戦国のジークフリート ~牢人と龍神~
第616特別情報大隊
牢人
流血より始まる
……………………
──流血より始まる
室町の時代から続く戦国の世。それは力こそが全てである野蛮な時代。
力あるものは奪える限りを奪い、力なきものは奪われる限りを奪われ死する。
北部にある岩陰国もまたそのような試練の時代を生きていた。
岩陰国はそう大きな国ではない。ささやかな石高があり、いくつもの漁村が存在していた。海の幸には恵まれたものの、厳しい冬もある土地であった。
この地は代々より武将たる北家が治めている。
北家は天下人を夢見るような一族ではなく、自らの所領を守ることで精一杯であった。自らの名声よりも民の暮らしを考えるような心優しきもの統治者で、武士たちは民のために戦い、民からは愛されていた。
幾度となく周辺から略奪や戦争を仕掛けられるも耐え抜き、今まで生き延びて来た。当時の当主の北右近は戦に長け、守ることについて負けがない名将であったのだ。
それがおかしくなり始めたのはとある冬の日ことだ。
「
とある少女が岩陰国に現れたのだ。
その少女の髪は絹のように艶やかでありながら、雪のように白い。その瞳は白兎のように赤い。あるいは血のように赤いものだった。
幼さの残るあどけないはずの顔立ちには不思議な色気があり、それを見た全ての男はその美貌に息を飲んだという。
その白姫がどのように当主たる右近に取り入ったのかは分からない。
いつの間にか白姫は右近の傍にいた。
右近には既に桜姫という正妻がいたが、白姫は側室となった。そのことに桜姫は大層立腹し、何度も苦言を呈した。
右近は次第にそんな桜姫を疎んじ、ますます白姫にのめり込んだ。
そんな中で桜姫が死んだ。
死体を見たものはこう語った。『まるでクマにでも襲われたように腹が裂かれ、臓腑が全てなくなっていた』と。
それから瞬く間にあらゆるものが、岩陰国のあらゆるものが狂い始めた。
桜姫の次に死んだのは岩陰国にある寺の僧侶たち。
ひとり、ひとり姿を消し、見つかった死体にはクマが獲物を貪ったように柔らかな内臓だけが抉られていた。
しかし、どれだけ獰猛なクマですらあのような残虐な殺し方はしないだろう。そう、発見した百姓は語る。
その右近の家臣のひとり
ある村から住民が神隠しに遭ったように全員消えた。
旅の
夜中に獣とも人ともつかぬ呻き声が響き続けた。
「恐ろしいことでございますね。御屋形様は何かなされないのでしょうか?」
橘の妻梅はそう夫に言う。
「分からん。だが、物の怪にせよ野伏にせよ、民に害成すものあらば御屋形様はお許しになられぬはずだ」
橘は百姓上がりの下級武士で立派な家格があるわけではなかった。
ただ、戦場にて戦えば、扱うものが刀であろうと槍であろうと、はたまた鉄砲であろうと我流にて自在に使いこなしており、滅法戦に強い男である。
されども兵法者のような学はなく、己の腕のみが売りであったため、ただ強くとも乱世のこの世においてはひとりの武士に過ぎない。
その腕のみで愚直に生きる姿勢を北家の家老である
「うちの村は大丈夫でしょうか?」
「安心しろ。俺と呉作、太一とで毎晩見回りをしておる。何であろうともお前たちに手は出させん」
「そうですか。それなら子供たちも安心できますね」
橘には4人の子供がいる。下は1歳とまだ幼く、可愛い子供たちだ。
「さて、そろそろ飯の支度を──」
梅がそう言って立ち上がった時、馬の嘶く声が響いた。
「何事」
橘が異変に素早く立ち上がり、玄関へと駆ける。
「橘! おるか!」
「藤堂殿! どうなされた?」
現れたのは藤堂だった。
彼が来た理由がただごとではないのはすぐに分かった。藤堂はその腕に深い刀傷を追っているのだ。
「御屋形様が乱心された。我々家臣を次々に……」
「なんと。何故そのような……」
「白姫だ。あの女が御屋形様を乱心させたのだ」
藤堂が橘にそう告げ、血を帯びた手で橘の腕を握る。
「白姫を討て、橘! このままでは国が亡びる……!」
「承知した。すぐに城に向かいます」
右近と白姫は青鹿城にいる。
「私の馬を使え。頼むぞ、橘!」
「ええ。お任せを! 梅! 藤堂殿を手当てして差し上げろ! 俺は城に向かう!」
橘は藤堂の葦毛の馬に飛び乗り、青鹿城へと駆けた。
そこで橘は国全体が異様な空気を発していることに気づく。街道にも通り過ぎた村々にも人がいないのだ。
「何が起きている……?」
背筋にぞっとするものを感じた。
橘はこれまで幾度も戦場で死地に立ってきたことがある。自らの命を奪わんとする刃が迫り、命を落としかけたこともある。
だが、今はそれよりも恐ろしい何かを感じていた。
まるで戦場より恐ろしい異界へと迷い込んでしまったかのような……。
「急がねば」
