家老、菅沼正

……………………


 ──家老、菅沼正



 落葉城を築いたのも黄葉城同様に城に詳しい西川家のもので、たとえ天下を統べるものがあろうともこの城を落とすことはできぬと言われていた。


「そこで止まれ、牢人」


 城門に近づく橘たちを城の兵が呼び止めた。


「ここは岩陽国大名西川殿がおられる落葉城。牢人が何用か?」


「岩陰国のことについてお話に参った」


「何?」


 橘が述べる中、怪訝そうな顔をする兵の前に黒姫が出た。


「家老の菅沼に黒姫が会いに来たと伝えい。さすれば分かるであろう」


「では、そこで待て」


 黒姫が言うのに兵が黒姫の言葉を伝えに城内に向かう。


 それから暫くして慌てた様子で兵が戻って来た。


「菅沼殿からお通しするようにとのことに、と。どうぞこちらへ」


「うむ」


 一転して丁重な態度に変わった城のものが橘と黒姫を城内に通す。


「……黒姫様」


 そして、家老の菅沼が青ざめた表情で橘たちを出迎えた。


 菅沼家は代々西川家に仕える譜代衆だ。一族のものは西川家が行う治水や築城に必要な資金を工面することにおいて優秀な才能を有していた。


 菅沼はそんな一族の人間なだけはあって己の武勇を誇る武将というよりも、いかにも金勘定にうるさそうな商人という風体であった。


「久しいな、菅沼。随分とご無沙汰ではないか。わしに何か言うことはないか?」


「黒姫様。その、ここ最近は穏やかにお過ごしと聞いておりましたが、何か不快なことがございましたでしょうか?」


「まずは酒で持て成せい。わしが来てやったのだぞ」


「ははっ!」


 菅沼が命じるとすぐさま大量の酒と豪華な料理が運ばれてきた。


「して、ご用は……?」


「うむ。岩陰のことはどの程度聞いている?」


「ある程度は。北右近殿が乱心されたそうですな」


「何も知らんではないか。全く、それでも家老か」


「も、申し訳ない」


 黒姫が随分と態度を大きく接する相手は仮にも一国の重鎮である。これは黒姫という存在がどれほどこの岩陽国で恐れられているかを示すようなものであった。


「岩陰に化け物が住み着いた。白姫という南蛮の竜よ。死者を弄ぶ“ねくろまんさあ”だ。聞けば既に岩陰の物の怪たちも配下に収めたようだ。いずれ攻めてくるぞ」


「何と。それはまことでございますか?」


「わしが嘘をついているというか」


「い、いえ。しかし、岩陰は我ら岩陽の同盟国。攻め来るなど……」


「岩陰が攻めてくるのではない。白姫という化け物が攻めてくるのだ」


 菅沼が黒姫に酒を注ぎ、黒姫が酒を呷りながら告げる。


「この岩陽はわしのシマよ。白姫なんて南蛮のよそ者が来るなど腹が立つ。よって白姫は討たねばならん。お前、少し手を貸せ」


「何をすればよろしいでしょうか」


「わしが望むものを準備せい。酒、金、兵、それから飯。お前なら準備できるであろう。この岩陽の財布を握っておるのはお前だ」


「努力いたします。いかほど必要で?」


「まずわしとそこの牢人の分。橘というものだ。凄腕だぞ」


 黒姫がそう言って橘を指さす。


「橘玄と申す。元は北右近殿に仕えていた」


「ふむ。お前が白姫なる化け物を討ち取ると?」


「そのつもりだ」


 橘が座ったまま言うのに菅沼がしげしげと橘を見た。


「ああ。どこかで見たことがあると思ったが、藤堂殿と一緒に追ったものであろう?」


「いかにも。藤堂殿には世話になった」


「藤堂殿はどうなった? もう何年も会っていない」


「藤堂殿も白姫に……」


「そうか。よき男であったが残念だ」


 菅沼が橘の言葉に首を横に振る。


「菅沼殿。あなたは忘却神社の神主だったそうだが、黒姫とは長い付き合いなのか?」


「それなりには」


 菅沼が酒と肴に上機嫌な黒姫を横目に見つつ慎重に答える。


「忘却神社というのは妙な名前だ。黒姫は冥府山と無惨川の主であろう。それが何故忘却などという名前の神社に祭られていたのだ?」


「それには歴史がある。かつては忘却神社は別の名で呼ばれておった」


「聞きたい」


 橘も妙に思っていたのだ。


 災いをもたらす荒ぶる存在を神と讃えて祟りを静めることは珍しくない。それが菅原道真のような怨霊だろうとあるいは黒姫のような物の怪だろうと。


「言葉は変化するものだ。特にそれがよくない言葉であれば人はその言葉そのものが災いをもたらすと考えてもっと穏やかな言葉にしようとする」


「忘却神社も昔は別の名だった、と」


「そうだ」


「どのような名前だった?」


 橘が尋ねるのに菅沼が何とも言い難い顔をして黒姫の方を見た。その名を告げる許可を得たいという顔であった。


「わしが教えてやろう。まずはお前も飲め」


 黒姫は上機嫌で酒の杯を橘に突き出す。


「さっき飲んだばかりだぞ」


「何だ。わしの酒が飲めんというのか? 酒は何杯飲んでもよい。それ近く寄れ」


 まださほど酔ったわけでもあるまいに性質の悪い絡み酒をする黒姫。


 しかし、橘にも気持ちが分からなくもなかった。ひとりで飲む酒というのはどんなに美味くとも酷く虚しいものである。


「さあ、飲め。菅沼が美味い酒を持ってきたのだ」


「分かった、分かった」


 黒姫が杯を押し付けるように差し出し、橘がぐいと酒を飲み干した。


「美味い酒だ」


「そうであろう。わしが酌をしてやろう。そらもっと寄れ」


 黒姫が抱き寄せるように橘を傍に寄せ、さらに酒を注ぐ。


 酒精の香りと黒姫の甘い香りが合わさり、何とも淫靡な雰囲気が醸し出される。


「聞きたいのは忘却神社がかつて何という名であったかだったな」


 黒姫がそう言って話し始めた。


「忘却神社と名が変わったのは少し前だ」


「よくない言葉だったのか?」


「表現として悪かったとは思わん。ただ響きは確かによくなかったな」


 酒で満ちた杯に黒姫の美しい顔が映り、それを橘はじっと見つめた。


「かつての名は暴虐神社。そう、そういう名であった」


「それはまた随分と」


「ああ。だが、確かにわしは暴虐であった。気に入らなければ殺し、腹が減れば取って食った。虫の居所が悪ければもっと暴れた」


 黒姫が懐かしむように橘にそう語る。


「そんなわけだから随分と恨まれたし、嫌われた。いつの間にかどれだけ暴れても相手にされなくなってな。それからは虚しいものよ。境内の掃除すら……」


「黒姫」


「やはり御利益がなければ神は崇められないわけだ。だから、わしはそろそろ神らしいことでもしてやるかと思ってはいるのだがな。いまいち気乗りせん」


 橘が心配そうに黒姫を見るのに黒姫が酒を呷った。


「そう焦る必要はあるまい。お前はどうあっても神だ。いずれ物好きが崇める」


「よいことを言う。さあ、もっと飲め。美味い酒だ」


 黒姫はほろ酔い気分でけらけらと笑った。


……………………

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