第8章 指輪と真実①

 バラク公爵本邸、トレゾールの最上階には、屋敷の主人の“宝物トレゾール”が詰まった無人の部屋がある。


 最上階への階段を上り切ると、2つの広い部屋を二分するように伸びる中央廊下があり、階段を上ってすぐ右にも短い廊下が伸びている。そちらには、従者であるジェイの自室があった。


 階段から見て左側の部屋が、“宝物”の部屋。ベッドやソファー、そして壁を挟んですぐ隣に浴室もあり、すぐにでも人が暮らせるような環境が整えられている。だが、この部屋は、屋敷の主人であるオフィーリア・バラク以外は、傀儡人形さえも近づくことを禁じていた。

 部屋の清掃も管理も、オフィーリアが自ら行っており、他の誰にも触らせたことはなかったのだ。


 そんな屋敷の主人の自室は、“宝物”の部屋と中央廊下を挟んだ向かい側にあった。

 そこは執務室と壁1枚で隣り合わせになっており、オフィーリアは『魔力教室』や特別な外出がない限り、1日のほとんどを自室か執務室で過ごしている。


 彼女の自室にあるのは、執務室に置かれているものと同じ黒いデスク、バルコニーや大通りが見える窓際に石造りの暖炉と、それに向き合うようにして置かれた赤い長ソファー。部屋のちょうど中央に位置している丸テーブルと、その隣に壁際を枕にして置かれた赤のクイーンベッド。


 “眠る”ことをやめているオフィーリアにとって、身体を休められるようなベッドやソファは不要なものなのだが、彼女の従者であるジェイが、半強制的に贈ってきたので、捨てるのは勿体無い上に、広すぎる部屋に他に何を置くべきか思い浮かばなかったため、仕方なく残しておいたのだ。

 たまに傀儡人形たちに手入れさせているが、オフィーリアはこのベッドで眠ったことは1度もなかった。

 彼女の黒のデスクの上には、人の頭の大きさほどの水晶玉が常に置かれている。それは普段、彼女が偵察用の傀儡たちが送ってくる危険信号やテオス内の映像を確認するための魔法器具で、オフィーリアがミロワールを基に開発したものだ。今日も彼女は、デスクチェアに腰掛けて水晶の中の映像を見ていた。


 この、通称大型ミロワールには、通常のミロワールの機能の他に、これにしかできない機能を持っている。

 大型ミロワールに送られてくる映像の数は、活動中の傀儡の数だけある。通常、ミロワール1つにつき1つの映像しか見られないが、これは、送られてきた大量の映像の全てを保存して、複数の映像を何度も同時に確認することができるのだ。


 さらに、他のミロワールと繋げて通信をすることもできる。基本魔力持ち同士の遠距離での交信は、主に透視魔法を応用したテレパシーを用いているため、この通信機能はあまり利用していない。だが、テレパシーは一定の距離以上離れている相手には使えない。それに対してこの大型ミロワールは、どんなに離れていても、“そこ”にあることを知っていれば、繋げることができるのだ。

 とはいえ、これは屋敷にいる間しかその通信に応じられないため、オフィーリアはこの通信機能を備えた小型の通信機を近々開発しようと考えていた。


 普段は多くの場所の映像が同時に流れている大型ミロワールだが、ここ数日、それにはただ1つの映像だけが映っている。

 豪華で広い部屋に、大きなベッド。その中で、ようやく起き上がることができるまでに回復した神族の少女と、その世話をする老婦人の姿。少女の方は朝食をとっているらしく、ベッドの背もたれに身体を預けて座り、その手でパンを千切りながら老婦人と笑顔で言葉を交わしていた。


 オフィーリアはその姿を見て、安堵するようにため息を漏らす。

「…ここまで安定すれば、もう大丈夫ね」

 続けて独り言のように呟くと、ミロワールへ流していた魔力を止める。と同時に、ミロワールの中の映像が消えた。


 オフィーリア・バラクは、表には出していないが、心の底では姪であるセレナに対し感心していた。


 セレナが侵入者である青年と密会していた事実を黙認していたのは、そうすることがセレナのためになると確信していたからだ。だがまさか、たった数日魔力制御の指南を受けただけで、覚醒に至るとは思わなかった。


 やはり、己の判断は間違っていなかった。

 よく似た孤独を知る人間は、相手の核心を突くことができる。

 そして、物事を深くまで考えることができる人間は、魔法われわれの世界では強い。


 オフィーリアは、自分の今まで通りのやり方では、セレナが覚醒しないことは分かっていた。だが、とある理由から、たとえ身内であろうともオフィーリアは積極的に魔法の指南をすることを避けていた。