馬腹を蹴って速度を上げ、青鹿城を目指す。青鹿城は山の上にある山城で城下にはちょっとした規模の街があり、田畑がある。
だが、今はそのどこにも人気がない。
「あまりにも静かだ。どうなっている。城下町のものたちはどこに消えた……」
橘はひたすら困惑しながら青鹿城へと続く道を馬で駆け上る。
「城門にも櫓にも兵がおらぬではないか。一体どうしたというのだ」
堀に囲まれた青鹿城に内部に繋がる通路である大手門を潜り抜け、橘は青鹿城の中に入った。しかし、城の中にすらも誰もいない。
「誰か! 誰かおらぬか! 北右近殿の家臣がひとり橘が参った!」
橘が名乗りを上げるも城は静まり返っている。
「誰か! 橘が参った!」
橘はまさか城の人間が全て殺されたのかと恐れながらも右近と白姫がいる館を目指した。何はともあれ白姫を斬れと命じられた以上、斬らねばならぬ。
「御屋形様! おられるか!」
そして、橘が館の障子を開いて叫ぶ。
「なっ……!」
おぞましい光景が目の前に広がっていた。
斬り殺された家臣たちがあちこちに倒れ、その腹部にあるはずの臓物が食い荒らされたように消えていた。畳は大量の血を吸い、黒く染まっており、苦悶の表情を浮かべた家臣たちが横たわっている。
そして、白姫もそこにいた。
彼女は橘に背を向けて倒れた家臣のひとりの横に座っていた。最初、それを見た橘は白姫が家臣を助けようとしているのだと思ったが、それは間違いであった。
「白姫……! 貴様……!」
ゆっくりと振り返った白姫の口にはまだ赤い血が滴り、腹から伸びる臓腑が咥えられており、恍惚とした表情を浮かべ橘に笑いかけて来たのだ。
「よく来ましたね、玄。待っていましたよ」
この血塗れの惨状からはあまりにも場違いな、穏やかで優し気な笑みと声で白姫が橘に声をかける。
「人食いの化け物め! それが貴様の正体か!」
橘は刀を抜き素早く構えた。
「恐れることはありません。私たちはひとつになるのです」
「何を抜かすか」
目の前の女は化け物だ。間違いない。
物の怪だ。鬼だ。敵だ。
だが、殺せるのか?
もし刀を浴びせても死ななければ、どうすればいい?
「さあ、こちらへ。今頃あなたの偽りの家族はいなくなっていますから……」
「まさか……梅を……子供たちを……?」
「ええ。あれはあなたには必要ない。私たちに必要ない」
言葉を失いかけた橘に白姫はなおも微笑みかける。
「おのれ!」
次の瞬間、殺意が恐怖を上回り、鋭い斬撃が放たれた。白姫が袈裟懸けに斬られ、鮮血が吹き上げる。真っ赤な温かい返り血が橘に降りかかった。大量に。夥しく。
「あ、ああ……」
「恐れることはないのですよ」
白姫は平然としていた。深く裂かれ、血の滲む白い着物を纏ったまま橘に歩み寄ってくる。ゆっくりと、ゆっくりと。
「あああ!」
橘は逃げた。逃げるよりなかった。他にできることなどなかった。
刀で斬ろうとも殺せない相手を前に他にどうすればいいというのだ?
確かに戦国を生きる武士は死を恐れない。
だが、この時代のものたちは死のための死を受け入れたりなどしない。貪欲な勝利への求めが死すら選択肢に入れるだけであり、無駄死にを受け入れるわけではないのだ。
橘は逃げたが勝利を諦めたわけではない。
恐怖に思考が支配されそうになりながらも村に戻り、妻と子を助け、そして藤堂を連れて国を出るつもりだった。誰かが生き残ればいずれあの化け物からこの国を取り戻すことができるのだと信じて。
「村が……」
しかし、その望みを打ち砕くかのように橘が戻った村は炎に包まれていた。
「梅! 藤堂殿!」
橘は一心不乱に叫びながら家を目指す。
「梅!」
そして、炎に包まれた我が家を前にし、恐れることなくその中に飛び込んだ。
「藤堂殿! なんてことだ……」
橘の家にいた藤堂は城にいた家臣たちと同様に斬り殺され、そのままはらわたを抜かれ死んでいた。
橘はそこから血の跡が言えの奥に続いているのに気づく。
「梅! 梅! 生きていてくれ!」
声を上げながらひた走る橘。
しかし、目の前にあったのはあまりにも悲惨なものだった。
「う、梅……」
藤堂同様に斬られ、臓腑を抜かれた梅。
それが動き、子供たちの屍を貪っていた。まだ幼い1歳の赤子もばらばらに裂かれ、その肉には人間の歯と爪によってむしられた跡が刻まれている。
「そんな。何故だ。何故……」
この世には仏も神もいないのか? 自分はどこに迷い込んでしまったというのだ?
「……すまん、梅。助けられずすまなかった。今は眠れ」
橘はすっと武士らしく姿勢を正すとただ刀を握り、子を食らう梅を斬った。
その時、橘の髪は白姫のように、あるいは老人のように、色が抜けて真っ白になってしまっていた──。
……………………
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