第3話 ここではないどこかへ
その自転車のピンク色は、目に痛い。
とても濃い色で、まるで自己主張の塊のようだった。
「そいつは下品なほど派手だねぇ、まあローザにはピッタリなんじゃないかい」
階下の軒先に停められたピンク色の自転車を、娼館の二階、じめじめとした暗い角部屋の出窓から見下ろして、リオは笑った。
その声を、鏡面の前で水色のドレスに身を包み、ぷっくりとした唇に真っ赤な紅を注しながら聞いていたローザは、薄く笑うだけで何も言わなかった。
(文句を言えば紅がはみ出てしまうから。…なんてね、)
そんな言い訳さえも口にはしない。
「あんな自転車もらったところで、アタシらはどこにも行けやしないのにねぇ、無粋な客だね、センスがないよ。」
止めどなく悪態吐くリオのほうれい線は、いつの間にか深く際立って見えるようになっていた。彼女の首筋も細く痩せてしわが目立つ。
その事実が、今、リオを追い込み、卑屈にさせ、笑顔を奪っている。
「………」
ローザは深い嘆息を漏らした。
「あたしは嬉しかったですよ。あのピンクも、あたしは嫌いじゃない。」
だからこそ、ローザは真っ赤な唇を大きく開けて、リオを真っ直ぐに見つめたまま快活に笑った。
* * *
宿場町を抜けた先をしばらく走ると、白いような灰色のような砂漠地が広がる。
それは宿場町にたどり着くまでにも広がっており、つまりはここは、周辺一帯を白いような灰色のような砂漠地に囲まれていた。
道しるべがなければ、街にも海にも行けはしない。
まして娼館で生まれ育ったローザには、この宿場町を出る手段さえもなかった。
そんな話を、枕を交わした客に話したことさえ忘れていた。
だがある日、ローザ宛に一台のピンク色の自転車が届いた。
しかしローザには、送り主の宛名に見覚えがなかった。
(…挑まれてるのかしら。それとも馬鹿にされているのかしら。)
「まあ、どっちだって構うことはないねっ もらってやろう!」
その自転車を前に、ローザは腰に手を当てたまま、天を仰いで声高に笑った。
「じゃあ、試運転してくるわ!」
自転車に乗ったことのないローザは、何度も転びながらゆるゆると宿場町を駆ける。駆けたところで、一つも風が顔を撫でることもないし、色あせた水色のドレスもなびかない。
それでもローザはよろよろと、地面に赤いハイヒールをカツカツ鳴らしながらも自転車のペダルをこぎ続けた。
そうしてローザが自転車の試運転を始めて十日目の夕暮れ。
店がいくつか軒を並べる一角をよたよたと拙いペダル捌きで走っていると、通りの向かい、いつもパンの配達に来るゾンネの店の前を、ボロボロの白い自転車を押して歩く薄汚い男を見かけて思わず足を止めた。
(うわ、汚…)
思わずローザの真っ赤な唇が歪に歪む。
薄汚れた男は、おそらく風呂に何日も入っていないのだろう。
白髪交じりの髪は乱れて、シャツも黄ばみが目立っていた。
(こりゃ、…ゾンネさんが放っておかないな…)
ローザはこっそりと苦笑を漏らす。
「いらっしゃい。お兄さん、パンでもいかが?」
案の定、薄汚い男が店の前を通り過ぎようとした瞬間を見計らったように、よく通る声が街に響いた。ゾンネの声だ。
中年で恰幅の良いゾンネの声は、街のどこにいても聞こえてくるようだと、宿場町ではちょっとした名物になっている。
自らも貧しい掘っ立て小屋での商売であるはずなのに、ゾンネは利益度外視の売り方をすると評判だった。
先の戦争で家屋を焼かれた者が多いこの地区では、誰もが助け合って生きていた。だが、とりわけゾンネは、商売とは別に、自身に国から支給されている分の小麦さえもすべてパンに成型して安価で販売していたのだ。
店頭販売だけに留まらず、ゾンネはパンの配達までも請け負っていた。外へと買い出しに出られない者にとっては、ありがたいサービスだった。
それはローザのいる娼館にも等しく配達され、客の取れない下層の娼婦にとってはゾンネのパンはもはや命綱ともなっていた。
「お腹、空いてるんだろう?」
ゾンネの声に、薄汚い男が戸惑っているのは、通りを挟んだ向かい側にいるローザにも伝わった。
「………」
ローザの胸は熱くなっていた。
ゾンネはおそらく薄汚い男にも、ローザたち娼婦と同じように、一時とはいえ空腹を満たせるだけのパンを施すのだろう。
「………っ」
ひどい空腹は耐え難い。
生きるためには食べなくてはいけない。
そんな単純な方程式さえ自分たちは容易には許されない。
(…くそ、)
ローザは下唇を噛みしめた。
あの薄汚い男と自分は、何も変わらない。
「ありがとうね、またおいで。」
薄汚い男はパンの袋を受け取ると、深々と頭を下げた。
その男が白い自転車を押して過ぎ去る様を見送ったのち、ローザはピンク色の自転車を押してゾンネの店に向かった。
「ゾンネさん! パンをくださいな!」
一際大きな声をかけると、ゾンネは太陽のようにカラカラと笑った。
* * *
ローザはパンを二つ買った。
一つは自分の夜食用に、一つは妹のように可愛がっているリーリエのために。
その温かな二つのパンは、茶色い紙袋に詰められて、自転車の前かごに入れてある。
ローザは鼻歌交じりでよろよろと、気持ちよくピンク色の自転車をこいでいた。
「…え?」
そんなローザの真横を、黒い風が吹き抜ける。
ローザは思わず足を止めた。
「え? なに?」
「見つけたぞ! グラウ!」
途端に響いた男たちの怒号。
ローザの肩はびくりと震えた。
男の怒鳴り声は、たとえ自身に向けられていなくとも足が竦む。
しかもローザは、幼い頃より娼館で育ち、男どもの傲慢の中で暮らしてきた。
ローザは、力を鼓舞するような男の大声に対して、渦巻くような強い嫌悪感を胸に秘めて生きてきたのだ。
「………ッ」
ほとんど無意識だった。
水色のドレスを捲し上げ、サドルから尻を上げると、
「うおおおおおおお!!」
ローザは勢いよくペダルをこぎだした。
その勢いは獣のように大地に風を巻き起こし、やがて自らを追い越していった黒い三頭の馬に向かって突っ込んでいった。
「なんだなんだ!」
「どうした!」
馬は驚き嘶いて、三頭の馬の足はダンスでも踊るかのように覚束なくなった。
ピンク色の自転車は、馬の足の間をすり抜けるように地面を滑っていく。
そして水色のドレスを着ていたローザは馬の足元へと転がり落ちた。
「うわ!」
「なんだこのアマ!」
「くそ! グラウが逃げるぞ! 追え!!」
馬たちがローザの頭の近くで足踏みをする。
馬の足元で頭を抱えたローザは傷だらけの顔を上げた。
その視線の先には、白い自転車が転がっているのが見えた。
「逃げて、…逃げて!」
地面に這いつくばったままのローザは、薄汚れた男の小さくなっていく背中に向かって、力の限り声の限り叫んだ。
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