避難、そして天狗対策《上》
車に乗ってから聞いたが、望月先生は行きつけの病院から薬を貰った帰りなのだそう。……薬の入った紙袋には「カルシウム拮抗剤」「β遮断薬」と書かれていた。何の薬だろう?
ちなみに、運転手の人は
そういえば直接会ってよく話したことはなかったな、と思う僕。
当然のことながら、望月先生からはここへ至るまでの経緯を問われた。
僕はかいつまんで説明した。
エカっぺが人質に取られたこと、それを助けるために僕が犯人のもとへ赴いたこと、エカっぺの身の無事と引き換えに半殺しにされるよう要求されたこと、そこへ『雑草連合』が殴り込んできて混戦となった隙をついて二人一緒に逃げ出したこと——
まずは、そんな大まかな説明。
次に僕は、補足説明をした。ある意味、一番重要である説明を。
——『雑草連合』のリーダーである
——その天狗男が、『至剣』らしき奇妙な剣技を使っていたこと。
それらを聞いた途端、無表情だった望月先生の表情が動いた。
カイゼル髭に覆われたその口が、固い扉のように開いた。
「……煙のように消える剣、か。なるほどな…………確かに、そんな『至剣』の使い手を、わしは一人だけ知っておる」
「それは……嘉戸輝秀という人ですか?」
望月先生は少し考えてから「左様」と肯定した。
「とはいうものの、これはわしが直接見たわけではない。
そのことは知っていた。香坂さんが言っていたから。
最初に聞いた時は、焦りと安堵を同時に味わったものだ。
嘉戸宗家の剣士という文句無しの強者が螢さんに挑んだという焦りと、螢さんが勝ったという安堵。先を越されなくてよかった……!
まぁ今はそれは置いておいて。
もう一つ、望月先生に話しておきたいことがある。たとえ天狗男が嘉戸輝秀でなかったとしても、ほぼ確実に嘉戸宗家の人間であることを示す証拠が。
——天狗男は、『望月派』という言葉を使っていた。
この単語は、嘉戸宗家か、それと関係が深い人間しか使わない単語だ。
それが出てきたということは、あの天狗男の正体が嘉戸宗家の人間である可能性が非常に高いことを意味する。
「……なるほど。それはなおのこと臭い。その天狗面の男が、嘉戸に名を連ねる者である可能性は高いであろうな」
望月先生にそのことを説明すると、僕と全く同じ見解が帰ってきた。
しかし、もしそうだとするなら、一体何が目的で僕に危害を加えようとしたのだろうか?
「まさか、嘉戸宗家がとうとう本気を出して、『望月派』を潰しにきたとか……?」
戦々恐々とそう呟く僕に、望月先生はかぶりを振った。
「いや。もしそうであるとするなら、あのようなちまちましたやり口はしないであろう。もっと大きな手段を用いてくるはずだ。嘉戸宗家の影響力は報道機関にまで及んでいるから、その力を上手く用いればいい。今回のような暴力的なやり方は、かえって宗家の立場を危うくしかねない」
「では、どうして……?」
「輝秀個人の嫌がらせ、の可能性が高いやもしれん。実際、彼にはそれをする理由となり得る個人的な動機が存在する。……螢に負けた、という動機がな」
僕は頭の中で、何かがかっちり噛み合う感覚を覚えた。確かに、それなら辻褄が合う。
その先を話そうとした途端、この車は望月家へと到着した。
後藤さんは最初は僕らを学校に戻そうとしたが、今戻ったらまた狙われる可能性がある。なにせ相手は僕らの中学校まで知っているのだ。もしまたあの連中に捕まったら、今度は『雑草連合』がかけつけてくれるなんていう幸運は絶対に訪れない。
僕が望月先生の車に乗せてもらった時、敵はまだ結構遠くにいたため、先生方の顔もよく見えていなかっただろう。であれば、僕とエカっぺがどこへ逃げたかもわからないはずだ。
どこへ逃げたのかも分からなければ、学校にいた時のように人質のポラロイド写真を送り付けて脅すことも出来ない。……嘉戸宗家であれば、僕が望月派の弟子であることも知っているだろうから、逃げた先は十中八九望月家であると察することができる。だが、もし望月家へ新たな人質の写真を送りつければ、自分達が嘉戸宗家の人間であることを白状してしまうこととなる。もしもそれを大っぴらに伝えたいのなら、わざわざ仮面をかぶって乱暴狼藉を働いたりはしない。つまり天狗男の行為は嘉戸家の総意ではない。
