ヤベーヤツ
カ〇ナシもどきから脱兎のごとく逃げだすこと、恐らくは数分後。
「……ま、撒いたか」
背後を見て誰の姿も無いことを確認した俺は、漸く一安心とばかりにほっと胸を撫で下ろす。そしてそのまま手近な壁に背中を預けて、ずりずりとへたり込んだ。
「……ぜぇ……ぜぇ……それにしても……し、知らなかった。幽霊でも……必死に走ると疲れるんだな」
ほんの数分全力疾走しただけで、息も絶え絶えと言わんばかりのこの有様。日頃の運動不足ぶりが如実に表れているというモノだ。何とまぁ、我ながら情けない有様である。
いや、違うよ? 運動する時間が無かっただけだし。それに社畜なんて皆そんなもんでしょ? 俺が特別体力無いわけではないと思うなぁ……いや、マジで!
「まあ、何にせよ、あんな重装備で鈍重そうなヤツだ。きっと追い付いてなんか――」
「全く、酷いじゃない。待ってと言っているのに置いていくなんて」
「――これてるよぉ」
耳朶に響く、凄く聞き覚えのある声。それは間違いなく、今一番聞きたくない声である。
恐る恐る目線を向けてみれば、やはりというべきかそこにはいた。その強烈なビジュアルを見間違える筈もなく、やはり悠然と立つ真っ黒なソイツは俺の方へ視線を向けている。
希望的観測を込めて万が一、否、億が一にも「実は俺の事が見えていないんじゃないか」説を捨ててはいなかったのだが……この状況で流石にそれはあり得ないことが証明された。何せここにはまるっきり人気が無く、今は俺とコイツ以外の誰もいないのだから。
「やっぱりお前、俺が見えているんだな?」
「ええ、勿論。そして君はその様子からして、自分がレイスになった自覚があるワケだ」
「れ、レイス? 何だ、そりゃ? 幽霊を意味する、この世界の単語か?」
「ユーレイ? 私にはその言葉の方が聞き覚えなど無いけど、まあ名前なんかこの際どうでもいいの。大事なのは、君がレイス――しかもここまで明確に自我と姿形を保った極めて稀有な存在であるということだけ。いや、実に素晴らしい」
「そうかい。褒めて貰えて、嬉しいよ。ならこれは……お礼だっ!」
カ〇ナシもどきに向かって、俺は右掌を向ける。
そして同時に今使える限りの全力を投下して、最大風力の風を生成する。
耳を劈く爆音を轟かせる、まさに暴風。これだけの風力を駆使すれば流石に容易くぶっ飛ばせるだろうと確信し、俺はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
だが。
「おぉ、これは凄い。これほど高度で高威力で高出力にも出来たのか」
「――なっ!? 何……だと?」
俺の顔から、笑顔はすぐに消えた。
自画自賛になるが、炸裂した風の威力は紛れもなく凄まじいモノだった。事実暴風が吹き抜けた道路に設置された壁や看板は地面から剥ぎ取られては遥か彼方へと吹き飛んでいったのだから。だが、そんな立っているのも難しいだろう暴風の中にあって、カ〇ナシもどきはローブをはためかせるだけで何事も無かったかのように平然と立っていた。
「そ、そんな馬鹿な! こんなこと――」
「あるワケが無い、かな?」
「――っ!?」
「まあ、そう思うのもムリは無いかな。実際、初見だったら対処できずに今頃何処へなりとも吹き飛ばされていただろうね。でも、街のど真ん中でアレだけ散々披露してくれたんだ。生憎と君の手の内が風だと分かりきっていた。なら、対処も準備も出来るというモノさ」
朗々と得意げに語るソイツに、俺は何も言い返せなかった。
街中で戯れに散々魔法を行使して迷惑を掛けた罰が、まさかこんな形で当たるとは……完全に想定外だった。どういう手品かは知らないが、逃げても追いつかれる。だからといって追い払おうにも、風の魔法も通じない。まさに万策尽きた打つ手なしの状態。俺には焦燥感と共に唇を噛み締める他なかった。
「もう、攻めは終わり? なら、攻守交替といこうじゃない」
そういって、ローブの中へと手を突っ込む。取り出したのは、蓋付きの細長いガラス瓶。小中学校の理科の実験で誰もがお世話になっただろう試験管を彷彿とさせるそれの蓋を「キュポッ!」と音を響かせながら開けると、口を俺の方へと向けてくる。
その瞬間。
「――えっ? ええええええええええええええええええええええええええええっ!?」