 王の命令もあるため、魔力教室をやめるつもりはないが、セレナがジェイに話したような、1対1での個別訓練をするようなことはない。実の息子のクラニオにさえ、オフィーリアは魔力教室での指導以外はしておらず、後の指導は魔法専門の貴族学校に任せていた。


 だがそれでも、己の出自や、本心を表に出さない母親の内心について知りたいと、深く考えることをしてきたクラニオは、賢者であるジェイと並ぶほどの実力者となった。

 歴史の裏に隠された真実を知ろうと、多くの考えを巡らせてきたセレナは、恐らくクラニオや他の賢者たちと並ぶ実力者となるだろう。


 オフィーリアは誇らしく思うのと同時に、ひとつの不安を抱いていた。


 セレナは幼い頃、勘が鋭い子どもだった。

 本来ならば覚醒するまで感じるはずのない魔獣や精霊の気配に敏感で、その中でも水の精霊の影響を受けやすく、彼らが活発に動く雨の日に体調を崩すことが多かった。


 また、周りの大人が神経を尖らせていると、素早くそれを察知して身を竦めたり、笑顔の裏に邪な思いを抱いている人間を前にすると、その心を恐れて泣いたり、逆にどんなに冷たい態度を見せる相手でも、その心のうちに優しさや愛情があると分かれば、臆せず近寄ってくるような子だったのだ。

 最近は、心を奥深く押し込めていたせいで、昔よりかなり鈍くなっていたが、覚醒した今、その感覚は少しずつ戻ってきていることだろう。


 そのような特殊な感覚を持った魔力持ちは、覚醒と共にとある系統の魔法を、労することなく得ることができるとされている。

 恐らく今、セレナもその“力”に気づいていることだろう。

 セレナのように、物事の裏を知ろうとすることができる魔力持ちならば、その実力はかなりのものだろう。少なくともその系統だけで見れば、大賢者オフィーリアと並ぶことができる程度には。


 そうなると、さすがのオフィーリアでもセレナに対し全てを隠し切ることは難しい。特に、その力を己で制御できない今の状況では。

「……仕方ないわね」

 そう呟きながら、オフィーリアは首にかかっているペンダントの先を服の上から右手の指でそっと触れる。


 オフィーリアの脳裏に、以前ジェイから尋ねられた言葉がよぎった。

 もしも、“バラク”の正体にセレナが気が付いたと判断したら、その時は知らせるように。そう命じた際にジェイから返ってきた返答。


 ——…よろしいのですか。


 そう尋ねてきたジェイの顔を思い出して、オフィーリアは思わずふっと笑う。

 あの時のジェイは、ひどく不安げで、怯えるような顔をしていた。


 ……兄か親のように過保護に干渉してきて、唯一、大賢者白銀の厄災シルバー・ディザスターと肩を並べるだけの実力を持っている彼が、まさかあんな顔をするなんてね。

 心底おかしそうにふふっと笑ってから、即座にその笑みを消す。彼は、自分の主人がその報告を受けた時にどんな行動に出るのか、全て理解した上で「いいのか」と尋ねたのだろう。


 ……いいに、決まっているでしょう?

 私がまだこの世に居座り続けている、ただひとつの理由。それは、バラクの人間と秘密を守ることなのだから。そのためならば、どんなことだってする。


 バラクを守るために、セレナには……。


 と、その時。廊下をバタバタと駆ける誰かの足音が聞こえてきた。オフィーリアは思考を止めて、扉の向こうへ目をやる。

 傀儡人形たちには、決して室内をバタバタと行儀悪く駆け回ることがないように厳命プログラムしている。急を要する要件の際には、飛行魔法か転移魔法。もしくは危険信号を送ってくるようになっているはずだ。


 屋敷の中を、それも主人の自室に向かって騒がしく走ってくるなど、思い当たる人物は何人もいなかった。

 足音の主は、まっすぐにオフィーリアの部屋までやってくると、ノックも忘れて勢いよく扉を開け、部屋に飛び込んできた。


「オフィーリア様!!」

 やってきたのは、焦燥した様子のジェイだった。

 息を切らせながらオフィーリアの前にズンズンと歩み寄り、礼儀も忘れて口を開こうとする。


「オフィーリア様、アグネス様がっ……!」

「……その前に、何か言うことがあるんじゃない?貴方は今、無断で主人の部屋に入ってきたのよ?」

 オフィーリアはそう言うと、じろりと睨みつける。指摘されたジェイはハッと我に返ると、勢いよくその場に膝を付いた。

「申し訳ありません、主人様マスター。急を要する事態のため、ご挨拶を抜きにしてご報告申し上げてもよろしいでしょうか」

「……何かしら」

「……主人様マスターの姉君、アグネス・レヴィン殿下とそのご子息が、城下の端の廃屋に身を潜めていたことが確認されました」

「……」

 ジェイは、オフィーリアが知らないと思っているのか、それとも知っていると分かっていて敢えて知らないふりをしているのか、非常に言いにくそう事柄を努めて冷静に話すようなぎこちない口調でそう告げた。


