第4話 いただきます

「俺ね、母さんと父さんが俺の事で苦しんでるの知ってた。だけど、俺は俺が一番苦しいんだと思ってたから、周りの人間が助けてくれない事に勝手に絶望してた」

 ガタゴトと相変わらず騒音を立てる叔父の車で、拓海は語った。

 家族で話し合った結果、拓海は母方の祖父母の家に行く事となった。父母が一緒に来る事は、拓海自身が断った。両親が嫌になったとかではない。両親の負担を軽くしてやりたいと、拓海自身が思ったからだった。

「けんちゃんには感謝してる。けんちゃんが居なかったら、多分、死んでた」

 拓海の言葉に健治は、最初のキャンプの前日、久し振りに会った姉のやけに老けた表情を思い出す。

「おう、感謝しとけ。そしてこれからの事も感謝しろよ、只飯食いはさせねぇぞ」

 うちのババアは厳しいからなと笑う健治のスマホが鳴った。液晶画面には[母]の文字が出ている。

「げっ。ほんとタイミング良いんだか悪いんだか」

 言いながら、健治はスマホを拓海に放る。代わりに出ろと言うことだろう。

「もしもし、お婆ちゃん? 拓海です」

 他人の電話に出るのは、心地が悪いなと思いながら、応答する。

「あら、たくちゃん? 何時頃にこっちに着きそうかしら?」

 ガタゴトと車の音がうるさいからだろう。祖母は大きな声を出した。

「え、と。多分、夕方から夜になると思います」

 出発時に、途中で休憩を挟みながら片道十時間と言っていた気がするが、交通状況次第だと言っていた気がする。

「夕食はどうするのか、隣に居るオジさんに聞いてくれるかしら?」

「オジ……けんちゃん、夕食どうする? て」

 つられて「オジさん」と言い掛けて、言い直す。

「食ってから行くっつっといて」

「はいはい、聞こえたわ、もー。安全運転でね。たくちゃん、後でね」

 遠慮の無い会話に、笑ってしまう。サービスエリアへ車を入れ、駐車すると、健治の腹が盛大に鳴った。

「カレー食おう、カレー。その前にトイレ、トイレ」

 言いながら車を降りる健治の言葉に被るように、カラスがカァと鳴いた。

 思わず、カラスを見つめる。

「けんちゃん、カラスが……」

「ん? あー、カラスはどこにでもいるからなぁ」

「違う。カラスが、カァって……」

「そりゃ……。ああ、そりゃ、良かったな。ちょい、先にトイレな」

 トイレへ向かう健治を見送り、売店の方、カァと鳴いたカラスの居る方へと、近付く。

 何が、違うのだろう?

 何が?

 ぼうと眺めていると、トイレから出て来た健治が、拓海の背を叩く。

「まずは、カレーだ。そんで、落ち着いてから話そう」

 サービスエリアのカレーは美味しかった。地名を冠した豚肉のソーセージが入っており、これがまた美味しかった。

 その後、売店で祖父母への土産と自分達の食べたい物と道中の飲み物を買い、トイレも済ますと車へと戻った。

 やはり、カラスはカァと鳴いている。

「やっぱり、カァって聞こえる」

 健治が車のエンジンをかけると、拓海は振動で舌を噛みそうになった。

「そりゃ、拓海のお父さんの田舎からはちょーっと遠いからかも知れないな」

 良い事だと言って車を出発させる。途中のサービスエリアで名物とあれば買って食べ、少し疲れたと言っては休憩を取り、祖父母宅へ到着したのは夜の二十二時を回っていた。

 祖父母の家は、一見、古くても普通の田舎の一軒家に見えた。が、敷地の奥に車や何かの機具やらを収納する小屋がいくつもあって驚かされた。出迎えてくれた祖父母は、六十を回った位だと聞いていたが、もっと年が行っているように見えた。色黒の祖父の二の腕の太さに驚く。先日仕留めてきた猪の血抜きをしているから、納屋へは近付くなと言われるけれど、どの納屋かわからないと素直に言うと、笑いながら教えてくれた。そして、隣の家の表札に叔父の名を見つけ、再度驚く。隣が空き家になった時についでに購入したのだと聞いて、開いた口が塞がらなかった。

「この辺は土地も安いし、築五十年は経ってるし、安くしてもらってなぁ」

 ガハハと笑う祖父と叔父は、よく似ている。

「はいはい、良いから早くお風呂入んなさい。客間に布団も敷いてあるから、お風呂入ったらもう今日は寝なさい」

 母によく似た祖母が祖父と叔父と拓海を纏めて家の中へと追い立てた。

 祖父と叔父は、猟師だった。猟銃を持ち、罠を作り、動物を狩る。獲った獲物は血抜きをして切り分け、肉にして卸す。倉庫の一つが丸々冷凍庫だったのには驚いた。

「いただきますって言うのはな、命を頂くって事だ。無駄にしねぇ、食って己の命にするって事だ」

 似たような事を今までも聞いた事があるのに、祖父の言葉は、とても重かった。

「食べたら、その命を自分の命にできるの?」

「ああ。人も動物もそうやって命を繋いできたんだ」

「食べられて……命を……」

 拓海が、言い淀んで口ごもる。上手く説明できない。拓海は、香弥の事を思い出していた。香弥が、カエルに食べられたのではないか。だから、カエルが香弥になったのではないか。カラスがカエルを食べたから、カラスが香弥になったのではないか。だが、それではアベコベだ。

