5.妖精の『番』
最初の勢いはどうしたのか、掌の上のネージュはただひたすらにしくしくと泣いている。その姿にミシェルは胸が痛くなった。
「……ごめんね、ネージュ。この間は帰ることに夢中で、あなたに挨拶もできなくて……」
「…………」
ぴくん、と震えたものの、ネージュはまだ顔を俯かせたまま泣いている。
「でも、これからはずっとここにいるわ」
「…………本当?」
「ええ、本当。レイモン様に嫁ぐことになったの。だから、毎日でも会えるわ」
「…………もう離れない? 嘘ついちゃ、いやよ?」
ネージュはちらりとミシェルをうかがって、恐る恐るという感じで問いかける。
「本当よ。約束するわ」
「……絶対に絶対に、約束だからね! わたし、ミシェルがいなきゃ死んじゃうんだからね! ずぅっとずぅっと一緒よ」
そう叫ぶと、ネージュは再びミシェルの顔に飛びついて泣き始める。先ほどと違って頬に縋るようだ。その身体を優しく撫でながらネージュの可愛らしい泣き言を聞いてやる。
(名前をつけてあげただけなのに、こんなになついてくれるなんて……ネージュ、可愛い……)
泣いている彼女には申し訳ないと思いながらも、ミシェルは頬が緩む。
「……話はついたようですね」
声をかけられて、ミシェルはぱっと顔を上げる。そこにはいつの間にか、銀髪の人々がたくさん集まってきており、御者の人も移動していて空気の裂け目に収納した馬車もすでに出されていた。
「すみません、来たばかりなのに」
「いえ、ネージュはこの一週間、ずっと待っていましたからね。大丈夫ですよ」
レイモンは微笑んでから、ミシェルの隣に立ち、集まった人たちに向きなおる。すると集団の中から高年の男女が進み出てきた。
「あなたがミシェルさんですね。世界樹の守り手、アルブルの一族へようこそ。レイモンの花嫁としてあなたを歓迎します」
男性が穏やかに告げ、女性はそれを微笑を浮かべて並んでいる。
(どこかで見たような雰囲気の方だわ……?)
「よろしくお願いいたします」
ミシェルが相手がわからないながらも、礼をとって挨拶すると、レイモンは少し困ったような顔になった。
「大仰な迎えはなしにしましょうと言ったではありませんか、父上」
「そうは言っても、お前がやっと嫁を迎えるのだからな。皆、お前の嫁を見たがって勝手に集まったのだ。仕方あるまいよ」
男性が笑う表情に、ミシェルは内心で「あ」と驚く。見たことがあるような気がしたのは当然だろう。男性はレイモンによく似ているのだ。恐らく隣の女性はレイモンの母だろう。
(親子そろって、お母様もとってもお綺麗な方だわ……)
「だからといって……」
「ごめんなさいね、ミシェルさん。こんなに人が集まっていたら緊張するでしょう。でもみんな、あなたに会えるのを楽しみにしていたの。このあと、歓迎パーティーをするのだけれど……大丈夫かしら?」
レイモンの母が気づかわしげな表情で問いかける。ここで断る馬鹿はいない。
「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いします」
緊張しながらもう一度挨拶して、ミシェルは守り手たちの熱い歓迎を受けることになった。
***
歓迎のパーティーは世界樹から少し離れた守り手の街の広場で行われている。一般的な貴族の館のようなパーティーホールはここにはないのだろう。守り手の里は、広く長く広がった世界樹の枝の下に、守り手たちの住む家がいくつも建てられており、建築様式が煉瓦ではなく木材を基本としているところや足元が石畳でなく腐葉土であること以外は、普通の街並みと変わらないように思える。広場まで歩いて移動してみた限り、小さいながらも店などもあるようだった。
