその顔はカエルで、大きな口で一口で呑み込まれてしまう。と。小学生の中で流行っている都市伝説らしい。隼が蘭の頭を優しく撫でる。
「蘭は私が守るから、怖くなんか無いよ」
「隼はカッコイイなぁ。隼くらいカッコイイ男子がうちの学校にも居ればねー」
雛子が椅子に座ったまま男子に背を向ける。
「え? 俺、カッコよくねえ?」
奏翔が心底不思議そうな表情で返すが、奏翔は隼に身長でも体力測定でも負けていた気がする。
「奏翔はカッコイイよ」
「甘やかさなくて良いよ!」
隼が微笑んで言うが、雛子が被せるように言った。
「朝勤だって毎日毎日、叩き起こさなきゃ起きないんだから」
「お寺は大変だよね」
拓海が神妙な顔で頷く。奏翔に、朝五時の鐘は家族で順番に撞いているのだと聞いた時は、そんなに早く起きてどうするのかと驚いたが、その後に掃除をしたりお経を読むのだと知って、そんな中学生が居るのかと感心したのだった。
「そう言えば……」
蘭が口を開く。
「お寺のカエルは今年は大丈夫?」
拓海の心臓が跳ね上がった。去年の異常増殖の事を言っているのだろう。確かに去年のこの時期、 道路まではみ出て大変だった。決して、雪乃の事を言っているわけではない。あの泥にまみれ、窓にカエルの死骸を貼り付けていく雪乃の異常な姿は、ここに居る誰も、見ていない筈なのだ。
「今年は普通だね。去年のアレ、何だったんだろうね」
雛子が足をブラブラさせながら答える。
「カエル嫌いじゃないけど多すぎるとさすがに、うぇえーってなるんだよね」
「あたし、カエル苦手だから、田んぼで見かけてもたまに、わーってなっちゃう」
蘭が言うと、隼も頷いた。
「アマガエルは可愛いけど、イボガエルばっかりだもんね、ここら辺にいるの」
それは、あのカエル沼にいた種と似ていて、拓海には見分けがつかない。カエル沼のカエルはヒキガエルだと従兄が言っていたのを思い出す。
「ね、カエル人間の顔って、ナニガエルかな?」
蘭の言葉に、隼と雛子が顔をしかめた。蘭は怖がりでカエルも苦手な癖に好奇心旺盛なのだ。
「弟に聞いてみれば?」
そもそも話の発端は蘭の弟の友達なのだからと雛子が返す。
「ナニガエルでも丸呑みは嫌だなぁ」
隼が言うのと同時にチャイムが鳴り、この話はそこで終わりとなった。
雨の上がった帰宅途中、カエルの死骸が落ちているのを見つけ、奏翔は去年の事を思い出す。雪乃がストレスから家出をし、風邪を引いて倒れ、伝染るといけないからと見舞いも禁止されていた。と、落ちているカエルの死骸が、池のカエルよりやや大きいのに気付く。池のは大きくても十五センチほどだが、落ちているカエルの死骸は二十センチ近い。よく見れば、鼓膜の位置も遠い気がする。
「新種かな?」
少し迷ったが、母と雛子の絶叫する姿が目に浮かび、奏翔はカエルの死骸を持ち帰らない事にした。
もしかしたら、この少し違うカエルが、カエル人間に変身して人を呑み込むのかもな。などと考えながら。
奏翔がカエルの死骸を見つけたのと同じ頃、健治は、県外へ行って来た友人から妙な噂を聞いていた。健治の家のリビングで、土産の乾き物を炙り、唐辛子をマヨネーズに振りかけ、炙った乾き物を付けてかぶりつく。
「で、変なモンって何よ?」
「それがさぁ……」
曰く、等間隔にカエルの死骸が落ちていた、と。
「バイクだからさ、踏まないように避けたらまたその先に落ちてんの。その道ずーっと」
それは明らかに指向性を持ち、此方の県内のどこかを目指しているように思えた、と。
「途中、掃除されたか何かで無いゾーンもあったけど、また少し走ると落ちててね。あー、この道ずーっと行ったらフェリー乗り場だなぁとか思ったりなんかして」
プシリ、とノンアルコールビールの缶のプルタブを立てる。
「フェリーで来た誰かが本土から持ち込んだカエルを落としながら歩いてるって?」
プルタブを寝かせ、缶を口に運んだ。
「いや、そりゃ短絡だってわかってるけどさ、なんか、そんな気がしてゾクッとしたんだよね」
田山は健治の小学校からの友人で、普段からバイク以外にあまり興味が無く、ソロツーリングと称してフラフラとアチラコチラヘバイクを転がしては土産を持って健治に会いに来るのが常になっている。そもそも健治もフラフラとソロキャンプへ出てあまり帰らないものだから、現地集合現地解散で健治のキャンプ先に訪れて雑談と現況報告がてら隣にテントを張って楽しく過ごしてまたソロツーリングへ、等していたのだが、あまりに不在の期間が長すぎて親から叱られたのを期に、親への顔出しと生存報告も兼ねて、帰る日を合わせていた。健治が暫く家に定住すると言い出した時には「とうとう嫁でも貰ったか、裏切り者め」と祝福の言葉を送ったが、嫁ではなく甥っ子だと聞いて開いた口が塞がらなかった。昔から面倒見の良い奴ではあったが、ソロを共有できる数少ない理解者だった筈だった。少なくとも、甥っ子が可愛いだけでソロキャンプを辞めるようには田山には思えない。何か、言い淀むような理由があるのだろうと、深くは聞かなかった。
