Butterfry
松本貴由
Butterfry
Opening
旅路 1
昼間というのに出窓は紺紫色のカーテンが閉め切られていた。安いパイプベッドは男が軽い咳をしただけでも軋んだ。壁の向こうから女の嬌声が聞こえた。
「この街に越してきたのは私の意向なんだよ」
洗面所から戻ってきた若者に、男は首だけを動かして乾いた笑みを向けた。
「水と花の都。終の住処にはとてもいい場所だと思ってね」
若者は歯痒い笑みを浮かべ、首を横に振った。背の低いサイドテーブルの、木製の写真立ての隣に、持っていた花瓶をそっと置く。
黴と染みのついた天井、所々塗装の剥げた壁。サイドテーブルのガラス扉の中にはぼろぼろになった絵本が数冊仕舞われている。
写真立ての隣、乳白色の細い花瓶に立つ控えめな単花のブーケ。中心に盛り上がった筒状花の爆ぜるような黄色、それをぐるり囲む花弁たちの外側に飛び立たんとする白は、弱々しいテーブルランプの光を吸収してけなげに輝いていた。
天井は階上の忙しない足音に揺れるようで、隣の部屋からはベッドの軋む音と湿度のある息遣いが絶え間なく呼応している。
若者は短く息を吐き、そして大仰に吸い込んで、宙に視線を固定した。
「がっかりしたでしょう。この街は10年でずいぶん変わった。栄えているのは中央だけ、ここじゃあ毎日、娼婦が便器に子を流し、中毒者が幻覚と殴り合い、浮浪者が鼠に轢かれて死んでいる。美しき水と花は張りぼての栄華を繕う
「だがそのほうが我々にとっては生きやすくなる。皮肉なものだね」
男は唇の端をゆっくりと持ち上げて言った。わずかに覗いた犬歯は鋭く尖っていた。
綿のない枕には抜け落ちた黒い毛髪が散らばっている。骨ばかりが浮き、肉のそげ落ちた頬、眼窩に差すのは影ばかり。サイドテーブルを見遣る男の眼は白濁のなかにある光をみていた。
「だからといってここにはいられない。彼女にもう狩りはさせません」
若者が強く言い切ったのと、壁の向こうでひときわ大きな声が上がったのは同時だった。
黒黴で汚れたカーテンの裾が震えて、やがて気まぐれな静寂が戻ってきた。
唇を噛んだままの若い横顔を見る男の笑いは咳よりも部屋の空気よりも乾いていた。
「蔑んでいるだろうね、あの子にあんなやりかたを教えた私を」
若者は下げた拳にぐっと力をいれ、そして五本の指をゆっくりと伸ばした。
「生きるためです。娘を残して発つ未来がわかっているなら、ひとりで生き延びるために必要な強かさを教える、それは父親のつとめだと理解します」
言いながらも項垂れる若者の背中を、男の目は憧憬さえ宿して眺めた。
そして肩を震わせ、スプリングのきかないマットレスに背をおしつける。
「あの子が私を父と思ってくれているのなら、なおさら、私は失格だ」
若者の逃げた視線はサイドテーブルの上に行き着いていた。立てられたセピア色の写真を、花がすでに見つめていた。
写真には亀裂があり、一度やぶられたものを丹念に貼り直してあった。そこに生きている男は若く、幾重もの
「あの子は強く、賢く、美しく成長した。私の手を離れ、これからきみと歩んでいくのだ。それなのに私は、この死に損ないは、旅立つこともできず、思い出にしがみついている。かりそめの親と子の幸せのなかに……」
若者は男の声が震えるごとに眦を下げ、なんども首を横に振った。
写真立てを手にとってベッド脇の椅子に腰掛ける。真摯なまなざしとともに掲げられた写真を男は眺めた。
「シド、この笑顔をかりそめだなんて、どうか言わないで」
若者の短く切った爪の先が、貼り直された写真の亀裂を慈しむようになぞる。
「彼女にききました。たった一枚しかないのに、大喧嘩のときに勢いで破いてしまったのをひどく後悔して、ゴミ箱を必死で漁ったと」
男ははじめて息を漏らして笑った。若者もつられて笑い、写真を手渡す。男は起き上がることができず、痩せた腕だけを伸ばして受け取った。
「思い出をきいても?」
若者の問いに男は目を細める。
静寂を吸った生花は匂いたち、その花粉がセピアにじんわりと溶けていくようだった。