ミシェルは勝手に小説の中に出てくる小規模の隠れ里のようなものを想像していたが、どちらかということここは都市である。集まってきている人々も、守り手の者全員が来ているわけではなく、レイモンやその両親に近しい者たちのようだった。とはいえ、大人数であることは間違いないのだが。
迎えを大仰にするな、とレイモンは言っていたようだが、どう考えてもこのパーティーは用意周到だ。広場にはテーブルがいくつも出され、所せましとご馳走が並べられている。
レイモンやその母の言葉通り、里の者たちは皆、ミシェルに好意的だった。ミシェルは中央のテーブルに座らされ、次々と挨拶に来る人たちは口々に彼女を歓迎する言葉を告げていった。挨拶に来るのは人間だけでなく、妖精たちも次々とミシェルを見に来ていた。彼らは夜になれば世界樹の枝先で眠るらしく、日暮れと共に寝に帰っている。
(小説とか読むと、よそ者には厳しいっていうのをよく見るのに……降って湧いた縁談だったのに、ありがたいことだわ)
そう思いながらレティシアは人々があれもこれもと運んでくる食事に舌つづみを打っている。
「……どうにも騒がしくてすみません」
そう言ったのは、ミシェルの隣で次々と来る人たちをミシェルに紹介していたレイモンだ。ひとしきりの人の波が終わり、人々は思い思いに飲み交わしている。ちなみにネージュも他の妖精と同様に寝ているが、頑なにミシェルと離れようとしなかったので、彼女の膝の上である。
「賑やかなのは楽しいですよ」
「……ミシェル嬢はずいぶんおおらかですね……」
げんなりとレイモンが言うのはもっともだろう。彼は来る人来る人に様々にからかわれていたのだ。中でも多かったのは、「やっと見つけた嫁が、美人でよかったなあ!」というものだった。レイモンは相当長い間婚約者を探していたらしく、ようやく嫁を迎えることを、誰もが喜んでいて、『十五歳のころから婚約者を探し始めて、もう十年だ!』と言われた時にはミシェルは思わずレイモンの顔をまじまじと見つめてしまった。実を言えば、その会話で初めて、彼が今二十五歳なのだと知った。
(よくよく考えたら、私、レイモン様のことを、名前と守り手であるってことしか知らないんだわ……)
そのことを思うと、ミシェルはなんだかおかしく思える。だが、不思議と悪い気はしない。
(でも相手のことを何一つ知らないで嫁ぐことなんて、貴族の中ではよくあることだもの。知らないことはこれから知っていけばいいんだわ。それに……)
「本当はこんな騒ぎになるはずではなかったんですが……。初めて会う者ばかりで気疲れするでしょう。疲れたら遠慮なく言ってください」
自身もからかわれて疲れているだろうに、レイモンは気づかわしげにミシェルに言う。その彼にふるふると首を振って、ミシェルは微笑んだ。
(それに、この短期間でもレイモン様は優しい方だっていうのはわかるもの)
「大丈夫ですよ。でも、ありがとうございます。主役が退場しては興醒めですし、まだここにいましょう」
「そうですか……では、先ほど馬車の中で話していた続きをしてもいいですか?」
はあ、とため息を吐きつつも、レイモンはもう頭を切り替えたらしい。
「お願いします」
(私を婚約者に選んだ理由の話よね?)
