冒険の女神


「ニケ……? 冒険の女神の?」


 母さんが俺に振り返り尋ねてきたので、俺は首肯した。


「ごめん、今ようやくアクシノが教えた。ニケだってさ、アレ」

! ダメよカッシェ、神様には『様』をつけなさい!」


 俺を怒鳴りつけながら母さんはスライディング気味に土下座したが——俺はそんなことするつもりはねえ。


 ——マジかよ。あの赤毛の人、偉大なる()ファレシラ()の同類なの?


 うんざりした気持ちと同時に警戒する気持ちを抱え、俺は冒険の女神ニケから距離を取った。


「にゃ。びっくり。ニケさまが来た。ミケは眠っていないのに!」


 三毛猫がニケに抱きつきながら言った。赤毛の女神は大らかに微笑んでみせ、どこか偉そうな感じのする声で三毛猫に返事をした。


「ふむ、そうだな。いつもはおまえの夢枕に現れてシバいてるわたしだが、最近、叡智のナンチャラがこの村で調子に乗ってると聞いてな。てことでわたしが参上だッ!」

「ニケさまー☆」

「はっはっは! ういやつめ!」


 女神ニケは三毛猫に抱きつかれたまま仁王立ちで高笑いを上げた。普段アクシノの怜悧な声ばかり聞いているせいかな。俺にはどうも、それが知性を感じない笑いと言いますか……あの女神、女神の割に馬鹿なんじゃねと言いますか。


 そんな感覚は正解だったらしい。


 女神ニケは、オレンジと茶と白の髪を持つ子猫の頭を偉そうに撫で、指先で真っ黒な三角耳をクニクニといじって子猫をモフったのだが、


「うむうむ……む? おいおまえ、わたしを抱きしめる力が強くないか? ……やんのかこら」

「……ミケは無実。なんのことかわからない。七歳児にはむずかしい……」

「とぼけるな。なんだ? いつも寝ているおまえの夢枕に立って蹴飛ばしてきた仕返しのつもりか?」

「……子猫はねるのが仕事なのに。キサマのおかげでミケはいつもねむたい……」

「——へえ、やる気かよ? 受けて立つぞ」


〈——遁法:岩石落とし——〉


 唐突に戦闘が始まった。


 三毛猫のミケは女神の胴体を持ち上げてバックドロップを決めようとしたが、女神は豪快に笑いながら軽く身をひねった。ミケはそれだけで振りほどかれ、森の木々をなぎ倒しながら飛ばされてしまう。青い壁——HPが三毛猫を守ったので無傷だが、木々の枝で休んでいた鳥たちが一斉に悲鳴を上げた。


「ミケ、だめ! 今のでもうHPが無い!」


 母が叫んだが無駄だった。


〈——冒険術:冒険——〉


 倒木を押しのけてミケがゆらりと立ち上がり、


「ほほう? わたしの加護でわたしに挑むのか」

「……ッシャー!」


 ミケはレイピアを構え、目で追えない速さで突きを繰り出した。


〈——むくろ細剣術:平突き——〉


 俺も使えるこのスキルは刃を敵と水平にして突き出す技で、相手の胸に決めれば最後、刃は水平に並んだ肋骨の合間を骨に邪魔されることなく突き進み、心臓を貫く殺人術だ。


「児戯だな。所詮は七歳か」


 女神を青いHPの壁が守り、三毛猫のレイピアは簡単に折れ、割れて、鍔と持ち手だけを残して崩れてしまった。ミケが悔しそうにつぶやく。


「……にゃ。HPずるい」

「おまえにも2点与えてるだろ」

「ミケの不覚だった……よもや女神にも壁があるとは」

「覚悟はいいか?」

「にゃ……そのうち倒す。そして子猫は惰眠をむさぼるのだ……」

「惰眠とか、意味わかって言ってんのかおまえ」

「にゃ?」


 冒険の女神が右手を狐のようにした。デコピンの構えだ。トン、と軽く額を打たれたミケは吹き飛ばされ、大木に胴体をめり込ませながら気絶してしまった。HPの壁は残っていない。ミケは腕や足に切り傷を作り、血を流した。