「自然の摂理ってヤツだな」

 健治が、わかったようなわからないような事を言った。


 中学の入学式、祖父母と叔父、それに両親が来ていた。写真を撮るのだとはしゃぐ父を、母が呆れた様子で眺めている。新入生席の拓海へ手を振る父を、祖父母も叔父も微笑ましく見守っていた。新入生は全部で五人だった。在校生席は十五名くらい座っているだろうか。司会の教師の掛け声で二年も三年もそこに居る事が知れた。

「在校生代表、ヒキイシカヤさん」

 心臓が凍った気がした。香弥の名前が、読み上げられた。香弥の名前、だった。

「はい」

 だが、返事をした女生徒は香弥では無かった。ほうと息をつく。ただの、同姓同名だろうか。そのまま通り一辺の在校生挨拶を終える。

「なぁ、なぁ、おまえさ」

 入学式が終え、一年生の教室に戻ると、一人の男子が声を掛けてきた。

「ユキネェの事知ってんの?」

 背の小さな、短髪の、まだ小学生にしか見えない男子は、カナトと名乗った。

「え? ユキネェて、誰?」

「セートカイチョーだよ。ザイコーセーアイサツしたじゃん」

 生徒会長は山崎雪乃と言う名だと、奏翔は続ける。

「すっごい顔してたから、知り合いかと思った」

「あ、ううん。一瞬、知ってる人かと思っただけ」

「なぁ、お前さ、シキヤマの爺ちゃんトコのコだろ?」

 確かに、祖父母と叔父の姓は敷山だ。

「親がリコンして子連れで出戻ったんだって聞いてたけど、お前の父ちゃん来てたよな」

 あっけらかんと話す奏翔に、呆気に取られていると、鞄が勢い良く奏翔の頭に命中した。

「あんたねぇ! あんた、デリカシーってものが無いのよ!」

 髪を高い位置で二つに括った少女が、奏翔の頭を掴み、拓海に向かって下げさせた。

「うちのバカがごめんなさい!」

「あ、うん、大丈夫……」

「ってーなぁ! バカヒナ!」

 奏翔の双子の妹だと云う雛子は、再び奏翔の頭を叩く。

「他人の事情はそれぞれ! 復唱!」

「ひ、ひとのジジョーは、それぞれ……」

 妹の方が余程しっかりとしている。

 新入生は、拓海、奏翔、雛子、それに隼と蘭だった。

 隼は背が高くボーイッシュな女子で、蘭はポッチャリとしたおっとりとした女子だった。この二人はイトコ同士だという。

 男子は、拓海と奏翔の二人だけだった。

 拓海にとって良かったのは、兎に角、この地域の人は皆、声が大きく、また、会話の中で「聞いてなかった。もう一回言って」と言うやりとりを普通にしていたので、難聴の煩わしさが薄れる気がした。

 教師から教科書が配布され、諸々の連絡事項を書かれた用紙を配られると、下校となった。廊下では保護者達が皆、微笑んで立っていた。

 その日は、久し振りに両親と同じ部屋に寝た。新しいクラスメイトの話や、祖父母に聞いた話なんかをして過ごした。

 翌朝、名残惜しむ両親を見送ってから、自転車へと跨がる。中学まで、自転車で農道を走って四十五分。農家の子供も居るから、田植え休みとか都会には無い休みがとれると言っていたのを思い出しながら、広大な田畑を横目で眺める。カラス避けの目玉バルーンがあちこちにあるのが少し笑えた。