 申し訳なさげに頭を下げるジェイ。オフィーリアはそれを冷たい目つきで見下ろしながら、指で触れるだけだったペンダントの先を服の上からぎゅっと握りしめる。

「…それで?」

 色のない、低い声でそう尋ねると、ジェイはしばらく沈黙したままじっと床を見つめ、言いにくそうに口をもごもごと動かしてから目を伏せて声を絞り出す。


「…ご子息の方は、マギーアで捕縛し、現在クリム宮の牢にて尋問を受けております。しかし、アグネス殿下の方は……未だ行方が分かっていないようです……」

「…いくつか聞きたいのだけれど。まずひとつ、貴方は何故侵入者を敬称を付けて呼んでいるの?アグネス・レヴィンは確かに私の姉だけど、今はテオスに侵入してきた裏切り者、罪人でしょう?」

 左の人差し指で、わざと詰問するような口調で尋ねる。主人の言葉に、ジェイは伏せていた瞼を開いて目を泳がせる。


 何も答えずにただ下を向いているジェイの、その理由についてオフィーリアは概ね想像がついていた。しかし、敢えて何も言わずに、ただジェイの答えを待つ。


 ……長年私に仕えてきた、唯一の従者だ。多少の言い訳ならば許してやろう。


 そう思っていたオフィーリアだったが、ジェイは相変わらず何も答えず、ただ言いにくそうに口を動かしている。オフィーリアは呆れるようにため息を吐くと、畳みかけるように中指も立てて、「2つ目」と言葉を続ける。

「マギーアの現在の指揮は、貴方に一任したはずでしょう?にも関わらず、その『されたそうです』って他人事のような報告は何なの?貴方は、自分の部下たちの行動を把握しきれていなかった、ということ?」

「…返す言葉も、ございません」


 ようやく吐いた言葉は弱々しく、ジェイは申し訳なさそうに項垂れた。まるでその姿が、言葉という名の豪雨に晒されて踞る子犬のように見えて、オフィーリアは思わず心の中で笑ったが、そこへさらに追い打ちをかけるように、オフィーリアは左手で頬杖を付き、続けて口を開く。

「最後に、アグネス元王女とその息子については、私が陛下に進言したのよ。あのお人よし男爵の屋敷に隠れてるのは、少し前から気づいていたからね」 

「——っ」

 オフィーリアの最後の言葉に、ジェイは驚いたようにパッと顔を上げた。まさか、そのような答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。


 そんなジェイの反応に、オフィーリアは改めて確信した。

 やはりジェイは、“彼”のために、姉と繋がっていたのだろうと。

「……何故……」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ジェイは困惑を隠しきれないといった様子で呟く。彼の反応は、予想済みだ。その裏にある本音も、思惑も。しかし、オフィーリアは敢えて何も知らないかのような態度を見せた。


「何故って何?たとえ実の姉でも、彼女は今やディアヴォロスと通じている反逆者でしょう?」

「……っ……しかし、オフィーリア様。あの方はっ…!」

「私が、彼女たちを見逃すとでも?私がセレナの無茶を黙認していたのは、そうすることが彼女のためだと思ったから、というだけよ。……が無人だったことに気付いたのは、ついこの前だけれど……」

「そこまで視えていて、何故……っ!!」


 ジェイの顔に、焦燥のような、悲しみのような色が滲んだ。

 彼の表情の理由は、分かっている。彼が、主人の行動を見て僅かに抱いた期待も、視えている。


 だが、どうやら彼は忘れているらしい。

 “オフィーリア・バラク”という人間は、目先の欲よりもこの世の理を理解し、守ることに全力を注いでいるように、そう他人に“見せている”。規則や常識に捕われず、己の心のまま自由に生きてきた“オフィーリア・レヴィン”とは、違うのだと。


 …あの無知で無垢な少女は、もう死んだのだと。


 そんな人間であり続けることを、20年前、あの雨の中で、己と彼に誓った。もう口を利くことのできない彼の墓の前で、揺らぐことのない決意を交わしたのだ。そのことを、ジェイは覚えていないのか。弱く儚きあの命が尽きるその時までは。そうやって己を殺して生きる。その覚悟を、忘れたというのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る