夥しい数のコウモリ
森本 晃次
第1話 社会風刺
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年6月時点のものです。科学的な発想は、ハッキリと証明されているもの以外は、まったく架空の発想であり、謎解きになりそうなところは完全にフィクションです。(当たり前のことですが)
動物には、いろいろな習性があり、それがその動物の特徴を表していると言っても過言ではない。
行動パターンと言ってみたり、ルーティンなどがそうであろう。
それは、毎日やることで、習慣となって身についたこともあれば、生まれながらにして、意識もせずにやっていることもある。特に生まれながらにしてやっていることは、その動物に限らず、すべての動物に共通していることなのかも知れない。
例えば呼吸などもそうだろう。呼吸が止まれば死んでしまうのは、すべての動物、いや、植物も含めて言えることであり、そこに、意識というものは存在しない。
無意識のうちに、当たり前のようにしていることも習性と言っていいだろう。ある意味、生き物というものは、
「習性を中心に生きている」
と言ってもいいだろう。
ただ、少なくとも人間は、その習性だけではなく、頭で考えたことを行動に移している。そこには、
「意識と無意識の狭間」
というものがあるような気がしている人もいるのではないだろうか?
無意識に行動しているつもりでも、意識して行動しているのと同じような感覚になることがある。
それはたぶん、
「動物的な勘」
というものが働いているのではないだろうか?
自分で思いついたように、後から考えれば思うのだが、実際のその時は無意識だったという感覚である。
一種の、
「本能のようなもの」
と言ってもいいのではないだろうか?
人間というのは、本能という意味では、他の動物に比べれば、劣っているかも知れない。それだけ、思考能力が発達していて、自分の中で判断できるからだ。人間の判断の基準というのは、
「納得」
というのが、キーワードになっているのではないか?
頭の中で、ます行動に理解できるかということを考える。そして、そこに自分なりの正統性を感じることができると、納得が生まれるのだ。
納得するということは、正当性を考えるという意味で、それだけ、慎重なのかも知れない。
そこまでして行動するのだから、当然、直感による行動よりも、かなり態度に出てくるのが遅れてしまうことになるだろう。
一瞬の判断を必要とする、反射神経とは正反対で、それだけ、瞬時に生死が決定してしまうような場合には、どうすることもできず、あえなく、死んでしまうということも起こってくるに違いない。
それが、事故というものに繋がり、交通事故などが減らないのは、人間の瞬時の判断力がついてこれないからなのではないだろうか。
確かに、交通事故というのは、遭遇すれば、被害に遭いそうな人が避けることができるかできないかが、最期の一瞬を決めるのだろうが、それよりも、
「事前に、事故を起こさないようにするにはどうすればいいか?」
ということの方が大切である。
それだけ、瞬時の判断を必要とする場合に遭遇すれば、かなりの確率で助かるということはないだろう。それは仕方のないことで、
「それが人間というものだ」
といってもいいのではないだろうか?