「……実は、そこにいるネージュは、貴女を『番』に選びました」
「つがい」
婚約の話かと思えば妖精の話で、ミシェルはぱちくるとまばたきする。その単語は、そういえば名付けたときにネージュが口走っていた。
「妖精は生まれてから死ぬまで、名前を持ちません。人に名前を与えられ、それを受け入れない限り。妖精は自分の『番』にしたいと思った相手から名前をもらうのです」
(でも番って……)
「夫婦になるんですか?」
番とはそういう意味だったはずだ。だが、レイモンは首を振った。
「妖精は通常の生き物のあり方と違いますからね。気まぐれに人を選び、そして名前を与えられれば、その気まぐれさとは真逆に一生をその人間に捧げます」
「それはどういう……」
意味を捉えかねて、ミシェルが首を傾げると、レイモンは膝の上のネージュに目を移して真剣な眼差しになった。
「貴女が名前を与えたそのネージュは、ミシェル嬢のそばにいることを至上の幸福とし、離れることを何よりも辛いものと受け止め、ときにはその辛さゆえに消滅もします」
「え……」
「番とはそういうものです」
ミシェルは呆然とする。
名前を付けて欲しい、とねだられたから軽い気持ちでつけた。たったそれだけのことがネージュをミシェルに縛りつけたのだ。ネージュに名前をつけてから今日まで、ミシェルは引越しの準備で慌ただしくしていて、ネージュのことを忘れていたときももちろんあった。だというのに、ネージュはその間、番がそばにいない苦しみで彼女の言葉通りずっと泣き暮らしていたのだろう。頑なに今そばを離れようとしないのも、これからは一緒にいるということを念入りに確認したのも、ネージュにとってミシェルがなくてはならない存在だったからだ。
膝の上ですうすうと寝息をたてているネージュは、穏やかな顔をしている。だが目は腫れていて痛々しかった。それもこれも全て、ミシェルがネージュのそばから離れたせいなのだと思うと、罪悪感でミシェルは胸が痛む。
(私が、名前をつけたりなんかしなければ……)
こんなにネージュが苦しむことはなかったのに。
「……私は、とんでもないことを……」
「いいえ、とんでもないことをしたのはトネールとネージュですよ。全く」
暗く呟いたミシェルに反して、レイモンは口をぎゅっと引き結んで、ネージュを見ている。
「……ネージュはこの森で暮らさねばなりませんが、番になった以上、ミシェル嬢と離れて暮らすわけにはいきませんからね。かと言って、未婚のご令嬢をただこの里に移住させるわけにもいかない。だからどうしようかと思っていたのですが……聞けば貴女は婚約者を探していたようですし、僕もちょうど貴女のような女性を探していましたし、具合がいいということで貴女を婚約者に選んだのです。婚姻の形が誰にとっても一番いいでしょうから」
「ええと……?」
(私みたいな人を探していた……? って婚約者を探していたってこと?)
急に饒舌に語り始めたレイモンに困惑しながら、ミシェルが返すべき言葉を探しているうちに、レイモンは次々と言葉を重ねる。
「本当は、妖精に名前を与えるということが、どんな意味を持つのか、きちんと説明してから番にならないといけないのです。それを騙しうちするような形で名前をつけさせて……トネールは、貴女をここに縛りつけるためにネージュの名前をつけさせたんですよ。そうすれば僕が求婚すると思って……」
「そ、そうなんですね……?」
とんでもないことを言われているような気がするが、何しろレイモンの圧が強くてなかなか口を挟めない。
(さっきまで穏やかだったのに、レイモン様はどうされたの……?)
「信じられない狡猾さでしょう? トネールには呆れます。しかし……」
そこで言葉をやっと区切って、レイモンはまじまじとミシェルを見つめて、ふっと笑む。
「貴女はとても可愛らしいですから、トネールの気持ちもわからなくはないです。それにしたって強引すぎるでしょうに」
「……あ、の……レイモン、様……?」
心なしかレイモンの顔がミシェルに近づきすぎているような気がする。
「なんでしょうか。ああ、貴女の瞳は僕たちと同じなのに、髪はなんとも優しい色で本当に、かわい、らしい……」
ぐらり、と傾き、そのままレイモンの身体がミシェルに寄りかかってくる。
「レイモン様……!」
「ミシェ……」
肩に乗った彼の頭をどうしていいか考え、ぎゅっと目を閉じた次の瞬間、がたん、と音をたててレイモンが椅子から転げ落ちた。
「……レイモン様……?」
呆然と呟いておそるおそる椅子の下を見れば、真っ青な顔をしたレイモンがひっくり返っている。
「おーい! レイモンが倒れたぞ!」
「なんだ、飲み過ぎたのか?」
「いくら飲んでも顔色が変わらねえやつは仕方ねえなあ」
口々に言いながら、里の者たちが集まってくる。途端に、ミシェルの心臓がドっと跳ねる。
(……なんだ、酔っぱらってたのね……)
真意を測りかねるミシェルだったが、翌日「粗相をしてすみません」と謝りながら
「僕は何を話していましたか?」と聞いてきた彼に、最後に口走っていた内容を伝える勇気がミシェルにはないのだった。
こうして、婚礼はまだ済んでいないものの、ミシェルの新しい生活が始まったのである。
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