神はおわします、と悪役令嬢は言った。

古倉慎

1

「リーゼロッテ・アルトマイアー侯爵令嬢! 貴様に王家への反逆に共謀した疑いがかかっている」


 酷薄な声だった。面と向かっていなければ、きっと婚約者の声だとはすぐには認識できなかっただろう。昼食時のカフェテリアに、その声は高らかに響いた。

 どうしたものかしらと、ざわつく生徒たちに心中でため息をつく。同席している友人に会釈をして、ゆっくりと立ち上がる。内心の呆れなどおくびにも出さずに、彼らに最敬礼のカーテシーをした。


「殿下。お言葉ですが、私には身に覚えがありませんわ」


 その言葉が気に食わなかったのか、エメリヒ殿下は秀麗な顔立ちを不愉快そうに歪める。その横に所在無さげに立っていた少女が、怯えたように殿下の腕に縋り付く力を強めた。最近子爵家に養女に迎えられたという話を聞いていたけれど、マナーや振る舞いに関しては教育中といったところか。


「よくもそんなことを言えたな。貴様の厚顔さには一周回って感心する」

「お褒めの言葉を頂き、光栄ですわ。これでも私、動揺していますの」


 どうだか、と殿下は鼻で笑ってしまったけれど、確かに前でそっと組んだ手の震えは抑えきれていない。きっと誰にも見とめられることはないだろう。


「度重なるフローラへの嫌がらせはまだしも、此度は流石に言い逃れはできぬぞ」


 殿下の合図で、背後に控えていた騎士たちが私を取り囲む。無遠慮に腕を掴まれたりしなかっただけ、ましというべきなのだろうか。従者のファウストが、彼らとの間に入るように私の肩を支えた。それに多少安堵したものの、背後に立つ彼の表情は読めない。


「最後に一つだけ、よろしいでしょうか」


 胡乱げな表情だったが、早くしろとでも言うように顎をしゃくる。王太子らしからぬ仕草を少し前の自分であったなら正そうとしただろうが、今はもう落胆の情しか浮かばない。


「ありがとうございます、―――皆様!」


 それは水を打ったように、その場へ静寂を落とした。くるりと殿下へ踵を返し、騎士たちの間から見える人々へと顔を向ける。


「憩いの場であるはずのカフェテリアで、このような騒ぎを起こしてしまって。申し訳ありません」


 片足を軽く後ろに引き、制服のスカートを軽く摘まんで頭を下げた。殿下に対するそれよりも体を深く落としたことを、何人が気付くだろうか。


「ただこれだけは伝えさせて頂きたいの。私、アルトマイアーの名に誓ってそのようなことはしていませんわ」


 白い牛乳にインクを一滴垂らしたら、もう二度と元の純白には戻れない。私はその一滴を垂らすだけでいいと、あれは言っていた。少なくとも最近の殿下の振る舞いは、戯れでは済まされないものであった。彼らは、それをよく知っている。平民の娘への嫌がらせを全て私に擦り付けられたのは腹に据えかねる出来事だったが、腹芸が苦手だった私の責でもあった。


 そっと顔を上げると、誰もが迷うようにこちらを伺っている。それでいい、今は。


「例え真実を誰かが覆い隠そうとしていても、すぐに暴かれるでしょう」


 王妃教育は私に、嬉しくなくても笑うことを教えてくれた。この数年で、その笑顔に更に別の感情を持たせることを覚えた。私が本当の笑顔で笑っていれば、こんな日は来なかったのだろうか。


 口角を上げる。目尻を下げる。今できる最高の笑顔でここを去ろう。


「神はおわします」


 これが私の、一つ目の嘘だ。



「もういいだろう! 連れていけ!」


 焦れたように殿下が叫ぶ。騎士たちに囲まれたまま歩き出した。廊下を抜け、いつもと見え方の違う学舎を通り過ぎる。刺さる視線が痛い。こんな注目の浴び方があるのなら、殿下を抜いて座学の試験で首席を取ったことなど些末なことだった。


「相変わらず、礼儀作法は一級品だったな。知識のない俺から見ても、存外美しく見えるものだ」

「王妃教育の賜物よ。無駄になってしまったけれど」


 背後からくつくつと笑い声が続いて、ひやひやとした気持ちになる。勿論顔には出さないけれど。私の声も彼の声も、周りには聞こえていないようだった。

 玄関ホールを抜けると、まるで檻のように無機質な馬車が停めてある。疑い、という体で同行したというのだから、もう少し体裁を守ってほしいものだ。きっと殿下の中ではもう確定事項なのだろう。

 アルトマイアー侯爵家当主のお父様に会えるかどうかも、今は分からない。王都の屋敷に留まっているお兄様も、どちら側なのか判断しなければいけないのだ。努めて冷静でいるつもりだが、状況は切迫している。

 けれど、恐ろしいことなどない。


「お嬢様、お手を」


 馬車に乗るため、ファウストが手を差し出す。その手を取って、馬車へと乗り込んだ。だって今、私は己が一番恐ろしくて仕方ないのだから。

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