「初めての旅行、初めてのカーニバルだった。手を繋いで広場の屋台をみて回った。異国の木目込み人形、カラフルなタペストリー、移動遊戯にパレード。はしゃぐ子どもに酒を交わす大人、女は踊り男は歌った。人間たちの生活力、生命力に満ちていた。あの子はジャンクフードの屋台で足を止めた。私は買ってやらなかった。かわりに花輪を買った。あの子が無邪気に喜んだから、私は同じものをもうふたつも買った。大道芸をみて記念撮影の行列に並んだ。子どもたちはみなピエロと一緒に写真を撮りたがっていた。順番が来たとき、両手を広げて歓迎するピエロにあの子は言った。ピエロさん、私とパパの写真を撮って、って。カメラマンを務めたピエロは地団駄をふんで嫉妬を表現した。あの子は楽しそうに笑った」
語り始めこそ厳かだった男の口調は次第に上擦り、青白い唇は潤い、頬骨が高くなる。腕を持ち上げていられずやがて写真を伏せるように胸に抱いた。
若者は心地の良い子守唄に身を任せるように、なんども、なんども相槌を打っていた。
言い終わって男は目元をそっと拭った。爪が伸び垢で汚れた指先が、しっかりと木製フレームの端を抱いているのを、若者の黒い瞳は真摯に映していた。
「美しい思い出だ」
「私は情けない男だよ」
「シド、いいえ。彼女にとっても大切な思い出です」
若者だけが視線を男に移し、ことさら柔らかく破顔した。その白い歯に並ぶ犬歯もまた鋭く尖っている。
「根に持っていましたよ、あのときおねだりしたのにパパは買ってくれなかったんだって。おかげで僕は初デートで
若者の言葉に男は首を傾けた。
「あの屋台はまだあるのかい」
「ええ。すぐそばにアップルパイの店もできましたが、ジャンクフードには今でも根強いファンがいます」
視線の交わりが温度を生み、勇気になる。若者の掌が男の手の上から思い出を包み閉じる。真白の細い花弁が心なしか内側を向いたようだった。若者は屈み込んで男に語りかけた。
「街も、人も、親子も、時とともに変わってゆくものです。でも変わらないものがある。彼女の赤毛が燃えるように美しいこと。揚げバターが胃にもたれること。マーケットは賑わうこと。運河を舟で渡ること。太陽が昇って沈み、街の光も影も映し出すこと。そして父親の手は大きく、逞しく、あたたかいのです」
笑みに努めていた男は堪えきれず顔を歪めた。若者はあえて畳み掛けるように、そして奮い立たせるように声を弾ませる。
「僕たち専用のチャペルがあります。今まで何組もの夫婦を祝福してきた……僕はあなたの前で彼女に誓いたい。あなたの礼服ももう用意してあるんです、イヤだと言ってもおぶって行きますよ」
男はおお、と声を上げ、起き上がる意思をみせた。若者の片手が男の背骨に添えられ、もう片方は男の手をしっかりと握って引いた。
上体を起こしたあとも男は手を離さず、男の背を抱く手もまた離れなかった。写真がふたりの間に落ちた。男の声は掠れた。
「きみが背負うべきは死にかけの男じゃあない。私には見えるのだよ。きみがすでに背負っている、ふたつの命が」
干からびた手のひらは生命線に溜まった汗の湿り気を感じ、若い手のひらは皮膚を透かす背骨の如実な形を感じていた。
写真立てが布団の上を軽やかにこぼれ落ち、思いがけず力強い男の抱擁を受けた瞬間、若者はこみ上げるものに歯を食いしばって耐えた。
男はもう顔を拭うことはしなかった。
「大きな背中だ、逞しい背中だ、あたたかい背中だ。ああ、ミルズ。きみのような男があの子に出逢ってくれて本当によかった」
若者は瞼に力を入れ、鼻を啜った。無邪気に震えようとする声を両の手のひらから伝わる体温で宥めた。
「あなたに誓います。僕は必ず幸せにする。彼女と、僕たちの子を、必ず守ります」
若者は父をまっすぐに見つめる。
男は涙に濡れた顔じゅうの、皺をいっぱいに寄せて笑った。息子の手をいつまでも、いつまでも握っていた。
「ありがとう、ミルズ。ありがとう……」
消え入りそうな声に、生けられたカモミールが揺れて、ふわりと香った。
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