兎と出会って

「お疲れさまでしたー。」

バイトが終わる頃には空は青からピンク、橙へと変化して、最終的には全てを飲み込んでいた。

バイトの後輩がそそくさと着替えて帰っていくのを横目に、紫苑はのろのろと制服を脱いだ。パーカーを取り出そうとロッカーを開けた瞬間、帰ったはずの後輩が戻ってきた。

「あれ、犬飼さんまだ着替え終わってないんすかー?外、めちゃくちゃ雨降ってますよ。傘持ってないし、俺こっから家遠いんで雨宿りしに帰ってきました。」

風邪引きたくないんで、と呑気に笑う後輩に返事もせずズボンを手に取った。そんな紫苑を気にもせず後輩は楽しそうに他愛ない話を喋り続ける。金髪に桜色の瞳。周りにはイケメンと言われているのだろうなとぼんやり思う。紫苑が着替え終わっても喋る続けるため、そろそろうるさい、と言おうとして紫苑はこの後輩の名前も知らないことに気付いた。

「んで、その犬が目で訴えかけてきたんすよ、お前の居場所はどこだ?って。んで、俺はこう言ったんすよね、」「ねぇ、」「はい!何すか!!」

ぴんと背筋を伸ばして敬礼をする後輩にふと気になったことを聞いてみた。

「名前、」「え?」「名前なんて言うんですか。」「…え゛。」

ぽかんとした顔になり、一拍置いてから、噓でしょ、知らなかったのこの人!?と後輩は喚き始めた。

「え、俺入った日に言いましたよ!?え!?」「ごめん、聞いてない。」「マイペースがカンストしてるんだが!??」

ひとしきり喚くと、後輩はやれやれと言った様子で名前を教えてくれた。

「兎田です。兎田れおん。」「う、さいだくん…ね。」「ちなみに俺は犬飼さんの下の名前の漢字まで書けますからね。」

ジト目で言われたが、その情報は紫苑にとっては最早恐怖でしかない。若干引いた目で兎田くんを見れば、いやそれ当たり前ですからね!?とまた喚かれた。

「全く…あ、帰らないんですか?」「あーえっと、もうそろ迎えが来るはず。」「へーそうなんですか!家族の方ですか?」「いやえっと……あ、」

恋人、と言いかけて思い出した。和音は、もう、来ない。僕たちはもう、別れたんだった。

黙り込んでしまった紫苑を見て兎田くんがおろおろするのが分かった。

「あ、すいません、踏み込みすぎました、?」「…いや、大丈夫。」「迎え、は何時頃来るんですか?」「…っ、来ない。」「え?」「やっぱり、勘違いだった。」「…。」

更衣室の真ん中で整列するソファに腰かけていた兎田くんの隣へ黙って座る。え、と驚いたように固まる兎田くんはスルーした。お互いに黙り、静かな時間が流れる。

「…むかえ、」「え?」「迎え、来ないなら、俺と一緒に雨宿りしましょうよ。」

沈黙を破ったのは兎田くんだった。いつものお茶らけた雰囲気は息を潜め、真面目な顔でこちらを見つめている。

「…2人で、濡れるか。」「!?え!?」「…え?」

ぼそりと呟けば兎田くんが大げさに反応する。かと言ってここにずっと居るわけにはいかない。もう9時になる。

「それか僕の家来る?」「…え、」「僕の家おいでよ。」

口に出した途端、それが欲望になった。兎田くんに傍に居て欲しかった。いや、誰でもいいから傍に居て欲しかった。和音との幸せな日々が詰まったあの家に、1人で帰りたくなかった。

いいんですか、と上目遣いで兎田くんが見つめてくるから、もちろん、と答えてやる。ぱっと顔を輝かせる兎田くんを純粋に可愛い、と思った。

「行きましょ、犬飼さん!!」「ふは、そんなに急いでも道順きみ知らないでしょ。」「…、あ、あはは…。」

濡れる覚悟を決めて、紫苑は土砂降りの闇へと飛び出した。






「…け、結構遠いんですね…。」「え、そう?」「いや、家来る?って言うからには5分くらいで着くのかと…。15分くらいかかりましたよ?」「普通じゃない?」「…駄目だこりゃ。」

寒い寒いとびしょ濡れになりながらも何とかアパートへ辿り着いた。お風呂入っていいよ、と声をかけてやると、リビングにいた兎田くんは、申し訳なさそうに、けれど少しホッとしたように浴室へと消えていった。

