蟷螂の斧
その後、望月先生は救急車で病院に搬送された。
付き添いには、
本当は
「駄目。——まだ、戦いは終わっていない」
螢さんはそう言って、この大稽古場に残った。
一見するといつもの無表情だったが、よく見ると唇がかすかに震えていた。木刀を握る小さな白い手も。
——何であの時、二人の間に割って入ったんですか!! おかげで僕らは反則負けで一敗ですよ!! どうしてくれるんですか!!
なんて事、僕は少しも思っていないし、思っていても言えない。
言えるわけがない。
だって、もうあの時、望月先生はもう戦える状態ではなかった。であれば、無用に痛めつけるよりも、解放してあげて、病院に運ぶ方が良いに決まっている。
何より、望月先生は、螢さんのたった一人の家族なんだから。
この人は一度、家族を理不尽に失っている。
もう喪失の苦しみなど、嫌だったに違いない。
無論、望月先生は螢さんの倍以上歳上だ。いつか必ず、螢さんより早く
でも、その「いつか」は、今でなくても良いはずだ。
合理性を考えても、感情的に考えても、あの選択は正しかったのだ。
——しかし、現実問題、僕ら『望月派』は一敗を得てしまった。
まだ次鋒戦までしか終わっていない。大将戦がまだ残っている。
双方ともに一勝一敗。つまり、まだ機会は一度だけ残っている。
その最後の一戦で勝利すればいい。……普通の三本勝負であるならば。
問題なのは、『望月派』に残っている大将剣士が、僕であるということだ。この場にいる誰よりも弱いであろう、僕。
対する『嘉戸派』の大将は、嘉戸
今は言ってしまえば……『望月派』消滅の瀬戸際だった。
僕が試合に出ても負ける。
出なくても負ける。
いずれにせよ、『望月派』は敗北し、解体される。
螢さんは、二重の意味で今苦しいはずだ。
僕だって苦しい。
まだ入門してひと月くらいしか経っていないが、僕にとって『望月派』は今や愛着深い居場所となっていた。
稽古内容の素晴らしさもそうだが、それだけではない。僕の好きな人と、その親御さんがいる場所だから。
それが無くなるというのは、やはり苦しいものだ。
けれど、やはり一番キツイのは螢さんのはずだ。
どん底に落ちた自分を立ち直らせてくれたのは、他ならぬ『望月派』だからだ。
それを失うことは、「望月螢
文字通り、己の身を引き裂かれて持っていかれる苦しさだろう。
僕ら二人の間を、重々しい沈黙が支配していた。
その沈黙は、僕らの口へ強くのしかかるようにして、発言を阻んでいた。
「コウ……」
エカっぺが不安げに僕へ呼びかけてきた。
それに対しても、僕は何も口に出来なかった。
それでも何かしたくて、僕はぼんやりと大稽古場の針時計を見上げる。午後一時十五分。
足音が聞こえてきた。ドカドカと、わざとらしく鳴らした足音が。
「やぁ? 湿っぽいねぇ君達。体にキノコが生えそうだよ」
嘉戸輝秀。
その染色金髪の下にある甘く整った顔立ちが、なんとも
僕は軽く睨んだ。
「……あんたには関係ないだろ。ほっといてよ」
「そういうわけにはいかないんだよねぇ。なにせ、三本勝負は終わっていないんだからさぁ。まだ大将戦が残ってるわけ。いくら必敗の大将戦といっても、君らが続けるか否かが分からなければまず始まらないわけ。……あ、言っておくけど先送りすることはできないよ?
