第2話


 目標の民宿の玄関で女将に声をかけ、案内を待つ間、辺りを見回していた。

 魚拓や釣り道具が、海の近くの民宿らしく飾られている。絵画もいくつか飾られていた。それはここの景色を描いたものだと、土岐子は真新しい記憶からすぐに察した。


 にわかに外が騒がしくなったかと思うと、ちょうど布張りのキャンバスを持って、数名の男女が民宿に入ってきた。ピンク色や、黄色、水色に塗られたキャンバスに、鉛筆で何か描かれている。うち一人は、土岐子が注視しているのに気づき、そっとキャンバスを隠した。声の高さや、同じジャージ姿をしていることから、学生だとアタリがついた。


 改めて客の名を書いた黒板を見れば、学校の名前らしきものがちらほらあった。引率の教師らしき男が、騒がしい学生たちをこちらに挨拶させる。

 玄関にいた土岐子や他の客たちはまばらに挨拶を返した。壁にキャンバスを並べさせて、何やらスプレーを吹きかけていた。挨拶のせいで、視線が集中し、生徒たちは居心地が悪そうだ。

 何をしているのか気になったが「岡村さん」と、名を呼ばれたことで、鑑賞を中断させられた。靴をむき出しの下駄箱にいれると、誘導されるまま後をついていく。案内役は女将ではなく、従業員になっていた。


「うちは、絵を描くひとにも人気でして、よう学生さんもきぃはるんですよ」


 どこか得意げなエプロンをつけたやせた背を見ながら、「そうなんですか」と頷いた。

 暗い廊下、貼られたフローリングは寄る年波には勝てずところどころ浮いて、全体的にぶにゃぶにゃとしていた。土岐子はスリッパを履いていない為に、よりその奇妙な感触を感じることが出来た。スリッパはあったが、誰も履いていなかったので履けなかった。

 厨房に差し掛かる折、学校の調理室や、祖母の家のような酸味と味噌の混じった匂いが鼻についた。そこを過ぎれば、灰色のカーペットになり、障子張りの襖が続く。襖はまばらに閉じられており、陽光が障子の白を透かしカーペットを四角く照らす光に強弱をつけ「入っています」と土岐子にわかりやすく示した。

 しかし例外もいるようで、堂々と開け放っている者もいる。横目で見ると、若い男のようで、紺の甚平を着て、じっとキャンバスに向かっていた。


 土岐子が促されたのは、茶色の木のドアで閉ざされた部屋だった。軋むドアノブをひねり覗けば、数歩分の板張りの廊下と洗面所、そしてその先に和室が控えていた。

 食事は、十八時でよろしいですか、との言葉に、頷けば、ごゆっくり、と気安いお辞儀をして去っていった。

 確認する様にドアを閉じ、鍵を閉めようと試みる。ドアノブの中心についたボタンを押すタイプだったが、どうもボタンが最初から少しばかり中に入り込んでいる上に、ドアの建付けが悪く、中途半端にしか閉まらなかった。

 それでも仰々しく置かれた、四角い透明の石がついた鍵を、土岐子は和室の卓上に置いた。


 障子張りの窓は開け放されており、潮風が入ってくる。窓に近寄ってみると、なるほど視界すべてが海だった。窓の桟に小虫の死骸が埃とわだかまっていた。それとは別に、せり出した木の部分にそっと肘を置く。

 海だ。海は、打ち寄せる岸とその姿がなければ、ただゆったりと揺れているのみでどこまでも茫洋としていた。もう二、三時間ほどすれば日が沈み始め、水面を光で染め影がその波立つさまを浮き彫りにするだろう。

 目を閉じて想像してみる。それは、とても悪くない光景に思えた。しかし、ここからの景色は土岐子になにも連想させなかった。

 

 幼いころ、たしかにここに手を引かれてやってきた。

 しかし、それはいつの事だったか、誰と来てどんな話をしたかなど詳細を描こうとすれば、土岐子の記憶はすべてうたかたの如く消えてしまう。

 ただ、自分の小さな手をはっきりと掴むマニキュアの塗られたマゼンタの指先、それに連なる、削げた様に浮かんだ白い手首の筋から、幾分垂れ下がる様に肉をつけた腕、その皮膚に浮かんだ薄茶の黒子――その情景と――それを確かに自分が見上げていた、その観念だけが残っている。

 女が誰かすらわからなかった。身近な女だと、母が妥当だった。夏の陽が海面に反射するさまが、女にぱちぱちと反射して全容を見せてはくれなかった。

 土岐子の幼少はうつろでいつも朧げだった。環境の原因からではなく単純に生まれ持っての内向的性質によって。

 だがこれは夢想でも非科学的な前世などに由来する既視感でもないと土岐子はそれでも言うことが出来た。それもやはり、彼女が時間の波にたゆたって過ごしていた存在であるゆえだった。

 土岐子のうつろな記憶の中で、この情景、観念だけが鮮明で、色濃く刻みつけられている。

 そして今日、身に受ける潮風も、町並みも、ふと立ち上った情景そのものだ。その事実は、土岐子の記憶に自信をもたらした。潮風にべたつきはじめる肌をそのままに、海を見ていた。

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