だからこそ、現段階で最も安全な場所は、望月家しかない。
——まぁ、全部望月先生の発案なのだけれど。
この黒塗りの車は、望月家の母屋の裏側の小さい駐車場にすっぽり納まった。全員車を降りたら、庭へ続く裏口から敷地内へ入り、さらに玄関口へと来てそこから中へ入った。
僕にとってはすっかり慣れてしまった望月家の庭園だが、エカっぺは「純和風〜……」とか感嘆の呟きを漏らしながらきょろきょろと周囲を見回していた。そんなに面白いのかと僕が問うたら「パパが好きそう」とのこと。会ったことはないけれど、エカっぺの親父さんは日本贔屓であるらしい。
お線香のいい匂いがする廊下を歩き、最初のT字路を左へ曲がったところで、望月先生が運転手さんにお茶をと頼んだ。承って台所へ向かうのを見送ってから、僕ら三人は居間へと入る。
脚の短い卓を、座布団を下に敷いて三人で囲う。僕とエカっぺは隣り合わせで、望月先生が一人で対面する形。
初めて望月先生に会った時は、彼一人だけで二人分以上の面積を取っているような異様な威圧感を覚えたものだ。今は少しガタイのいいお爺さんにしか見えないが、エカっぺの今の心境たるや先生と初対面の頃の僕と同じに違いない。
「……そういえば、自己紹介が遅れていたね。わしは望月
「あ、あたしはエカテリーナです。エカテリーナ・伊藤です」
「ふむ……なるほど。君があの「エカっぺ」君か。コウ坊がよく言っておったよ。とても可愛らしい女友達がいるとな」
「かわっ……!?」
なぜだか急にエカっぺの声が上ずった。かと思えば、僕の方を見てくる。その白い頬はなぜだかうっすら赤い。
「ん? どうしたのエカっぺ?」
「い……いや、なんでもない、の」
「トイレの場所なら僕知ってるよ? 案内してあげ——いてててて!? なんでほっぺた引っ張るのぉっ!?」
「もぅっ、コウのばかっ!」
ぷいっとそっぽを向くエカっぺを、僕はじんじんするほっぺたをさすりながら困惑の目で見た。な、なんだよぅ……
そんなやりとりをする僕達を見ながら、望月先生は軽い笑声をまじえて言った。
「コウ坊、お前さんも罪な男だのう」
「え?」
「……いや、なんでもない。そのうち自力で気づくだろう」
望月先生は咳払いをして、話の軌道を戻しにかかった。
「して、伊藤さんとやら」
「エ、エカテリーナでいいです。……この顔で伊藤さんって、なんか変でしょう」
「わしはそうは思わぬが……まあ君がそれで良いのならそうしよう。して、エカテリーナさん、まずは謝罪をしよう。——すまなかった。どういう形であれ、無関係であるはずの君を、我が流派のいざこざに巻き込んでしまった」
雲衝く威容の老夫が、卓に頭をぶつけんばかりに深く一礼する。
「え、ちょっと、何謝ってるんですかっ? 流派のいざこざって、どういうことっ?」
それを見て、エカっぺは逆に困惑してしまう。
うん、気持ちはわかる。知識不足なせいで状況がまだ全然飲み込めていないというのもあるだろうが、教科書に載ったほどの大人物がこんなふうにこうべを垂れて謝罪しているのだ。これで平然としていろなんて、普通の中学生には無理な相談である。
でも、この状況を理解するための知識の不足は、僕達次第でどうにでもなる。
しばらくして顔を上げた望月先生に、僕は目配せした。……至剣流と『望月派』の確執について話すべきだろうか、と。
先生は重く頷くと、そのカイゼル髭をたくわえた口をおもむろに動かした。
「うむ、巻き込んでしまった以上、まずはその事から話すのが筋であろうな。……エカテリーナさん、これからする話を信じるか信じないかは、君の判断に任せよう」
後藤さんがお茶を持ってきたところで、話は始まった。
明治以降の至剣流の歴史、至剣流が学校教育にねじ込まれる過程で起こった数々の伝承改変、それによる宗家の分裂、分裂した宗家の片方がこの望月家であること……それらをかいつまんでエカっぺに教えた。
