第4話
パリ一八区。『芸術の街』として知られ、モンマルトルの丘と呼ばれる名所などを有し、パリ二〇区の中でも最大級の人口を誇る地区。しかしながら場所によっては治安が悪く、パリに住んでいてもなかなか訪れる機会がないとされる地域である。昼間は観光客で多いが、夜になると危険が伴う場所とも言われている。
その一八区の、左右にマンションやミュージアムなどが並ぶ大通りを、二人の若者が歩いている。ひとりは背の高い女性、サロメ・トトゥ。もうひとりは、さらに身長が頭ひとつぶん高い男性、ランベール・グリーン。いかがわしい店も並んでいるのだが、ふたりにそんな気配は微塵も感じない。むしろ悪いオーラが見えてくるようだ。
「別に俺ひとりでもいいんだが。その場合は俺が全額もらうが」
真っ直ぐ前を見ながらランベールは言い放つ。歩きも女性に合わせるつもりのない、大股歩き。大きなキャリーケースを運びながらのため、時々段差で歩を止めるが、女性への配慮は感じられない。
「こっちのセリフだっての。あんたの接客はたまにクレームが入るって社長から言われてんのわかってる?」
早歩きでギリギリついて行っているサロメだが、トートバッグなため、歩を止めることはない。が、やはり体力的には辛いのか、肩で息をしている。
横目でチラリとそれを見たが、ランベールはすぐに目線を戻して真っ直ぐ前の空気と会話をするかのように歩く。
「お前もクレーム入ってるぞ。勝手に家にあるもの食べたって」
「食べちゃダメって言われてないし」
「普通は食わん」
くだらん、と吐き捨て、ランベールはそれでも前へ進む。そろそろ視界からサロメが消え、後ろから声が聞こえてくる。聞こえないフリをして前へ前へ。
目的地は大通り沿いのアパート。そろそろのはずだ、ピアノ可賃貸。月八〇〇ユーロ。
「ただでさえどんどんパイは減ってってるんだから、少しでもリピートしてもらうの。ねぇ、わかってんのー!?」
歩くのをやめ、サロメはもうほぼ走っている。体育の授業の成績は悪くないが、ローファーで走ることはない。目的地に辿り着く前に疲れが溜まりそうだ。こいつと喋るだけでも精神的に疲れるってのに。
「で、今日のお客さんはどんな感じだ?」
不意にランベールが今日の仕事の詳細を問うてきた。もちろん前を見据えたまま。しかし、自分から質問した手前か、心なしかスピードが緩んでいる。心遣いができているのかできていないのかよくわからない。
頭の中に入れていた情報をサロメは伝える。ランベールのスピードは落ちてきているが、自分のスピードも落ちてきている。プラスマイナスゼロで、結局疲れる。
「ピアノはゼェ、ガヴォーのモデルT。まぁ、ゼェ、色々と、ゼェ、直すとこありそうだけど、ゼェ、鍵盤によってフォルテシモが、ゼェ、出づらかったりピアニッシモが、ゼェ、出づらかったりってのが一番ね、って喋りづらいわ!」
ひとりでツッコミを入れつつ、サロメはさすがに一旦止まった。天を仰ぎ、深呼吸をする。深呼吸はイチで吸うのではなく、イチで吐き切る。ニで吸う。これが一番いいと雑誌か何かで見た。
「ガヴォーのベビーグランドはもう生産されていない貴重なやつだ。インテリアだと思ってるタイプか?」
危険な一八区に女ひとり置き去りにしてもいいのだが、一応ランベールも止まる。呼吸は乱れていない。やっとサロメに振り返る。
「どうも少し前に他の調律師にやってもらったらしいんだけど、全然直ってないみたい。原因はいっぱいありそうね」
「調律は値段相応。身に染みたことだろ」
ふん、と鼻を鳴らし、ランベールは興味をなくす。信条として、お客様第一という精神はある。あるのだが、ピアノを粗末にする人間を嫌う。聞いた限りではあまりいい印象はない。実際に見てみてから判断は下すが、マイナスからのスタートだ。
「そこで我々の出番てわけ」
「下手にいじられてるとかえってやりづらいんだがな」
今までも、何度か他の調律師が調律に使うピン穴を広げてしまったり、逆にキツくしすぎたりと迷惑をかけられたことがあった。それを思い出してランベールは気持ちが下向く。
はいはい、と二度手を叩き、サロメは気持ちを入れ替え、早歩きしだした。
「文句ばっか言ってんじゃないっての。お客様のために! ほら行くわよ!」
もはや何度目かもわからない舌打ちをして、ランベールは日も落ちてきた街並みをあとに続いた。
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