「ミケ!」


 母が慌てて子猫に駆け寄る。走りながら「愉快ゆかいの男神、ムリアフバよ……」と詠唱し、気絶しているミケの体を暖色系の柔らかな光が包んだ。


「心配するな、わたし直属の眷属がその程度で死ぬかよ。ミケの〈防御〉は把握している」


 女神ニケはその様子をつまらなそうに見たあと——エッ、なんですか。ボクはなんにもしてませんけど? ——理不尽にも俺を睨んだ!?


「……おまえだな。カオ……カオ……なんだっけ? ——とにかくカオ・ナントカだ。ファレシラ様と叡智のアレに守られてる奴!」


 鋭い視線から顔をそむけ、俺は「森のク●さん」の口笛を吹いて知らないふりをしてみた。お約束なのでそうしただけだったのだが——意外なことに、それは効果的だった。


〈——偉大なる歌の女神ファレシラが耳慣れない異星の曲を喜びました。それを口実とし、でしゃばった脳筋のアホが制限を受けます——〉


 叡智のアクシノが少し得意げにアナウンスを響かせ、冒険のニケが叫んだ。


「な!? ちょ、やめろよ! ねえ、ちょっとふざけただけじゃん! アクシノはずるい……いつもそうやって歌様に取り入って……!」


 冒険の女神が地面から突如現れた触手に捉えられた。触手はどれも蛇のように見え——いや、実際蛇だ。地面から生えて来た蛇たちは女神に絡みつき、ギリシャ風の白いローブを締め上げて女神の豊満な凹凸を強調した。


 締め上げられた冒険さんは「んあっ♡」とエロい吐息を吐いて……まあ、怪我したミケが心配じゃなければ俺はその様子をじっくり鑑賞したのだけれど。


「やめさせろよアクシノ! てめえ、いっつもわたしとか剣&拳ケンケンを馬鹿だのアホだの……最近じゃ、そこのガキから『脳筋』って言葉を覚えてわたしらを見くびりやがって……! おまえなんか、冒険者の間じゃ『あったら便利な鑑定さん』だろ? 魔物の情報をどれだけ得ても、最後は戦わなきゃこの世界からダンジョンは無くならないんだよっ!」


 母さんから回復魔法を受けたミケが目を覚ました。いつもの眠たげな目で俺や母を視認し、蛇に巻かれたニケを見て目を見開く。


「おお、夢魔ニケさま()が簀巻き……w」

「てめっ……眷属のくせに笑いやがったなーーーーッ!?」

「気のせい。無垢な子猫の微笑みは、いつだって偉大なる()ニケさまのため……☆」

「つまり、やっぱりわたしを笑ってるじゃねえか!」

「にゃ?」

「小首をかしげて誤魔化そうとするな、雑魚猫が!」


 冒険の神()は怒り狂って暴れたが、縛られたまま動こうとするので、その姿はまな板の上の鯉に似ていた。


 それまで森を包んでいた緊張感が霧散し、白けた雰囲気になる。


「……危険は無いみたいね、縛られてるし……無いわよね?」


 突如として降臨した冒険さん()に青ざめていた母さんも、ミケと脳筋女神のやりとりを見て硬かった表情をやわらげる。


 ——そして、そんな子猫と冒険()のやり取りは、俺の中のミケの評価を変えていた。


(ミケのやつ……あいつもずっと、俺と同じような感じだったのか?)


 俺は今日まで自分の境遇を不幸だと思っていたし、ウユギワ村に俺より悲惨な奴は居ないと思い込んでいた。


 俺に協力的なアクシノはともかくとして、女神ファレシラのせいでこの村に転生した俺は、ゼロ歳児にしてクエストを「やれ」と強制され、できなければ〈存在否定〉という天罰を受け……そんな試練を乗り越えた後も、今日まで七年も〈次の試練〉のために努力してきた。


 頑張らないとなにをされるかわからなかったからだ。


 両親はもちろん村の全員はあの邪神を「世界神」として信仰しているが、俺に言わせりゃカルトだあんなの。あの邪神は俺にHPという加護を与えてはいる。でも、だからなんだ?