聴き終えたエカっぺは、どう答えたらいいか分からなそうな顔をしていた。
「…………正直、にわかには信じ難いけど。でも、コウが前に言ってた『
「エカっぺ、それじゃあ……」
「うん。ひとまず信じておくわ。二人が嘘を言ってるようには見えないし、それに……あんたが言うことだもん。信じるよ」
それを聞いて、僕は嬉しくなった。
「それで……至剣流と『望月派』のことは分かりましたけど、それが今回の一件とどういう関係があるんでしょうか?」
「うむ。ここからが本題だな。先ほど君達を襲ったという天狗の面の男とやらの正体……それは、嘉戸宗家現家元の末子である嘉戸輝秀である可能性が高いという話だ」
驚いたエカっぺに、僕はその根拠を説明した。
話しているうちに僕は感情が高ぶってしまい、口調が強くなった。冷えていた怒りの熱が蘇るのを実感した。
エカっぺに対する説明を終えた後、僕は望月先生へ持ちかけた。
「抗議しましょう、先生! 嘉戸宗家に! これだけの証拠が揃っているんです! 正義は僕達にあります!」
「……いや、駄目だ」
「なぜっ?」
「——その証拠が、客観性を持っていないからだ」
有無を言わせぬその一言に、僕はたじろいだ。
「確かに、その天狗面の男は煙のような『至剣』を使い、さらには嘉戸宗家や一部の人間にしか知り得ない『望月派』という単語をこぼしたのだろう。これらは確かに、その天狗の正体が嘉戸宗家の末子の輝秀であるという強い証拠となるであろうな。だが……それらはお前さん方二人の経験という段階で完結してしまっている。第三者にハッキリと示すための決定的証拠とはなり得ない。嘉戸宗家側がすっとぼけてしまえばそれで終いだ。そして、嘉戸宗家は立場上、面子を大いに気にする。逃げ道が用意されている限り、自分から
「そんな……どうにかならないんでしょうか?」
不安に駆られた僕の問いに、望月先生は難しい顔をして答えた。
「……まず、この事実を螢にも伝え、その上で話し合おう」
「そうですね。僕達『望月派』全員の問題ですから。……あれ? そういえば螢さんは?」
望月先生は可笑しそうに笑ってから「おいおい中学生、今は平日の午前だぞ? 学生はみな学校にいるじゃあないか」と言ったので、僕はハッとなった。そういえば、僕達も本当なら、今頃は学校で授業を受けているはずだったのだ。
かといって、今この家を出るという選択肢は無い。もし今学校にノコノコ戻ったなら、またあの天狗面の集団に見つかりかねないからだ。
というわけで、僕とエカっぺは螢さんが来るまでの間、時間を潰さなければならなくなった。
とはいえ、テレビゲームなんていうイマドキの娯楽がこんなお堅そうな家(失礼)にあるはずもない。本棚へ目を向けても、欧州戦史だの戦争観の変遷だの集団的自衛権だのやたらと難しそうな本ばかりで僕ら中学生が楽しめそうなものは見当たらない。
そんな僕らのために望月先生が用意してくれたのが、将棋だった。
僕もエカっぺも、将棋の心得はあった。なのでそれで遊ぶことにした。
まずは僕とエカっぺが対局し、僕が惨敗した。
しかし、そんなエカっぺも、望月先生には歯が立たなかった。待ったアリの対局であっても、あっという間に詰みに追い込まれた。流石はかつての名将というべきか。
そんな名将である望月先生と、突撃バカの愚将である僕とがその後対局。いや、対局というより、将棋のノウハウの教授に近かった。飛車角を無闇に運用するなとか、数手先を意識しろとか、いろいろと注意を受けた。
そんなおかげか、再びエカっぺと対局したとき、勝てはしなかったもののかなり良い所まで追い込むことができるようになった。
そんな感じで望月家での時間は過ぎていき、やがて青空に茜色が差し始めた頃。
「ただいま」
そんな簡潔な挨拶とともに、制服姿の螢さんが居間にぬっと姿を現した。
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