お弁当、そしてポラロイド

 曇り空の隙間から微かに朝日が覗く、十月九日の朝。


「まったく……パパとママのばか……!」


 エカテリーナ・ルドルフォヴナ・伊藤は、ぶつくさ言いながら通学路をカツカツ歩いていた。人種に起因する色白な頬は、今なおかすかに熱を持って赤みを帯びていた。


 理由はひとえに、今朝に両親とケンカをしてしまったことだ。


 いや、ケンカではないかもしれない。何せ怒ったのは自分だけで、両親はそんな自分をニコニコと微笑ましげに眺めていたのだから。「青春だなぁ」と。


 怒った原因は、今、鞄の中に入っている弁当箱だった。


 いつもは母が作ってくれて、量もさほどでもないのだが、今日のは自分が作ったもので、少し量も多め。おかげで鞄がいつもより重い。


 いとしの光一郎こういちろう君に食べさせるためでしょ——その弁当に対して、母がからかい気味に発言した言葉だ。それにムキになって怒ってしまったというわけだ。


(……コウに食べさせるために作った、っていうのは本当だけど)


 それを再確認した瞬間、再び顔が赤熱した。桜色のリップが自然と緩く微笑を浮かべる。


 新しく作り方を覚えた、ひじきの煮物。それを光一郎に食べて欲しくて、早起きして作った。


 料理を覚えるたびに、それを弁当に入れて光一郎に食べさせる。それを食べた光一郎の幸せそうな可愛い笑顔を見る。それがここ最近のエカテリーナの楽しみだった。


 そのたびに今朝のごとく両親(主に母)にからかわれるのだが。


 けれど、学校の事を話すのをかたくなに避けていた小学校時代に比べれば、健全な変化といえるだろう。


 これまでエカテリーナは、学校で受けた嫌がらせの数々を、決して両親には相談しなかったのだ。


 自分は日本社会が嫌いだったが、両親は違う。母親は日本人だし、父親は大の日本文化贔屓びいきだ。あの二人のために、この国から離れる理由を作りたくはなかったのだ。


 でも、両親は薄々察していたはずだ。エカテリーナがどんなに表面を取り繕おうとしても、しんどい時にはどうしても顔と態度に不満が現れてしまうのである。何より、自分を産んだ親だ。なおのこと気づかないわけがない。


 そんなエカテリーナだったが、中学生になってからは、心から明るい表情を浮かべる機会が増えた。


 それどころか、自分からすすんで学校での事を話すようになった。小学校の頃ではあり得なかったことだ。


 理由はひとえに、光一郎の存在だ。


 自分に対して偏見無しで接してくれた、初めての男の子。


 エカテリーナの話す学校での話題には、必ず秋津あきつ光一郎という少年が登場した。

 ——コウってば、絵が凄く上手いの。見てこのトンボの絵。すごいでしょ?

 ——コウってば、虫籠むしかごいっぱいに虫入れて模写しようとしてお母さんにすっげー怒られたんだって。アホでしょ?

 ——コウってば、国語は得意なのに、数学は大の苦手なの。だからあたしが教えてあげてるんだ。あたしがいなかったら、あいつは赤点で追試なんだから。


 コウってば、コウってば、コウってば——そんな話をしているうちに両親も察してしまったらしい。……自分が、光一郎の事を好いていることを。


 無論、それは叶わない恋だ。光一郎にはすでに、想い人がいる。


 だが、それでも自分は光一郎が好きだ。相手に意中の人がいるからといって、容易に捨てられる想いではない。


 だから、自分はこれからも、できる方法で光一郎に尽くそうと思う。


 その一環として、今朝早くに起き、先日新しく覚えた料理を作って大きめの弁当に入れた。


 エカテリーナ一人では食べきれない量であるそれを見た母は、それが光一郎に食べさせるための量であるという事を察してしまったようで、にんまりした顔をした。


 「今度、その光一郎君を家に連れて来なさいよぉ。歓迎するわよ」とからかい気味に言う母に追従して、父も「お父さんも会ってみたいな。未来の息子になるかもしれない男の子だからね」と言い出す始末。そんなんじゃねーから! と慌てて否定するとますます微笑ましげに顔を見合わせる両親。……正直、勘弁して欲しい。


(でも……二人とも、嬉しそうだったから、いいかな)