 あいつは俺の命や両親の命を天秤に乗せてクエストを達成しろと言うが、その試練の報酬は「死ななくて済む」「天罰を回避できる」というだけだ。ゼロ歳で受けた最初のクエストも、今、俺が達成しようとしているクエストも、報酬という点ではまったく同じだ。


 ——生き残れるというだけ。


 これで、俺が転生者でなければ「死なないで済む」ということに価値を見いだせたかもしれない。だけど俺は死んでいる。一回死んだ俺にとって「自分が死なない」は褒美とはいえず、俺は今、ただ「親が死ぬのを見たくない」という気持ちだけで努力している。


 ここは神の実在を確信できる世界ではあるが、俺にとってファレシラは崇拝の対象にならないし、叡智アクシノだって脅迫行為の共犯者という点では同じだ。


 女神どもはムカつく。いや、男の神もいるそうだから「神々はムカつく」と言うべきか。


 そして、そんな気持ちを抱えているのは俺だけだと思い込んでいた。


 俺にとってあの三毛猫は姪っ子のような存在で——実際、母方の親戚だし——にゃーにゃー言うだけのお隣さんで、HPが3もある俺の対戦相手になってくれる便利な隣人だったのだが。


「いいから歌様の蛇を解くのを手伝え。おまえはわたしの眷属だろ、雑魚猫!」

「雑魚……そんなにゆうなら、ついに子猫も黙っていない」


 冒険()と口喧嘩していたミケが言い放った。


「……ほほう? おまえのような雑魚にこれほどの加護を与えてやっているわたしに、なにか文句があるのか」


 冒険の女神さんは尊大な態度だが、依然として蛇に絡まれ簀巻き状態だ。


「にゃ。ミケを馬鹿にするならゆってやる」

「へえ? いいぞ言え。わたしの加護になにか不満か?」

「にゃ。ゆってやる……ニケさまの加護を受けたはずの三毛猫は……ミケは、ずっと、そこのカッシェより弱い」

「……ほう?」


 ミケは悔しそうで、俺のほうを見ずに言った。


「村の人が言う。カッシェはファレシラ様の加護。ミケよりすごい。ママが言う。カッシェの鑑定はすごすぎる。パパも言う。カッシェのHPは3もあって羨ましい。二人とも、いつもカッシェがすごいと褒める。ミケより強い子だと言う。生まれたときからずっと……」

「……ふむ」

「ミケがウユギワの迷宮ダンジョンで冒険したいとゆっても、カッシェより弱いからダメだと言う。ミケは蜂の女王を殺してないし、ミケは黒豚を殺してないから。ミケは子猫だから、まだ『冒険』しちゃいけないって」


 七歳の子猫は柄だけが残ったレイピアを放り投げた。


「知恵の足りない冒険の女神に教えておく。ファレシラ様はおまえより強い。HPを3点もくれる。叡智のアクシノ様だって冒険より強い。鑑定で、大事なHPが無駄に無くならないよう助言してくれる。

 だけど冒険のニケ……おまえはミケと同じ。虎の前で唸ってるだけの子猫。弱い子猫。おまえは、歌様や叡智様ほどミケを強くしてくれない」

「……言ったな、雑魚猫。今さら冗談と誤魔化そうとしても、もう取り消しは許さないぞ」

「七つの子猫はまだ嘘を知らない」

「どの口が言うかね……二年も屁理屈アクシノの〈神託〉を受け続けたせいか?」


〈——うわ、聞いたかカオス。ワタシあの子に加護を与えたくなってきたぞ?〉


 と、そこでアクシノの声が脳内に割り込んできた。


〈ずいぶん過激な悪口じゃないか。あの子猫にこれほど口が回るような知性のステータスは——ああ、そうか! あの子猫は今、〈冒険〉スキルのおかげで知性が三倍だ!