紫苑は部屋を見回してみた。小さなテレビ、それの前にあるローテーブル、ソファ、1個しかないマグカップ、やけに広いクローゼット。

昨日までそこには確かに和音のかけらが転がっていた。テーブルの上には仕事の資料が詰んであったし、1つしかないマグカップの隣には和音の分も仲良く並んでいた。

なのに、今はそのかけら達は何処にもいない。本当に和音は器用な人だと思った。短時間でここまで人の気配は消せるものなのか。もうどこにも和音のかけらは無くて、昨日までここに紫苑の他に誰か住んでいたなんて誰も信じないだろう。昨日まではカップルの部屋だったのに、今はただの1人暮らしの部屋だ。

その事実に目を背けたくなって、紫苑はソファへと腰を下ろした。

スマホを弄ろうとさりげなく入れた6桁の暗証番号。和音の誕生日だという事に気付いてしまった。急いで設定を開いて、新しいものに変える。また1つ、ため息をついてスマホをローテーブルに放り投げた。

「…奥浦和音。」

ぼそりと名前を呟いてみる。呟くだけで胸の奥に灯りがともったように暖かくなる自分には、呆れを超えて笑うしかない。もう全てが嫌になってきて、思考を放棄した紫苑はソファに背を預けた。暫くそうして天井を見上げていると、突然目の前に兎田くんが現れた。

「犬飼さん、お風呂上がりましたよ~。」「…寒い。」「…え?」

寒い。もうどうでもいい。ただ、寒い。

「ん、どうしたんですか犬飼さ、ん、…っ!!」

おいで、と手招きをすると従順に近寄ってくる兎田くんをぎゅうと抱きしめた。

「犬飼さん?」「寒い。」「あ、ったかいですか、今は。」「…うん。」

え、可愛い、と兎田くんが頭を撫でてくれる。昨日の和音の姿と重なって、何かが壊れる音がした。

「う゛、う゛~っ、」「え!?どうしたんですか!?」「わおん、わおんっ…いっちゃやだぁぁっ…。」

兎田くんが当惑した声を上げるのが分かった。分かっている。分かっているのだ。目の前に居るのが和音ではなく兎田くんだ、なんて。頭では理解していても心が駄目だった。

「わおん、わおん…っ、」「俺はどこにも行きませんよ?」

泣きじゃくる紫苑を兎田くんがぽんぽんと背中をさすってくれる。紫苑の嗚咽が酷くなった。

「ふーっ…わおん、わおん、あいしてる。」「っ!犬飼さん?犬飼さん?…」

そしてそこで紫苑の意識は途切れた。






「…ん、犬飼さん、いーぬかーいさんっ!」「んぅ…。」

目が覚めると兎田くんの腕の中に居た。

時計に目をやれば、日付が変わる少し前。何で起こされたのかが分からず、ぽかんと兎田くんを見上げる。

「お風呂、入らないと、風邪引いちゃいますよ?」「あぁ…入る…。」

のろのろと起き上がり、風呂へと向かう。

身体が芯から冷えていた。服を全部脱ぎ、さっと身体を洗うと浴槽に浸かる。ほぅ、と思わずため息が出た。

あった、かい。

鼻がつんと痛くなった。この風呂場だって和音との思い出がある。丁度今日兎田くんがしてくれたように、後に入る紫苑の為にお湯をはってくれたりだとか。一緒に2人で入ったりだとか。

「っ、あ、わおんっ……。」

駄目だ。求めちゃ駄目だ。駄目なのに止まらない。わおんが、欲しい。

「あいたいっ…わおん…、あいたいよぉっ…。」

あぁ、何故こんなにも冷えているのだろうか。まるで北極にいるみたいだ。寒い。寒すぎる。会いたい。抱きしめて。お願い。

「…あいたい、なぁ。」

もう和音に会う事は許されない。僕が愛してやまない和音に会う事は。

辛い時、寂しい時だって。もう手を伸ばすことは許されない。







「…あ、犬飼さん、よかった~。のぼせたかと思って心配しましたよ~?」「…のぼせた。」

「え゛。」

なんで!?やっぱり突入すればよかった…と怖い事を呟く後輩に紫苑は大丈夫、と強がってみせた。

「俺、おいとましましょうか?」「…やだ。」「え、」

真面目な顔でそんな事を言うから思わず縋った。

「いかないで。」「…え、」

兎田くんが困るのが分かった。困らせてばかりだ。後輩なのに。分かってる。分かってるけど。

「…今夜は一緒に寝て。」

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