第7話『世界は覆る』
小学三年生頃の出来事と言えば、今も記憶に残っているのは保健の授業だ。
忘れたくても忘れられない。忘れようとしても自然と蘇ってしまう記憶なのだ。正直、小学三年生の保健の授業なんて覚えてないという人も居るだろう。
でも、私にとっては保健の性の授業だけはどうしても残ってしまうのだ。
保健の先生は女性のHN先生だった。スラリとした綺麗な先生だったのを覚えている。
HN先生は、手先が器用で、いつも授業の時はオリジナルの絵や工作した物を用いて説明してくれた。
その日は性の違いという授業で、春の始まり、三年生の始まりには適していたのだと思う。九歳前後と言えば、早い子はそろそろ体の発育が始まり、早い子は性の違いを意識する頃だ。故に、春の初めにはそういった授業が行われていたのだ。
そんな中、HN先生はイラストを用いて男女の違いについてを説明してくれた。コウノトリが子供を運んでくれるのではない事や、男女の発育の違いについても説明してくれた。
その中で、男の子の服を着た子と女の子の服を着た子を見比べて、どちらが男の子でどちらが女の子か当てるクイズも出された。
当然男の子の服を着た子が男の子だと皆が手を挙げたのだが、イラストを捲ると男の子だった子は胸が膨らみ、女の子だった子には男性器があった。
そこからHN先生は性違和についての話を始めた。
世界には、男の子の体でありながら女の子の心を持った子、女の子の体で男の子の心を持った人が居るなどが説明された。
それについて、皆がおかしい、変だと言うのを聞いて、私は初めて自分が異質な存在である事を知ったのだ。普通に考えれば、男の子は男の子の心で、女の子は女の子の心なのだと。
クラスメイトの言う変な存在、おかしな人間、気持ち悪いなどなどの言葉が私の心をグサグサ刺していくのうは言うまでもなかった。
しかしそれは、子供心に思った事を言っているだけだから悪気はない。それでも私はそこに居る事に居心地の悪さを感じた。何より――自分が何者でなぜそんな異質なのか分からなかった。
その最後に、私は珍しく手を挙げた。質問をしたのだ。
その時、私はこう言った。
「男の子の体は一生男の子で、女の子の体は一生女の子なのですか」と。
私の最大限の勇気を持って尋ねると、HN先生は暫く私を見つめた。HN先生は思い出したように、その通りですと言った。
それに皆が安堵したのを今も覚えている。それが、私をむしろ傷つけた。
私の夢は、私の願いは、一生叶わないのだと。
この頃の私は、母やNB先生のようなお母さんになりたかった。好きな男の子と恋愛して結婚して、子供を産んで、幸せな家庭を築く事に憧れていた。
いつかそんな日が私にもやってくる。成長する過程で体も変わって、本当の女の子になれると夢を見ていた。馬鹿な夢を。
それが一瞬にして粉々に打ち砕かれ、皆と違う事に気付いた瞬間、私は初めて絶望という事を覚えた。世界は一瞬にして、自分の間違いを、自分の夢を打ち砕いて覆したのだ。
その日私は平常心で過ごす事に精一杯だった。この悩みを、この打ちひしがれた思いを悟られないようにするのが精一杯だった。
そんな放課後、担任の先生から声が掛かった。HN先生が保健室に来て欲しいと。
私は恐る恐る、何かいけない事をしたのか、それとも私の変な存在という事がバレたのかと不安で仕方なかった。
保健室に行くと、HN先生以外誰も居なかった。
HN先生はソファーに座っていて、私にもソファーに座るよう言った。私はHN先生に言われた通り、隣に腰かけた。
そして、HN先生は迷っていたようにこう切り出した。
「ちゃん、っていう呼び方の方が良いのかな。それともくんの方が良いのかな?」
私はドキリと胸が高鳴るのを感じた。HN先生には悟られてしまったのだと。
その後、HN先生は私に色々と尋ねてきた。
授業の事、性の違いの事、お友達の事。そして――私は一体どちらなのかと。
最初まではハキハキと答えていた私も、その最後の問いは歯切れが悪くなり、黙った。そこで何と言うのが適切なのか。何と言えば先生の誤解、否、先生の質問を切り抜けられるのか。
でも、HN先生は私にこう言った。
誰にも言わない。お母さんにも、担任の先生にも、お友達にも言わないから教えて欲しい。
その言葉を信じて、私は話し始めた。自分が男の子の心ではなく、女の子なのだと。
物心ついた頃には、男の子の体で、そこに違和感を覚えていた事。なぜ、私には男性器がついているのか、ずっと疑問でずっと嫌だった事。
トイレに行くとも男性用で、他の人の男性器が見えるのが嫌だった事。女の子の服を着られず、キャラクターや可愛い物を持っていると不思議がられた事。
将来、お母さんには成れない事。
そういった思いを吐露し終えると、HN先生はこう言った。
話してくれてありがとう。大丈夫、大丈夫だからね。あなたは何も変じゃないし、何もおかしい所はないよ。
そう言ってHN先生は私を抱きしめてくれた。私は気付いたら先生の腕の中で泣いていた。辛かった思い。苦しかった思い。誰にも聞けず、誰にも言えなかった思いが、漸く癒えた事に安堵したのだと思う。
そうしてHN先生は私を帰す前に、またここに来て話そうと言ってくれた。
その後、私は少しばかり保健室に通って先生と話す事になる。
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