「それで?」
「そんだけ。何かゾッとしたから今回はキャンプ無し」
田山がソファーに寝っ転がる。
田山のキャンプは、一人用のテントと寝袋、そして小さなクッカーだけだ。コンビニでカップ麺と紙コップ入りの1杯分のインスタントコーヒーを二つ、朝食用のパンと水を買い、クッカーで湯を沸かす。夕飯はカップ麺とコーヒー。朝食はパンとコーヒーだ。健治のキャンプよりかなり手軽なのは、車とバイクの積載量の差と、本人の気持ちの差だろう。田山はキャンプがしたいのではなく、バイクで走りたいだけで、バイクで走った先で、景色と一体化したバイクが見たいのだ。星空とバイク。朝焼けとバイク。それが田山の心の琴線に触れる。どうしようもなく感動を覚える。大雪の日にツーリングに行くと言った日には、みんなに止められたが、本人は楽しかったらしく、田山のSNSには雪景色とバイクと朝焼けだの夕焼けだの星空だのがアップされていた。
「そか」
短く返すと、健治は炙ったワラスボをマヨネーズへ突っ込む。
田山は動物的な感が鋭い。一緒に行ったキャンプでも「何か嫌」の一言で河岸を変えたら、そこで熊が出てたとかもあった。恐らく、何かを感知しているのだろうが、本人は説明が難しいらしく、一頻り唸って説明を諦める。
「ま、そんなわけで、なんかよくわからんけど、気を付けろよ」
二時間ほど喋ると田山は気が済んだのか、健冶の家を後にした。来た時とは逆方向へと。
土砂降りの雨の中、拓海は畦道に立っていた。
夢だ。と思った。雨に濡れる不快感も、雨に熱を奪われる寒さも、何も感じなかった。
足元から真っ直ぐに畦道は地平線まで続き、両脇の田んぼはどこまでも田んぼだった。畦道と空と田んぼの境界は強く地面へと叩きつける雨で煙る。
と、畦道のずうっと遠くに、ポツンと黒い点が見えた。
子供だ、と思った時には米粒大程に見えた。
女の子だ、と気付いた時には500メートル程までに近付いていた。
香弥ちゃんだ、と確信した時には直ぐ目の前迄迫っていた。
心臓が飛び跳ねる。
見たくない。見たくないのに、首が下を向く。
香弥が俯けていた顔を上げた。
香弥の顔は、ヒキガエルの、それだった。
ニタリ、と香弥のカエルの顔が歪む。
「……たっくん……、見ぃつけた……」
瞬間、拓海は無茶苦茶に叫んでいた。
「どうした!?」
布団を剥ぎ取られ、拓海は目を覚ました。
掛け布団を健冶に剥ぎ取られ、両手両足を宙に上げた状態から、力が抜けて敷布団へと落下する。じわり、と汗をかいていた。
「布団に絡まってたから取ったけど、どうした? 怖い夢でも見たか?」
丸きり子供扱いだが、事実、怖い夢を見て叫んで起きたのだから、甘んじて受け入れる。
窓の外からはバタバタと盛大に雨が建物の屋根や壁、地面を叩く音が聞こえてくる。
「こんだけ雨が続けば、夢見も悪くなるか」
昨日、カエル人間の話を聞いたからだ。と拓海は思った。何でもない。ただの夢だ。昨日カエル人間の話を聞いたから、ただそれだけだ。香弥の声はもう聞こえない。梅雨になり増え始めた田んぼのカエルも、雨が上がれば山から現れるカラスも、もう香弥の声で拓海を呼んだりしない。
拓海は起き上がると、シャワーを浴びてから祖父母の家へと向かった。
一足先に祖父が食卓へついており、健冶と祖母が朝御飯を運んでいた。
「ごめん、手伝うよ」
「いいのよー。たくちゃんはいつもしてくれてるんだから。たまにはオジサンも使わないと錆びついちゃうわ」
祖母が言うと、健冶が渋い顔でそちらを見る。
「錆び付かねーわ」
「錆びてねーなら嫁の一人でも連れて来い」
祖父の言葉に、健冶は更に渋い顔を見せた。
「無いもんは連れて来れねーわ」
祖母と祖父とに言い返すと、健冶が分厚い肉の塊を拓海の前に置いた。
「ほれ、座れ。今朝はステーキだ」
「アホの子よねぇ。まぁ、良いけど」
「年寄りが朝からこんな重いもん食えるか」
祖母と祖父が文句を言いながら肉にレモンを絞る。良く見れば、祖父と祖母の肉は細かく刻んであった。
健冶と拓海の分は塊肉である。
「けんちゃん……、流石に朝からステーキは……」
ガーリックと醤油の良い匂いが立ち上がり、拓海の腹が盛大に音を立てた。何か、ホッとしたような、安心感に笑顔が溢れる。
「食べるけどさ」
笑いながら肉をナイフで一口大に切り、口へと運んだ。噛めば、じゅわりと口の中に肉汁がしみだす。白米を口に放り込む。
思ったよりも胃が元気だったらしく、塊肉をペロリと平らげ、白米はおかわりまでした。
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