「そんな最後の瞬間にいかに陥らないようにするか?」
それを目指すにも限界がある。
だから、運転手に免許を持たせて、運転する人間には、その敵性があるかどうかを、国家試験で決めている。
しかし、ほとんどが、運転適性が最初からないような病気などを持っている人間以外は。基本的に運転しても構わない。
精神的に疾患があったり、乱暴な運転になりがちな人は、ほとんどが、フリーパスである。
「ハンドルを握ると、人間が変わる」
というような言われ方をしている人であっても、免許を持つことができるのだ。
しかも、そんな人間の実に多いこと。マンガなどで、そんなキャラクターが出てくるくらい、そんな人が多いのか、それとも、そんな人物が目立つのか、それとも、事故のほとんどがそんな人間で、社会問題となっているのか。そのどれかなのだろう。
いや、
「そのすべてが、微妙に絡み合っているのではないだろうか?」
そんな人も多く、そんな人が事故ると目立つし、実際に事故を起こした人を取り調べると、そんな人間だったということを、まるで判で押したように見えてくることなのかも知れない。
ただ、
「人間という動物は、本当にバカなのだろうか?」
と思うのは、飲酒運転に関してである。
あれだけ、飲酒運転で亡くなった人の問題が話題になり、今では飲酒運転、いや、酒気帯び運転をしたというだけで、逮捕されたり、ニュースの中で、実名で容疑者として、発表されたりしている。
確かに、事故でも起こさない限りは、罰金や、免停程度で済む可能性もあるが、実際に実名が出て、その下に容疑者として、ニュースになることが、どれほどのものなのかということを分かっていないのだろう。
特に今のように、コンプライアンスに厳しい時代、少しでも、セクハラ、パワハラ的なことをいうと、白い目で見られ、左遷されたり、窓際に追いやられたりと、社会人としては、ロクなことにはならないだろう。
しかも、それは、まだ序の口だからである。
それは、飲酒運転、酒気帯び運転などで、警察に捕まったとなれば、どうだろう? 会社の就業規則によるのだろうが、一歩間違うと、
「懲戒処分」
になりかねない。
懲戒処分というと、減収、減棒、出勤停止(学校でいえば、停学処分のようなもの)、降格、下手をすれば、懲戒解雇になりかねない。
懲戒解雇とまではいかないまでも、会社に迷惑を掛けたり、会社の信用を失墜させたりした場合は、懲戒処分の対象になるのだから、懲戒解雇もまったくないわけではないだろう。
特に、会社が、
「飲酒運転撲滅」
などというキャンペーンに乗っかっているところであれば、懲戒解雇は十分にありえる。
「飲酒運転撲滅とか言いながら、社員が飲酒運転して、警察に捕まるなんて、そんな会社と取引はできない」
などということになれば、それこそ、その社員が懲戒解雇になるだけでは済まされない。上司も監督不行き届きとして、処分を免れなかったりするだろう。
それを思うと、ちょっとした軽い気持ちなどというのは、実に甘い考えで、まるで、
「お花畑の中」
にいるような感覚ではないか。
そんなことを考えると、その運転手がどのように思って飲酒運転をしたのか、聴いてみたいものだ。
「ちょっとの距離なので、警察がいないと思った」
というものか、
「事故さえ起こさなければ、それでいいんだ」
というものか。
これらは、どちらにしても、
「警察を舐めている」
と、まず考えられる。
そして飲酒運転に対して、どれだけ警察が敏感になっているか、それだけ、大きな社会問題になっているのだということを、知らなかったということになる。社会人として、そんな常識的な社会観が欠如しているだけで、会社で仕事をする資格さえないというものだ。
そして、
「ちょっとなら」
という、実に甘い考え、これも、社会人として、当然備えておくべきものとしての、
「危機管理能力」
の欠如と言えるだろう。
他の人まで見るというわけではない。
たった一人、自分のことだけを考えればいいのに、それすらできないのであれば、社会人としての適性に、致命的な欠陥があると言っても過言ではないのだ。
さらに、もう一つ、
「皆やっていることじゃないか?」
という意識があるかどうかである。
これに関しては、矛盾も孕んでいる。というのは、どうして、皆がやっているかということが分かるのかというと、
「毎日のように飲酒運転した」
と言って捕まっているではないかと思っていることである。
そこで、実名入りで容疑者と報道されているのに、そちらに注目するわけではなく、
「あの報道がいいたいのは、それだけたくさんの人が飲酒運転をしているということだ」
と言って、都合のいい方に解釈をするのだ。
「どうせ皆がやってるんだ。それだけたくさんの人がやっているのだから、俺が捕まるという可能性だって、限りなくゼロに近いのではないか?」
と考えるのかも知れない。
それは、捕まらないということを前提に考えているというよりも、理論的に考えて。それでも、捕まらないという、最期まで都合のいい解釈をするのだから、甘いというか、お花畑発想とでもいえばいいのか、正直、
「情けない」
と言ってもいいだろう。
どうして、
「あれだけ、報道されているのだから、俺が捕まる可能性だってあるんだ」
ということで、普通の人なら、
「分母が増えれば、分子が増えるのか確率だ。確率が変わらないのであれば、捕まる可能性は限りなく増えたはないか」
と、どうして思わないのか?