煽るような語調に苛立ちを覚えるが、言っていること自体は正論なので言い返しようがない。
「まぁでも、無理強いはしないよ? 負け確定な勝負に出て一生モノの大怪我をするくらいなら、降参してせめて己の身を守るというのも一つの選択肢だからねぇ。安心しなよ、俺はそれが賢い選択だと思うよ? だって君、はっきり言って弱すぎるんだもの。一目で分かるよ。孫子も勝てない戦はするなと言ってるから、戦わないのも戦略のうちだよ。……はははっ! まぁそうしたら『望月派』はなくなっちゃうんだけどねぇ! あ、戦ってもなくなっちゃうかぁ!」
愉悦で声音を高め、高笑いを交えてそう嘲ってくる輝秀。
お腹の奥底でくすぶっていた怒りが弾けそうになった、その時だった。
「——いちいちうるせーんだよこのクソ野郎っ!!」
エカっぺが怒号を発し、拳を振り上げて輝秀へ踊りかかった。
輝秀の間合いの中に入る前に、僕が素早く割って入って、彼女を真っ向から抱きしめる形で押さえた。
外人の血のせいか、エカっぺは僕より十センチくらい背丈が上だ。しかし日頃の稽古の成果なのだろう、僕が足腰を踏ん張らせると簡単に止まった。
「離してよコウっ!! こいつぶん殴ってやるっ!! バカにしやがって!!」
「——もう大丈夫だからっ!!」
激昂するエカっぺ以上の声量で静止を訴えると、彼女は止まってくれた。
見上げる位置にある彼女の顔に、僕は笑いかけ、再び訴える。
「大丈夫」
「コウ、でも……」
「いいんだよ。——君が、僕の代わりに怒ってくれたから」
「……コウ…………」
そう。エカっぺが怒っていなかったら、僕がカッとなって殴りかかっていたに違いない。
彼女は、僕を代弁してくれた。
そのおかげか、僕の中に燃えくすぶっていた怒りが、すっと消えていた。
「ありがとう、エカっぺ」
「え、あ、うん。……それはいいんだけど、さ」
「ん?」
「その…………そろそろ離れてくれると……」
白い頬をほのかに赤く染めたエカっぺが何を言っているのかを、僕は数秒を置いて気づいた。
身長差のせいで、僕の顔はエカっぺの胸の中にあった。
十三歳という年齢に反したボリュームを誇る柔和な双丘の谷間に、僕の頭はすっぽり納まっていた。……どうりで、なんか頭全体があったかいと思った。
「ご、ごめんねっ」
僕は慌てて離れて粗相を謝罪する。
「……別にいいけど」というエカっぺの小さな承認を聞き届ける。
そこへ、輝秀の嘲笑う言葉が投げ込まれた。
「いきなり殴りかかってくるとは、さすが
あからさまな侮蔑的発言。
しかし、もう僕は全く腹が立たなかった。
胸の内にあるのは、ただ、戦意のみ。
——たとえ圧倒的な実力差があっても、こんな奴を相手に、逃げたくはない。
ここで逃げたら、それは僕にとって「生き恥」になる。
「やるよ」
「あ?」
「やるって言ってるんだよ、嘉戸輝秀。——大将戦、僕とあんたが戦うんだ」
輝秀は絶句した。
目を大きく剥いて驚愕を見せたのは三秒ほど。
それからは馬鹿笑い。
ひとしきり笑ってから、からかうような、正気を疑うような、そんな語気で言ってきた。
「おいおいおい、マジで言ってるのかな? 俺は免許皆伝者だよ? んで、君は切紙すら貰っていないヒヨッコ。どう考えても勝負にすらならないでしょ。もうちょっと冷静になりなよ」
「ベラベラとうるさいな。——剣の勝負を決めるのは、紙切れじゃないだろ。剣だけだ」
その発言が響いた瞬間、ずっと遠くで見守っていた
僕の発言のせいか、あるいは香坂さんの爆笑のせいか、輝秀の甘い顔立ちにかすかな怒気が宿る。
「……本気だな? 吐いた唾は飲めないよ?」
「くどい」
「分かったよ…………いいよ、やろうじゃないか。思い上がった小僧に、剣の道の厳しさを教えてやるよ。せいぜい悪足掻きのやり方を考えておくといい。俺はそれを真っ向から打ち破ってやる。——免許皆伝者の恐ろしさ、その身で思い知るといい」
そう言い捨てると、輝秀は兄二人のもとへと戻っていった。……さっき来た時のわざとらしい足音は全くしない。無音の歩行。優れた武人としての片鱗。
僕の両袖が、軽く引っ張られる。
「コウ……」
「コウ君」
右には不安げな様子のエカっぺ。
左の螢さんも、声がわずかに固い。あまり変化しない表情も、どことなく戸惑っている様子。
そんな彼女らに、僕ははっきりと言った。
「確かに、僕じゃあいつに届かないかもしれない。でも、いくら剣士として格上であっても、相手は魔物や神様じゃない。僕と同じ人間だ。ここで逃げたり、勝ちを諦めたりしたら、僕は絶対死ぬまで後悔し続ける。だから————戦うよ」
それからは、何も言わず、木刀を左手に持って大稽古場の中央へと歩いていく。
真ん中に辿り着く。
螢さんと、望月先生が、別次元の剣戟を繰り広げた位置に、僕は立った。
望月先生が殴られて落とした血痕の一滴を見つける。
「っ……ふぅっ…………」
否応なしにおとずれた緊張を、呼吸を整えて無理やりねじ伏せようと足掻く。
——確かに、実力差は圧倒的だ。勝てる見込みは限りなく薄い。
だけど、薄いのであって、皆無であるわけではない。
一つだけ、ある。
輝秀に勝てるかもしれない、唯一の手段が。
僕は黙って立ったまま、輝秀が来るのを待った。
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