 五月、朝から奏翔が珍しく複雑そうな表情をしていた。

「うちの畑の目玉バルーンが、カラスのヤツにやられてさぁ」

 もう何個も割られているのだと言う。

「あ、うちのオジさんとこでもカラス避け壊されたって言ってた」

 隼が言うと、蘭が頷く。

「うちもボチボチやられてる」

「なんか、増えたよね、カラス」

 雛子の言葉に、何故か、どきりとした。

「ねぇ、そう思わない?」

「……たっくん……」

 ぞわり、と背筋が凍る。

「カラス増えると作物もだけど糞害もねー」

「……たっくん……」

 心臓を、掴まれた様な気がした。

「やだ、カラスだ」

「こっち見て鳴いてるしもー。バカにして」

「……たっくん……」

 香弥の、声、だった。

「……たっくん……」

 ここに来てから、一度も、カラスは香弥では無かった。

「……たっくん……」

 香弥の声で拓海を呼ぶ事は、一度も無かったのに。一羽、また一羽と窓の外のカラスは増え続ける。そして、香弥の声で、口々に、拓海を呼んだ。

 担任が教室に駆け込んで来てカーテンを引く。シキヤマさんを呼ぶから、全員大人しく教室に居るようにと注意された。

 ややあって現れたのは拓海の祖父と叔父だった。手には猟銃を持っている。空に向かって数発撃つと、ギャアギャアと喚き、カラス達が飛び上がった。だが、去ろうとしない。と、祖父が一羽のカラスを撃ち落とす。と、カラス達は一斉に山へと逃げていった。追い撃ちに叔父が一羽撃ち落とし、更に祖父がもう一羽、撃ち落とした。

「カラスは頭が良いので、学校にはもう来ないでしょう」

 安心させるようにそう言う教師の声を聞きながら、拓海は窓の外を見ていた。

 飛び去った中でも一際大きなカラス。あれは、あのカラスではなかったか? いや、そうだ。あのカラスは香弥だ。と妙な確信があった。

 家に帰ると、祖母が黒い鳥の羽をごみ袋に入れている所だった。

「それ、カラス?」

「そうよ。お爺ちゃんとオジさんが撃ったからね。唐揚げにしましょうね」

「え? 食べるの? カラスだよね?」

「食べますよ。無駄に殺さない。出来る限り命を頂くの」

「え、美味しいの?」

「美味しくするのはお婆ちゃんの役目ね。結構美味しいわよ、お婆ちゃんのカラスの唐揚げ」

 既に叔父の手に寄って骨と部位に分解された肉は、カラスとは思えなかった。それを祖母が一口大に切り分け、生姜と酒を入れたビニール袋に入れる。

「はい、これ。良く揉んでね」

 渡されたビニール袋を反射的に受け取ると、まじまじと眺めた。

「揉む、の?」

「そう。揉むの。もみもみって」

 小さい子に言う様に祖母が笑って手をもきゅもきゅ動かす。

 おずおずと揉むが、肉は喋らない。肉は、香弥の声では喋らなかった。暫く揉んでいると、祖母に言われて肉のビニール袋を渡す。

オレンジ色の粉をビニール袋へ入れ、再度揉むように言われて肉を揉みしだく。

そうして少しすると、コロモが肉に満遍なく付いていた。それを温めていた油に一つ一つ落とす。唐揚げの良い匂いが充満していく。

 食卓に並んだカラスの唐揚げは、カラスの面影は一切無かった。鳥の唐揚げよりサッパリとしていて弾力があり、噛めば噛むほど旨味が出た。

「ふふ。美味しいでしょう? 誰でも美味しく作れる粉を使ってるからね」

 祖母が、自慢げに唐揚げ粉の袋を見せる。勝手に、田舎の人や祖父母世代はそう言うのを毛嫌いしているのではないかと思っていた。そう言えば、母は使っていたが、父方の祖母は使っていなかった気がする。

 もう随分と長い間、思い出したくなくて避けていた、未就学児、父方の祖父母の家に住んでいた頃を思い出した。ほんの短い間だったけれど、それでも、祖父母もイトコ達も優しかったし、あの時までは確かに楽しかったのだ。香弥だって、意地悪だったが一緒に遊んでくれていたのだ。

「あれ、どうしたの? 嫌だった?」

 ほろり、と涙がこぼれ、祖母が慌てて顔を拭ってくれる。

「熱かったかしら? 大丈夫?」

「だいじょぶ、です、なんか、わか、んないけど」

 カラスの唐揚げを食べながら涙の止まらない拓海に、祖父母と叔父がオロオロとする様が、何故だか可笑しくて。「大丈夫だよ」と、言ったつもりだった。

『……たっくん……』

 と、香弥の声が、聞こえた。

 それは、拓海の口から、聞こえてきた。

「あの……」

『……たっくん……』

「なん……」

『……たっくん……』

 口を開く度、声を出す度、香弥の声が、耳へと届く。

「どうした?」

「香弥ちゃんの……声が……」

『……たっくん……』『……たっくん……』

 口を押さえる。

 カラスだ。カラスを食べたからだ。香弥の声で喋るカエルを食べたカラスのように、そのカラスを食べたからだ。

 吐き出さなければ。

 トイレに駆け込み、胃の中のモノを吐く。何度も何度も吐いて、もう胃液しか出なくなっても、吐いた。トイレがノックされ、吐きやすくなると牛乳を渡されて飲み、また吐いた。喉と鼻の奥がツンと痛む。

 そうして漸く落ち着いた頃、トイレの前で祖父母と叔父が心配そうにしているのに気付く。

「……あの……」

 声を出すのは、怖かった。

『……たっくん……』

 香弥の声は、まだ、聞こえた。

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