捕まってしまうと、
「ああ、俺は運が悪かったんだ」
と言って、諦めるというのだろうか?
都合のいいようにしか考えられない人間に、反省の二文字はありえない。そうなると、
「ついていなかっただけだ」
と言って、自分を納得させるしかないだろう。
言い訳と言ってしまえばそれまでなのだろうが、言い訳がまかり通るようでは、世の中のリズムが狂ってしまう。
今まで当たり前として、無意識に過ごしてきたことが、当たり前でなくなってしまうと、社会は混乱し、ついてこれない人も増えてくる。
たった一人のわがままを通してしまうほど、世の中は甘くないということで、うまく、回っているのが今の世の中だろう。
ただ、民主主義である以上、
「多数決」
であったり、
「貧富の差」
を、仕方のないこととして片付ける風潮をサラッと流してもいいのだろうか?
そんなことを考えていると、
「民主主義が決していいとは思わないが、一人一人が、法律やモラルを破って勝手なことを始めてしまうと、民主主義ほど、脆いものはない」
と言える気がした。
社会主義のように、国家が強いと、そんなことはないだろう。国家が個人の自由を締め付けているからなのだろうが、それが決していいことだとは言えないが、バランスの問題でもあるのだ。
そもそも、社会主義というのは、そんな民主主義の限界を超えた、理想の社会を作り上げるということで出発したはずなのに、いつの間にか、
「悪である」
というレッテルを貼られてしまい、実際に、社会主義というのは、
「粛清」
と、
「国家による圧力」
という一番分かりやすい形での安直な方法で、平等を表そうとするのだから、当然、そこに無理が生じて、
「自由」
つまりは、
「人の命」
というものまで、ないがしろにしてしまっているのではないかと思えるくらいなのだ。
かつての、ソ連や今の中国などがそうであろう。
ただ、それに立ち向かい、
「世界の警察」
を辞任し、
「代理戦争」
などというものを引き起こした、いわゆる、
「東西冷戦」
というものは、いかがなものだったのだろう。
そもそも、冷戦のきっかけを作ったのは、欧米列強ではなかったか。
世界大戦が終わり、戦後処理として残った問題、ポーランド、朝鮮、さらに、日本やドイツの占領の問題など、それが朝鮮戦争を引き起こすことになった。しかも、その頃、東南アジアでは
「独立」
という機運が高まっていた。
そもそも、日本が戦争に突入した理由が、
「東アジアの列強に植民地にされている国を開放する」
というスローガンだったことが、日本が敗戦したことによって、戦後にその火ぶたが切って落とされるというのは、実に皮肉なことだった。
特に、インドシナ問題は深刻だった、インドシナは、元々がフランスの植民地だった。日本が、大戦前に、列強から経済制裁を受けていたので、それを打破するために、
「南方進出」
というものが必須だったが、当時ヨーロッパでは、ナチスの侵攻が激しく、フランス本国は、パリの政府が、さっさと逃げ出して、戦争にならずに、パリが占領されるということになった。
「無血開城」
というのは、聞こえはいいが、要するに、
「フランス政府が国民を置き去りにして、自分たちだけが逃げ出してしまった」
と言ってもいいだろう。
そこで、ナチスはフランスに、自分たちの都合のいい、
「傀儡政権」
を作り上げ、フランスも枢軸国の一員になったのだ。
ドイツと同盟を結んでいた枢軸国である日本は、枢軸国の仲間入りをしたフランスの傀儡政権に、
「インドシナの攻略」
を願い出たが、同じ同盟国のようなものなので、許可は当然下りるだろう。
そういう意味では、
「日本による、仏印侵攻というのは、国際法的には合法である」
と言っていいだろう。
それを、侵略というのはおかしなことで、それによる経済制裁の強化は許されないものだったはずである。
しかし、日本が敗戦となり、アジアの主要な国が、アフリカなどの国と同じように、独立を目指し、宗主国との戦争に発展することも多かった。