 小学校の頃はまるで腫れ物に触るように学校の話題に触れていたが、今ではそんな気配は感じられない。


 たったそれだけのことが、からかわれた恥ずかしさ以上に、嬉しかった。


 これも全て、光一郎のおかげだ。


 それだけでも、彼を好きになって本当に良かったと思っている。


「あいつ……喜んでくれるかな」


 お手製のひじきをハムスターみたいに可愛く頬張りながら喜ぶ光一郎の笑顔を想像して、エカテリーナの口元が我知らず綻んだ。


 自然と足取りが軽くなる。


 曲がり角を曲がろうとした時だった。


 その角から、人の足が伸び出てきたのが見えた。なので慌てて止まった。


 一人……いや二人、三人、四人……七人と、ぞろぞろと出てきたのは、木刀で武装した男達。全員エカテリーナより明らかに年上だ。


 その七人の男は、あっという間にエカテリーナを取り囲んだ。


「……なに」


 突然の穏やかならない行動に、エカテリーナは内の怯えを隠すように睨みをきかせる。


 七人の中で特に目を引いたのは、をかぶったパーカーとジーンズ姿の男だ。


 その天狗面の男が、こもった声を仮面の下から発した。


 若いが、明らかに成人しているであろう声。


「——ちょっと付き合えよ、










 エカっぺは、結構早めに学校へ来る。


 理由を聞くと、注目されたくないからだそうだ。


 遅く教室に来ると、そのまばゆい金髪と碧眼は嫌でも大勢のクラスメイト達の注目を集める。彼女がロシア人であるならなおのことだ。


 ロシア人が、現在の日本でどういう目で見られるのかは言わずもがなである。


 もやはエカっぺには慣れっこらしいが、それでも鬱陶しいことには変わりないという。


 だから、早めに教室に来て、一人の時間を満喫する。


 そのはずなのだ。


 けれど、今日は。


「……遅いな」


 僕は机で頬杖を付きながら、ふとそうこぼした。


 現在、八時二十五分。朝のホームルームまであと五分という、遅刻寸前の時刻。


 それなのに、まだ、エカっぺは来ていない。


 もしかして、今日は具合が悪いのかな?


 エカっぺにも僕にも、友達がいない。だから知っていそうな人は先生くらいしかいない。


 先生来たら訊いてみるかな——そう思った時だった。


「——ねぇ、秋津くん」


 不意に、真横から声をかけられた。


 反射的に振り向くと、一人の女子生徒が僕の机の隣に立っていた。クラスメイトの女子だ。名前と顔以外全く知らない子。


「僕に何か用かな?」


 僕は友好的に微笑して応じたが、その女子はいとわしいものを見るように眉間にシワを寄せた。……僕がエカっぺの友達だから、嫌われているんだろう。


「これ」


 女子が投げるように差し出してきたのは、一枚の封筒。ダイヤモンド貼りの洋封筒で、ハートのシールで封がされてある。


 このデザインは……


「ラブレター?」


「あんた馬鹿? なんで私があんたなんかにそんなの渡さなきゃいけないのよ。死んでもあり得ないから」


 女子のキッツイ物言いに僕は軽く凹む。そ、そこまで言わなくても……


「それに秋津くん、あのロシア人と付き合ってるんでしょ?」


「エカっぺのこと? 別に付き合ってないけど」


「えっ? いやでも、あの女のあの様子は明らかに…………ああもうっ、とにかく、これ渡すから。なんか知らない男の人が、秋津くんにって渡してきたのよ」


 ほら、と耐えかねたように僕の机へ封筒を放った。


「渡したから。じゃ、さよなら」


 素っ気無く言い捨てると、女子は離れていった。


 取り残された僕は、しばらくその封筒と睨めっこした。


 ラブレター……ではないと思う。だって、これをさっきの女子に手渡したのは男だったらしいから。……の人って可能性もほんの微かながらあるかも分からないが。その時は全力でお断りしよう。


 匂いを嗅いでみる。変な匂いはしない。

 耳を近づける。機械じみた音は無し。

 ぺたぺたと触って、窓から差す陽光で透かして見る。やや分厚い紙と、薄い紙が入っているのが見えた。


 少なくとも、危険物である可能性は無いだろう。


 僕は意を決して、その手紙の封を解いて、中の紙二枚を取り出した。


 折り畳まれた紙と、ポラロイド写真だった。


「…………え」


 ポラロイド写真を見て、僕は凍りついた。


 そこに写っていたのは、見間違いようもなく。


……!?」


 両手足を縛られた、金髪碧眼の女の子の姿だった。


 想像の範疇はんちゅうを軽く超えたその写真のありさまに、僕は思考が凍る。


 どうしていいか分からない。そんな僕の意思を表すように両手がしばらく宙をさまよい、やがてもう一枚の紙をとりあえず掴んだ。折り畳まれたソレを機械的に開く。


『こノ娘をかエして欲シケれバ、以下ノ場所まデ一人で来イ』


 新聞紙の活字を切り貼りして作られたその短い文章の下には、手書きの地図が書かれていた。


「————っ!!」


 次の瞬間、僕は机に立てかけておいた木刀を握り、教室を勢いよく飛び出した。

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