思わず面喰ったのも束の間、急に俺の体――ではなくて、霊体か――に強い引き寄せる力が加わってくる。その構図は、奇しくも先程俺が吹き飛ばそうとしたのと真逆。何とも皮肉の利いた手段を講じるではないか。
「くそぉ……」
吸い寄せられて堪るものかと、必死に踏ん張る。
だが、吸い寄せる力は増々強くなっていき、そして遂に。
「のわぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
耐え切ることが出来なかった俺は、カ〇ナシもどきへと引き寄せられていく。
一度崩れてしまえば、もう歯止めなど聞かない。あっという間に肉薄して、そのまま流れるようにガラス瓶の中へと足から吸い込まれていく。
「よし、捕まえた」
「くそっ、よくも……でも、こんなガラス瓶なんぞ」
自身の体の特性にいい加減慣れてきた俺は、余裕綽々とガラス瓶を通過して脱出を試みる。だが、吸引したことといい、特別性なのだろう。俺の体はガラス瓶を透過出来ない。
「そ、そんな……これは一体、どういうことだ?」
「無駄無駄無駄ぁ……まあ、諦めて大人しくしていてね」
「そんなの、冗談じゃない! くそっ、出せ! 出しやがれ!!」
「イ・ヤ・だ! 出すワケないでしょうが」
勝ち誇ったような声音でそう言い放つと、カ〇ナシもどきは蓋を締め始める。
「お、おいっ! 待て! 待ちやがれ!」
俺の叫びも空しく、無情にも蓋は完全に締められてしまう。
念のため蓋も透過出来ないか試してみたが、やはり結果はガラス瓶と同じ。
それなら風で内側から蓋を吹き飛ばして脱出とも考えてみたが、どういう訳か内側から破砕出来るだけの風は勿論、ささやかなそよ風一つ起こせはしない。
透過できず、蓋を押し開けることもできず、風で破壊も出来ない――まさに打つ手無しであり、かくして俺は転移初日から肉体を失った上で自由まで失ってしまう。
「おいおい……俺の異世界ライフ、これからマジでどうなんだよ」
何も出来ない無力な俺は、ただガラス瓶の中で得も言われぬ不安と恐怖と絶望を噛み締めながら、せめてもの抵抗とばかりにガラス瓶の壁を叩くくらいしか出来なかった。
◇
ガラス瓶に閉じ込められてから、数分は経っただろうか。
その間、見える景色といえばどこを見ても黒一色。察するに、どうやら懐にでも仕舞われているのだろう。全く、ただでさえ不安だらけで気分が悪いのに、景色まで真っ暗とくれば更に陰鬱に落ち込んでしまうというもの。
異世界へ来て早々のハイテンションは何処へか、いつしか俺の気分はどん底にまで突き落とされており、最早ガラス瓶の壁を叩く気力すら沸いてこない。ただ黙って蹲り、あれこれと益体の無いどころか不安を煽るだけの妄想に耽るだけ。
そうして『ずぅぅうん』か『どよぉぉん』という効果音でも付きそうなレベルのローテンションに身を浸していた、その時だった。
突如、頭上から明かりが差し込んでくる。目が潰れそうなほどに眩い、神秘的にすら感じられる救いの光。その光を求めて手を伸ばし、全力で跳躍する。そうして、俺は。
「うわっ! ……あれ、ここは?」
先程までの黒一色のこの世の終わりみたいな景色とは打って変わって、俺の周囲の景色は豊かな色彩を取り戻している。ガラス瓶の中に押し込まれていた時のような閉塞感も圧迫感も無く、体は自由に動き解放感が心に沸き起こって来る。
「俺、出られたのか……」
「まあ、そりゃ出してあげたからね。精々感謝してくれてもいいのだけど?」
背後から最早聞き慣れた独特のくぐもった声が聞こえてきて、俺はガバッと勢いよく振り返る。そこにはやはり、忘れたくても忘れられない忌々しいカ〇ナシもどきの姿。
「貴様、一体何のつもりだ? 俺をこんなところに連れ去りやがって、何が目的だ? 第一、貴様は一体何者だ? 何故俺の姿が見える? 俺に干渉出来る? お前は――」
「はいはいはいはい、ちょっと待って! まあ、無理矢理連れてきた手前言えた義理じゃないけど、少しは落ち着いてってば。そんなに色々言われたら、こっちも困っちゃうからさ。まあとりあえず、話を聞いてくれない? 質問は、その後でってことで」
興奮していたところを平然と窘められて、俺は思わずムスッとした表情を浮かべてしまう。実際、こいつの言うことは間違っていない。俺がここで興奮のまま捲し立てたところで、話は進まないだろう。そこは認める。