インドシナも同じ状態で、戦後、フランス本国で元々の政府が戻ってきて、国家が元に戻ると、インドシナ支配へと、舵を切り始めるのだが、他の国と同様、インドシナでも、独立運動が激化していた。
特に、ホーチミンによる、
「ゲリラ戦」
では、フランス軍は翻弄され、フランス軍による支配は難しくなってきたのだった。
実際に、フランス軍は、歴史的な大敗を、それまでの植民地の国にするという、恥辱をあじわった。
そもそも、ナチス侵攻の時に逃げ出したような政府が率いる軍なのだから、それもしょうがないと言えるのかも知れないが、フランスは、結局インドシナ支配を諦め、その後始末を、国連に一任したのだ。
独立派のホーチミンはゲリラ戦を展開し、ソ連と手を結び、国家を社会主義化させていく。
それを見たアメリカは危機感を煽られたのだ。
「このままでは、インドシナはおろか、他の東南アジアの国も、共産圏に変わってしまうのではないか?」
と考えると、インドシナに介入しないわけにはいなかくなった。
これがいわゆる、
「第二次インドシナ戦争」、
通称で、
「ベトナム戦争」
というものだったのだ。
アメリカの想定以上に、ベトナムのゲリラは強かった。南北に分断し、北をソ連、南をアメリカという、まるで朝鮮半島のような状態での、
「代理戦争」
が始まった。
最初の頃こそ、アメリカは、局地的に、軍事施設だけを攻撃するというやり方に終始していたが、その作戦では、相手からの砲撃も多く、
「アメリカの被害のわりに、作戦が思うようにいかない」
という状態になり、アメリカは攻撃を、無差別に変えてきた。
とたんに、枯れ葉剤散布であったり、ナパームによる攻撃が激化し、報道カメラマンによって撮影された、戦争の悲惨さが世界に公表されるようになると、今度は反戦の空気が強くなってきた。
アメリカの戦争は、世論の動きが無視できない。
帆船が高まる中、結局、南ベトナムの政府や軍を置き去りにして、撤収しなければいけなくなり、そのまま、ソ連に侵攻されて、南ベトナムは滅亡し、統一国家が出来上がる結果になった。
当然、社会主義国としての成立だった。
南ベトナムは、首都のサイゴンが陥落し、名前も、
「ホーチミン市」
に変えられてしまった。
今の若い連中は、ベトナムが、南と北に分裂していたことを知らない人も多いだろう。それこそ、
「歴史上の出来事」
ということで、昔のことだという認識である。
それを考えると、まず言えることは、
「フランスがすべてを招いてしまった紛争である」
ということと、
「アメリカという国は、勝手にベトナム問題に介入してきて。そして立場が悪くなると、また今まで支援していた国を見捨てて、勝手に撤退してしまうという、ある意味、いい加減な国だということを露呈してしまった」
と言ってもいいだろう。
ソ連は徹底して、ゲリラ戦を行い。アメリカに抵抗した。
ソ連が正しいとは言わないが、こうやって考えると、
「ベトナム戦争とは何だったのだろう?」
と思う。
朝鮮の問題を解決もできずに。ベトナムに介入し、しかも、最期は見捨てる形になったアメリカ。
アメリカは中国でも似たようなことをしている。
「内戦が行われていて、それまで支援してきた国民党への介入を辞めたことで、共産党が勝ち残り、中国の共産国家が出来上がった」
のである。
そういう意味では、今の米中問題を引き起こしたのは、
「かつてのアメリカだった」
と言っても過言ではない。
しょせん、アメリカというところはそういう国なのだ。
つまり、民主主義というのには、限界がある。それを補う形で生まれたのが、社会主義、共産主義の考え方である。
ただ、これも、元々民主主義が、社会主義の反面教師のようなものだったのだとすれば、完全に、堂々巡りを繰り返しているだけではないかと思えるのだ。
飲酒運転の何が悪いのかというと、
「アルコールが入ったことで、反射神経の一瞬の判断が鈍ってしまって、事故を引き起こす可能性がある」
ということである。
身体に悪いという意味では、アルコールだけでなく、タバコも大きな影響を与えるのではないだろうか?
