第57話

四十五


 天井裏の床に伏せたまま、何分が過ぎただろうか。緊張のあまり時間感覚も失っている。下から聞こえる音は、椅子を蹴り飛ばす音だろうか。ロッカーを開けて、閉めて、殴りつける音。恐らく電子レンジが落下して、段ボールが散乱している。こっちを捜し回っているのか、物に当たり散らしているのか。やがて再びカーテンの音が聞こえた。


「……出て行ったんじゃない?」


「……本当に?」


 そのうちどこかで物の壊れる音が聞こえた。距離は明らかに遠ざかっている。キャンプ用品が売られている建物の奥へ向かったか。2人はようやく手すりから手を離すと、音を立てないように深く溜息ためいきをついた。


「間一髪だったねぇ……こんな隠し部屋があるなんて、友美はよく気づいたね」


「他と比べて天井が低かったから、もしかしてと思ったの。でも危ない賭けだった。タラップが付いているとも限らないし、中がこんなに広いことも……」


 友美は懐中電灯のスイッチを入れ、光が漏れることを恐れて水平よりやや上に向けた。


 複数の人間の足が明かりに照らされて目に飛び込んできた


「だ、誰?」


 いくつもの赤黒い足が並んでいる。想像もしていなかった存在に体が震えて総毛そうけった。


「友美、動いちゃ駄目。下に響くよ」


「で、でも……」


「人間じゃない。これ、人形だよ」


「え?」


 確かに並ぶ足は微動だにせず、慌てるこっちを前にしても身じろぎ一つしなかった。2人は慎重に腰を上げる。上はまだまだ余裕があり、天井裏というよりは2階部屋と呼べるほどの広さがあった。


「に、人形? これが……?」


 棒立ちの人々は確かに人形らしい。暗がりの中、人間と体型が同じ物体は見分けが付かない。キャンプ場にある管理小屋の天井裏にそんな物があるとも思わないだろう。しかし奇妙なのはそれだけではなかった。


 人形の体には、赤黒い肉が全面に巻き付いていた。


 友美がすっと息をむと同時に、強い刺激臭が鼻を突いた。なんだこれは? 目の前の光景に理解が追いつかない。人形の足先から頭の天辺てっぺんにわたって、牛や豚や鶏の肉片らしき物が何重にも巻かれている。すでにいたんで溶け始めたそれが濃い腐敗臭を放っていた。


 どこかで見た覚えのある、人体の皮を剥がした筋肉標本に似ている。しかしそれよりも粗雑そざつで、構造にも従っておらず、ただ不快さだけが際立きわだっていた。その近くには木を組み合わせただけの人体模型もあり、恐らくそれが肉を貼り付ける前段階の物だと思われる。さらに薄黄色い布を胴体や手足に沿っておおった状態もあり、そっちは肉人形にくにんぎょうの後段階だと分かった。


 つまりこの人形は、木製の骨格に肉を巻き付けて厚みを出し、布地の皮膚を貼り付けるものらしい。しかし誰が、なんのためにこんな不気味な物を作っているのか。あのオーナーの趣味なら人格が疑われる。いや、趣味ではなく目的があるとすれば……


「……除霊?」


「何これ、気持ち悪い……カカシ?」


「カカシ?」


 恭子のつぶやきで気づく。カカシといえばキャンプ場の至るところに立っている。奥のほうにはアウトドアファッションを身に着けて帽子を被った人形も立っていた。あのやけに生々しいカカシはこうやって作られていたのか。霧の中でぽつりとたたずむ人影を思い出し寒気が走った。


「でも、どうしてこんな物を……」


「待って友美。そこに何かいる」


 恭子が小声で制する。見ると、人形の足下で膝を抱えてうずくまる人の姿があった。人形ではなく即座に人間と分かったのは、その服装に見覚えがあったからだ。黒の半袖シャツにグリーンのカーゴパンツ、赤いスニーカー。


「萩野さん?」


 マッシュルームカットの髪型に中性的な顔つきをした19歳の男。南の森で走り出したあと行方が分からなくなっていた。テントにも戻っていなかったが、まさかこんなところに潜んでいると友美は思ってもいなかった。


「この人も知り合いなの? ……大丈夫?」


 恭子は一歩引いて様子をうかがっていた。これまで出会った人たちは揃って心や体に異常を起こしていた。もはや恭子も自ら声をかけようとはしない。誰一人として信用できなくなっていた。


 友美は床のきしみを極力抑えて静かに近づく。萩野と初めて会った時、彼は私たちに強い不信感と警戒心を示していた。記憶を失っていることも自覚しており、他の者たちに近づくのは危ないと訴えていた。さらに南の森へ足を踏み入れることも恐れていた。


 今、友美もようやくその意味を理解した。北竹一家や瀧や柚木は死者であり、磯村は錯乱して襲いかかってきたのだ。南の森は自殺の名所で地縛霊を生み出す場所だった。萩野の言う通り、彼らに近づいてはいけなかった。あの場所へ行ってはいけなかった。彼は無意識のうちに忌避きひねんを抱いていたのだ。しかし、なぜ彼だけがそれを知っていたのか。


「萩野さん……」


 静かに呼びかけると丸まった背中がわずかに動く。元々痩せて小柄な人だったが、以前にも増して小さく弱々しげに見えた。友美は彼の正面に回り込むと、慎重な手つきで肩を叩く。南の森では彼に手を掴まれた時、反射的に振り解いてしまった。今は他人に触れられない悪癖あくへきとらわれている場合ではない。彼は一度大きく肩を震わせると床に伏せていた顔を恐る恐る持ち上げた。


 萩野は目を真っ赤に充血させて、白い頬を涙で濡らしていた。


四十六


「あ、だ、誰だ……」


「また忘れてしまった? 萩野さん」


「そ、そうだ。萩野悠だ」


 萩野はそう言うと泣き笑うような表情を見せた。


「助けてくれ。助けに来てくれたんだろ? 俺の名前を知っているってことは、やっぱり捜索願そうさくねがいが出ていたんだな。そう、俺が萩野悠だ。地縛霊じゃない。生きている人間だ」


「地縛霊じゃない?」


 彼も地縛霊の存在に気づいていたのか。


「俺、恋人と別れて、家に帰りたくなくて、自殺するつもりでここの森へ向かったんだ。でも、どうせ死ぬなら今日でも明日あしたでも一緒だと思ってこのキャンプ場で一泊することにした。いや、今はなんとなく分かる。死にたい気持ちがあったからここに誘われたんだろう」

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