それに、こいつの言葉遣いや感じられる雰囲気からして、害意や敵意といった不穏な感じはしない。尤も、相変わらず不気味で何を考えているか分からない節はあるが。
とりあえず、今のコイツは味方でもないが敵でもないといったところか――些か冷静さを取り戻した頭でそう認識した俺は、気を取り直すように咳払いしてからキッと鋭い視線と共に毅然とした態度を見せる。
「分かった。話を聞こう」
「感謝する」
「だが、その前にまずはその暑苦しいローブを脱いで顔を見せたらどうだ? 強引にここまで連れて来た挙句にまともに顔すら見せないで、それでお前のこれから語る言葉を信用しろとでも言うつもりか?」
「………………ふむ」
強い口調でそう問えば、そいつは小さく呟いたきり暫し考え込む。
些かの重苦しい沈黙が、場を支配する。考えた末に思考が纏まって決心したのか、そいつは徐にローブへと手を掛けるなり、まるで女性用ワンピースでも脱ぐかのようにして一気にローブを脱ぎ捨てた。
「……ぷはぁ! ふぅ、暑かった。これでいいかしら?」
脱いで早々に一息ついたような嘆息を漏らし、同時に手でパタパタと顔を仰ぐ。
そんな呑気なソイツとは対照的に、突然の出来事に俺は思わず面喰ってしまう。
無論、突如脱ぎ出したことには十分驚いた。だが、何よりも俺が驚いたのは。
「お、お前……女だったのか?」
すっかり聞き慣れてしまった、あのくぐもった低い声。そこからして、俺はてっきりローブの中身は男だと思っていた。しかも相応に年を召した、老年の男性だとばかり。
しかし、ローブの下から現れたその姿は、紛れもなく女性。それも白髪も縮れも傷みすらも見られない艶のある射干玉の長い髪に、起伏に乏しいが華奢でほっそりとした体躯、病的なまでに真っ白な肌には染みも皺も無く、目鼻立ちの整った怜悧な印象を与える美貌を深紅に輝く魔性を宿した瞳が彩っている――と、どこからどうみても若々しい見た目の麗人。
天界で対面した女神ガヴリルが仄かに愛らしさを宿した美貌であったのと対照的に、眼前のこの女はどこかミステリアスで掴みどころのない美貌といった印象である。
予想外過ぎる美人との対面に目を白黒させ、しかし同時に目が釘付けになって逸らすことも出来ない。そうして俺が固まっていると、その女はパタパタと風を送っていた手を止めて、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「なになに? 私があんまりにも美人だから、見惚れているのかしら?」
「――なっ!? ばっ、バカ言うな! ただ、絶対老人だと思ったのに女が出てきたから、少し驚いただけだっ!」
「あら、可愛くない。それに強がるなら、せめて声を上擦らせないように努力すれば? 説得力、皆無よ」
「うるさいっ! 第一、お前何だってそんなヘンテコなローブなんぞで身に隠していたんだよ。あんな変なモンに身を包んでいなければ、こんな厄介なことには――」
「ふぅん……へぇ……」
「――な、何だよ? そのニヤケ面は」
「成程。つまりは、最初からこの顔でコンタクトしていれば、あんな風に逃げずに素直に話を聞いてくれたってこと? 何だ、やっぱり見た目に惹かれているんじゃない」
「――ぐっ!?」
興奮のあまり、墓穴を掘ったらしい。言い繕える言葉が、思い浮かばない。
そうして黙り込んで目を逸らす俺を見ると、その女は深紅の瞳を更に細めてよりニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。
「それくらい素直な方が可愛げあるわ。ねえ、面食い野郎♬」
「誰が面食いだ」
「違うの? だって往来のど真ん中に寝転がって道行く可愛い女の子のスカート覗いたり、魔法で風を吹かせてスカート捲っていたりしたじゃない」
「――なっ!? み、見てたのかよ」
「まあ、アレだけ派手にやればね。面食い呼ばわりが不満なら、スケベの方がいいかしら?」
「やかましいっ!」
勝ち誇ったような嬉々とした声音で煽るような罵詈雑言を平然と口にするあたり、どうやらコイツはとんだ性悪女らしい。俺は忌々しげに舌打ちすると、腕を組みながら完全にそっぽを向いて女から視線を完全に外した。
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