柔らかな花の香。ベッドの感触。

 私は酷く心地よい空間の中で目を覚ました。


 うっすら目を開ける。

 最初に目に入ったのは見知らぬ天井。

 そして――。


「大丈夫か?」


 私の手をしっかりと握りしめる。見知らぬ殿方だった。

 いや、見知らぬは失礼か。その黒い髪と翠の眼は知っている。

 先ほどの殿方である。


「あ、あの時の黒ヒョウさん」


 ぼんやりとした頭で私は彼を呼んだ。

 そんな私の様子を見てか、彼はホッと溜息。

 心から安堵したようなとても優しげな顔だ。


 感じていた手の温もりが無くなった。

 それで今まで彼が私の手を握っていてくれたと言う事を理解する。

 彼は一体誰だろう。「黒ヒョウ」と言うあだ名しか覚えていない私にはさっぱりで、声を掛けようにも彼は何をするわけでもなく立ち上がる。

 そのまま背を向けて向かうのは、大きな部屋の豪奢な扉。

 

 彼は扉を開けると、何やら人と話して出て行ってしまった。

 暫くして慌てふためきながら入ってくる一人のメイドの姿。

 見間違えるわけもない。私のメイド、アンだ。


「お嬢様!」

「アン……私は」

「覚えてらっしゃいますか?行き成りお倒れになったこと」


 勿論だ。其処までは覚えている。

 私は、婚約者の家にやって来ていきなり倒れたのだ。

 あ、そう。そうだ。婚約者!

 慌てて身体を起き上がらせる。


「そうだ!私、いきなり倒れて。アルバード様に!」

「ダメです!お嬢様、もう少し安静に!」


 アンが慌てたように止める。

 だが、私が倒れた理由は唯の貧血。

 月物のせいで身体は気怠いが、こうしてはいられない。

 なにせ、家の主に会う前に私は無様にも倒れたのだ。今すぐに会いに行かなくてはいけない。


「だめです!だめですってばお嬢様」


 慌てて起き上がる私をアンは、ソレはもう必死になって止めた。


「だめよアン!今すぐにアルバード様にご挨拶しなくちゃ!」

「ソレは良いんですお嬢様!旦那様はもう承知の事ですから」


 彼女が私を気にかけてか言ってくれるが、其れなら尚更挨拶に向かわなくてはいけないのではないか?

 慌てて布団を引きはがして、立ち上がる。

 何度も言うが、唯の貧血で月もの――。深刻な病気なんかじゃない。だのに何も挨拶も無くただ寝ているだけなんて、失礼処じゃない。

 とりあえず、今来ているネグリジェから何でもいいからドレスに着替えて、それから――。


「お嬢様!先程のお嬢様が目を覚まされるまで手を握っていた方が旦那様でごさいます!」

「――え?」


 そんな私の思考を読み取るかのように、アンが言った。

 手が止まる。


「え、ええ。いま、なんて」


 きっと聞き間違いだ。そう思って、問い掛け。それか私を大人しくするための出まかせ?

 けれどもアンの瞳は嘘偽りのない真剣なモノであった。

 彼女は再度同じ言葉を零す。


「先ほどの方が。今までお嬢様を心配し手を握っていてくださった方が、ガドル・アルバード様。今日よりお嬢様の旦那様になる方にございます!」

 

 この言葉で、先ほどまでの手の温もりを優しげな瞳を思い出す。

 数か月前、図書で出会った優しい彼。

 物珍しげに私に話しかけて来た物好きな青年。


 私が勝手に「黒ヒョウ」と呼んでいた殿方。

 どうやら、その彼が私の旦那様であったらしい。



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