そもそも、タバコというのは、ニコチンというアルカロイドが含まれている。アルカロイドというのは、人間の神経に働きかけて、
「覚醒させるもの」
と言っていいだろう。
一種の麻薬であり、ヒロポンやヘロイン、アヘンや、覚せい剤などと、同じだと言えるだろう。
以前、子供番組の特撮もので、まだ、テレビが一般家庭に普及し始めたという、もう半世紀以上前の作品だったが、
ある街において、それまでおとなしかった人間が、狂ったように、銃を発砲したり、車を暴走し始めて、人を跳ね飛ばしまくったりなどという悲惨な事故が続いていた。
容疑者は警察に確保されたが、最初暴れていたにも関わらず、急に昇天し、気絶してしまい、死んだように眠りこんでしまうという特徴があった。
かなり寝込んでいたが、起きてくると、冷静さを取り戻していて、それどころか、自分が何をしたのかということをすべて忘れてしまっているのだ。
最初は、
「罪を逃れたい一心なのか?」
と思っていたが、
「全員が全員、示し合わせでもしない限り、ここまで同じにはならないだろう」
と考えられるのだった。
これをただの偶然だということで片付けていいものだろうか?
何かの悪の組織か何かが関わっているのではないだろうか?
症状が麻薬中毒者に似ていることで、事情も分からず、まずは原因を確かめることだった。
全員がタバコを駅前で買ったのが分かり、それを調査していくうちに、あるアパートにぶち当たり、主人公が中に入ると、そこには宇宙人がいたということだった。
人類のほとんどがタバコを吸っているということで、その中に、理性を失って、まわりがすべて敵に見えるという作用のある麻薬をタバコに仕込んでいたのだ。
これはまだ実験段階だったようだが、主人公がヒーローに変身し、宇宙人をやっつけることで終わった話だったが、最期のセリフが印象的だった。
「この話は未来の話であり、なぜなら地球人は、宇宙人から狙われるほど、お互いを信用していない」
という皮肉が込められていたのだ。
それを思うと、麻薬を仕込むのが、タバコだというところが面白かった。タバコも麻薬の一種だからだ。
そのことは何も言っていなかったが、きっと製作者は、そのことも裏で言いたかったのだろう。
当時は今のように、タバコが罪悪だと思われていない時代、逆に喫煙人口が8割を超えていた時代だった。誰もがどこでも、気兼ねなく、タバコが食事感覚で吸える時代だったのだ。吸わない人間の肩身のせまいことと言えばなかったに違いない。
社会風刺画子供番組としては痛烈だった番組だっただけに、余計にこの皮肉は、答えたであろう。ただ、喫煙者が当たり前の権利のように思えていた時代なので、こんな番組制作自体、喧嘩を売っているようなものではないのだろうか。
あの特撮番組は、前述の東西冷戦の話も皮肉ったものもあり、ベトナム戦争勃発前だったので、ベトナム戦争に関する反戦関係はなかったが、
「東西冷戦の分岐点」
とも言われた、フィデロカストロを中心とした、いわゆる、
「キューバ危機」
に関係したような、
「核開発競争」
を風刺した作品は存在した。
とにかく、時代としては、かなりの冒険的な政策だったに違いない。
子供番組としては、難しすぎたが、その時のこともが大人になってから、逆に火が付いたのが、その特撮番組だった。
社会の事情を分かっていないと、納得してみることができない。そんな番組だったのだろう。
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