第6話 甘夫人の死

 建安十五年の春、私は母の甘夫人とともに、荊州南郡公安城の後宮で暮らしている。

 もうすぐ四歳になる。

 前世の記憶によって、私は近く母が亡くなることを知っている。

 助けたいが、突然の心臓の病で死ぬ。

 どうすることもできない。


 父は危機に際して、妻子を棄てて逃げる人であり、これまでに多くの家族が死んでいった。

 甘夫人も苦難の人生を歩んだ。

 劉備に嫁いだ後、呂布や曹操に捕らえられたことがあり、先の長坂の戦いでは、命からがら逃げ延びた。

 世を儚んでもおかしくはないのに、糜夫人の死後、ただひとり後宮にいる妃として、明るく生きていた。

 私にも、侍女たちにもやさしい人だった。 


「母上、お加減はいかがですか」

「なにも悪いところはありません。おかしな子ですね、阿斗は。わたしはこのように元気であるというのに」

 死の直前まで、母の健康状態に異変は見られなかった。

 だが、長年の心労が、秘かに心臓を傷めていたのだと思う。


「阿斗の四歳の宴を開こう」と父が言った。

「それはよいですね。息子はすくすくと育っています。二歳から書を読み、字を書きました。わたしが言うのも変ですが、賢い子で、将来有望かと存じます」と母は答えた。

「うむ。わしから見ても、阿斗はできすぎた子じゃ。このまま成長してくれれば、自信を持って太子にできよう」

「父上、母上、ありがたいお言葉です。しかし、私はまだまだ未熟です。父上を見習い、寛容な心を養いたいと思っております」

「阿斗が未熟なのはあたりまえじゃ。四歳にして成熟していては、化け物かと思うわい」

「化け物にはなりたくありません。母上のようにやさしい人間になりたいです」

「よしよし。なにはともあれ、宴を開こう。阿斗の成長の祝いであるが、荊州獲得の苦労をわかちあった者たちへのねぎらいの意味もある」

「父上、母上、ふたつお願いがございます」

「なんじゃ、言ってみよ」

「宴で、母上にごあいさつしていただきたいのです。母上は後宮にいて、群臣に言葉をかける機会を持ちません。たまには、そのお話を皆で聞いてみたいと思うのです」

「阿斗、わたしは皆の前で話すなんて嫌ですよ。あいさつなどできる柄ではありませぬ」

「母上、ぜひともお願いします」

 私は、これが母と劉備の臣下との最後の会見になることを知っているのだ。

「妃よ、わしからも頼もう。おまえの想いを、皆の前で言ってみよ。なにを語ろうとかまわん」

 母は首を傾げていたが、やがてうなずいた。

「それでは、皆様への感謝の想いを告げさせていただくことにしましょう」

「阿斗よ、もうひとつの願いとはなんじゃ」

「それでは申し上げます。大人だけでなく、子どもも呼んでもらいたいのです。私は、将来、私と苦難をともにしてくれるかもしれない者と友情を育みたいと思っております。関羽殿、張飛殿、趙雲殿らのご子息を宴に参加させてください。また、女子ではありますが、長坂で母と私を救ってくれた張哀を呼んでいただきたいと存じます」

「その心やよし。ぜひそのようにするであろう」

 父はにっこりと笑って、後宮から出ていった。


 宴は、公安城の中庭で、真昼から行われた。

 出席者の顔触れは次のとおり。

 関羽、張飛、趙雲、麋竺、糜芳、孫乾、簡雍ら劉備の長年の忠臣たち。

 諸葛亮、龐統、劉封、黄忠、魏延、廖立ら新野以後に得た良臣たち。

 関平、関興、張苞、張紹、張哀、趙統、趙広ら群臣の子女たち。

 明るい陽光の下での楽しい宴となった。

 大人は酒を飲み、子どもは果汁を飲んだ。

 牛をつぶし、焼いた肉がふるまわれた。


 宴会の冒頭で、劉備があいさつした。

「皆の者、本日はよく参集してくれた。礼を言う。この宴は、我が子阿斗の四歳の祝賀であるとともに、皆の日頃の苦労に対するねぎらいでもある。大いに飲み、食い、英気を養ってもらいたい。皆の働きにより、わしは荊州を得た。この地は、曹操の意のままにされている漢の帝室を再興させるための基地として使うのであり、けっしてわしが富貴を楽しむためにあるわけではない。いままでそうであったように、わしはこれからも質素倹約をしていきたいと思っておる。我が命は天下万民のためにある。そのことを皆も心にとどめて、これからもわしを助けてほしい」

 父は上機嫌で笑っている。

 劉備が好きでたまらない群臣たちもにこやかである。


 宴の司会は、諸葛亮がつとめた。

「本日は珍しくも、甘夫人様がご出席されております。お言葉をいただきたいと存じます」 

 父の隣に座っている母が立ち上がり、優雅に一礼した。

 今年で三十五歳になるが、その美しい容色に衰えはない。あと数日で死んでしまうとは、信じられないほどだ。

「皆様、劉備を助けてくださり、ありがとうございます。いま思い出されるのは、夫とともに歩んだ日々です。苦しい歳月ではありましたが、振り返ると、楽しく、美しくも感じられるのです。それはひとえに、皆様とともに、正しい道を歩み、進んできたからだと思います。後漢王朝は危機にありますが、荊州に劉家があり、希望はついえてはおりません。劉備と阿斗は悪心を持つことなく、これからも正道を歩んでいくとわたしは信じております。皆様、これからも夫と子を支えてくださるよう、よろしくお願いいたします」

 母の声は中庭によく通った。列席の人々は拍手を送った。

 このあいさつが、甘夫人の皆への遺言となった。


「それでは次に、本日の主役である阿斗様からも、お言葉をいただきます」

「えっ、私もあいさつをするのですか」

「ぜひ、お願いいたします」

 諸葛亮は微笑み、羽毛扇を軽く振った。

「それでは、軍師殿からの依頼でありますので、私からもごあいさつをさせていただきます。まずは、私の誕生日の祝いにご出席くださり、深く御礼申し上げます。どうもありがとうございます。私は、父が荊州を得たことは、単なる出発点だと考えております。この後、父は必ずやさらなる躍進を遂げ、曹操に痛撃を食らわすときが来ると確信しております。漢の天子をしいたげる賊を倒し、天下を安らかにすることは、劉家の使命なのです。私は政治、軍事、経済を学び、父の王道を助けたいと思っています。長坂の戦いで、趙雲殿と張哀殿、そして張飛殿に命を救われました。一度は亡くしたも同然の命です。無私の心を持って、天下万民のために尽くしていく所存です」と私は言った。

「四歳のお子の言葉とは思えないほど立派だ。阿斗様は神童か」と言う誰かの声が聞こえた。

 張飛と趙雲は誇らしげに笑い、張哀は頬を紅潮させていた。


 宴会は大いに盛り上がり、夜までつづいた。

 私は張哀と語り合い、関羽、張飛、趙雲の子らとも話した。

 重臣たちとの意見交換も行った。

 閉会のときに、父が言った。

「阿斗は幼くはあるが、その精神は成人しているに近い。これからは劉禅と名乗るがよい。皆も、劉禅をよく教え、導いてやってほしい」


 宴の七日後、甘夫人は苦しげに胸を押さえて倒れた。

 意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。

 覚悟していたことではあるが、私はわあわあと泣き喚いた。

 もっと長生きして、蜀の国の誕生や皇帝となった私を見てほしかった。

 母の生はけっして無駄でも徒労でもなかったと確信してから、天へ旅立っていただきたかった。

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