 ……ふははは、面白い! 叡智たるワタシを驚かせるとは。まあ、脳筋女神の眷属になんて加護はあげないけどな!〉

(え、なにそれひどい)


 大喜びの叡智さんの声は、加護を受けている俺以外には聞こえない。


「——いいだろう、わたしの子ミケよ。そんなに言うなら貴様に〈試練〉を与えてやる」


 蛇で簀巻きの冒険さん()が偉そうに唸った。


「にゃ……?」

「——そんな!? 引き受けちゃダメよ、ミケ!」


 母さんが割り込んだが、ミケもニケも聞いていない。


「貴様に下すのは神の試練だ、簡単だとは思うなよ? しかしこの壁を乗り越えて見せるなら……そうだな、わたしがファレシラ様に頼んで、おまえにもうひとつ〈壁〉をやろう。HPを増やしてやる!」

「にゃ……? それは叡智の加護を持つカッシェから〈鑑定〉を分けてもらわないと、すぐに無くなる壁()のこと?」

「なんだとこのガキ」

「子猫の口はもはや止まらない。壁は強いけど、当たったらすぐに無くなるゴミ能力w」

「貴様……!」


 ニケは両腕を広げようとした。彼女を束縛しているファレシラの蛇がミシミシと音を立て、蛇たちが涙目になる。


 冒険の女神は怒鳴った。


「〜〜〜〜我慢ならん! 耐えられん! 猫に奇跡を与えてやった、HPという神聖な宝をだ! しかしその猫はさらなる加護を求める! ——HPですら不満というなら、凄まじい試練を与えるぞ!?」

「もとより子猫はそのつもり。ニケ様はミケに冒険の力をくれた。でも、カッシェを見てると、子猫には冒険の力が足りていないと思う。——代償は命? 命ならあげる。

 冒険の女神は、ミケに今よりもっと『冒険』をさせるべき。ミケは……わたしは、カッシェに負けたくない。カッシェばっかり褒める両親を見返す!」

「……ははは!」


 ニケが嬉しそうに蛇の群れを引きちぎり、立ち上がった。右手の人差指に怪しい闘気を纏った赤い爪が細長く伸びていて、赤い爪は軽く、たやすく蛇を引き裂いた。


 ——それまでずっと、動けなかったのに……?


 俺はその光景に作為的なものを感じた。ゼロ歳の時、〈鑑定〉の使い道を自力で思いついたときと同種の雰囲気だ。俺は歌のアレと叡智のアレに少しずつヒントを与えられ、そうなるように誘導されて——……?


〈子猫に加護をやらないワタシをひどいと思うかい、カオスシェイド? あの猫はすでに三柱もの神から力を得てるのに〉


 ——この予感はたぶん、気のせいじゃねえ。


「よかろうッ、ならば『冒険』だ!」

「みゃ!」


 幼馴染の三毛猫の少女は、ニヤつくニケの口車に乗せられていた。


「試練だ。そこのカオ・ナンチャラとウユギワ・ダンジョンに潜り、今から7日以内に、最下層にいるボスをぶち殺してこい! ——それができたら良いものをくれてやる。これだ」


 冒険の女神は自分の指に生えた赤い爪を口で引き抜き、真紅の三日月刀のように見えるそれを上空へぽいっと放り投げた。爪は空中で光の泡になり消えてしまう。


「ウユギワ迷宮の最下層に今、冒険の女神たるわたしの爪を置いた。冒険者らの女神たる、このわたしの〈武器〉をだ! ダンジョン・ボスをぬっ殺すついでに、そこのカオ・ナンチャラとわたしの爪を探せ」


 赤毛の女神は子猫に怪しく笑った。


「……昏い迷宮でお宝探しさ。まさに『冒険』的だろう?」


 この七年、なにも無かった俺の時間が唐突に動き始めた。森を一陣の熱い風が吹き抜け、木の葉に煽られ俺たちは目を閉じた。


 気がつくと赤毛の女神は消えていた。



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